パラリンピックはキライです(2006.03.06) ●へそ曲がりで申し訳ないことです。他人(ひと)の不機嫌を吹き付けられて気持いいいはずがない、というのは重々承知の上で、ひとくさり。 ●トリノ冬季オリンピックがやっと終わって、騒々しさから解放されたと一息ついたら、トリノ冬季パラリンピックが10日から始まるのですね。 ●鬱陶しいなあ。ただでさえ、「感動音頭」に踊らされやすい日本人、「障害を『超えて」活躍する」姿に、感動感動また感動、の嵐なんでしょうね。 ●開会式でオノ・ヨーコが「Imagine」の歌詞を朗読したんでしたっけ?みんなで歌ったのだったかな?自分で見てないから、よく知らないのですが。その歌詞の一部は Imagine there's no countries It isn't hard to do Nothing to kill or die for And no religion too Imagine all the people Living life in peace....  ですね。こういう歌詞を感動的に聞いて歌って(?涙を流し?)、あたかも自分が反戦平和を愛するもののごとくに錯覚しながら、オリンピックという「代理戦争」に熱中し、「日の丸が揚がらない。君が代がはまだか?」って「国に執着して」騒ぐという神経が私には理解できません。  戦争がやまず、テロもやまず、宗教の対立もやまないなかで、テロへの厳戒態勢で「隔離された平和」に酔っても、事態が好転するとはとても思えません。 ●健常者五輪の方では、「感動をありがとう!」と薄っぺらに叫ぶために、マスメディアは、いろいろ裏話なども仕込んで、さあ、「夢は叶う」「こんな苦労を重ねてメダルに至った」なんて「成功物語」を大安売りしたかったのでしょうが、コケマシタネ。喜ばしいことでした。(パラリンピックでもいろんなネタがもう仕込んであるんだろうなぁ。思うだにウットウシイですね。) ●荒川さんのクールさは爽やかでした。 ●はっきり言って「夢は叶いません」。夢が叶った人が「夢は叶う」と言うのは当たり前。その「成功物語」をまるで自分にもチャンスがあるかのごとく錯覚して喜ぶだけでしょ。 ●夢が叶う人はごく少数なのです。数少ない夢が叶った人のかげに、膨大な夢が叶わなかった人々がいることを忘れてはいけません。逆に、夢が叶わない人がたくさんいて裾野が広いからこそ、夢が叶う人が出ることもできるのかもしれません。そういう意味では、夢が叶わない、という形によって、夢が叶う人を支えてあげる、というようにして、夢は叶うのです。 ●ただ、強い夢を抱くなら、一生、その夢を人生の軸として常にその夢と関わりあいながら生きることはできます。これは、かなりの確率で正しいと思いますよ。夢がストレートには叶わないということだって、夢を軸とする生き方の一つではありうるのです。 ●私自身は50代も終りにさしかかって振り返ってみると、結局10代の終りから20代の初めころに考えていたことの回りをぐるぐる回っていたのだなぁ、とつくづく思います。そのように、私の夢はかないました。 ●障害者を長くやってきた身からみると、「せっかく障害者になって、社会の『競争原理』から身が引きはがれて、その愚かさを客観視できる高度な立場を持ちうるようになったのに、何を好き好んで、『競争』にうつつを抜かしにいくのだろう?」と思えるのです。 ●3月3日の午後に「バリアを低くしてください」という話を書きました。そこで私はこんなことを書いています。  「戦争の時ほど『効率』が求められることはありません。国力すべてを戦争に注ぎ込もうとするのですから。ですから、戦争の時には、障害者は『存在そのものが非国民』になってしまうのです。国の戦争遂行の効率の足を引っ張るだけですから。」 ●その日の朝日新聞夕刊に 「ニッポン人脈記」市民と非戦:10 函館、過激でハイカラ 障害者は足手まといか というタイトルの記事が出ています。ここから、部分引用します。  憲法を変えるなと9人の文化人が呼びかけて始まった「九条の会」に、「1人くらい専門家がいないと」と言われて入った憲法学者奥平康弘(76)は、北海道・函館の生まれである。  日米開戦の翌1942年、町の薬局の息子、奥平は「恥ずかしいんだが、中学受験に失敗して」高等小学校に行く。そこで、のちに函館文化のリーダーになる木下順一(きのしたじゅんいち)に出会う。  「彼は子どものころカリエスで右足を切断した。親しくなると、義足を外してふくよかな肉を触らせてくれた。ぼくは函館中学に進んだが木下は行けなかった」    (中略)  中学に行けなかったのはどうして? 木下は「少年の日に」(河出書房新社)にこう書いた。  「函館中学はすでに2度落ちていた。校長に会いに行く。校庭で中学生たちが重い荷をかかえて走ったり壁をよじのぼっている。校長は『君にはできるか。中学は単に勉強する場ではない。軍事教練ができなければ』とうれしそうに言ったのだった」  戦争をしている国に障害者は足手まといらしい。木下は泣いた。近くの牧師夫人が励ましてくれた。「口惜しいわね。国は片足に税金を使いたくないのでしょう。差別で野蛮な思想です。戦わなければだめね」    (中略)  奥平は、木下に「平和集会」に来てくれと頼まれて何度か函館を訪れた。「木下は、憲法9条はむろん、法の下の平等を定めた憲法14条を大事にしていたな」と奥平。「人間は次々と生まれてくる。そこには欠陥のある人間もまじる。これをいじめるのはおかしい。そういう人もいるから社会は社会として成り立っている、と」    (中略)  木下の人生は、しかし不幸だったわけではない。年上の中学の音楽教師だった富美子(ふみこ)との出会いがある。木下の絵画と文学の才能を認め、周囲が「片足の人と」と言って交際を禁ずるのを押して結婚、「私が1日でもあなたより長生きしなくちゃ」と言い続けた。    (後略) ●人生が幸福か不幸かなんて、自分が評価するものでしょう。他者の立ち入る場ではありません。障害者は不幸だなんて決めつけはいけません。障害は不便ですが、不幸かどうかということとは全く無縁なことです。 ●障害者の障害というものは一人一人みんな違うといっていいでしょう。だったら、障害者スポーツは「一人一種目」なのであって、「全員が優勝・金メダル」でいいじゃないですか。 ●車いすに乗っている、というレベルで障害の程度がそろっているかといえばそうでもないようですしね。 ●健常者が下肢を固定して車いすに乗って一緒にスポーツしてはいけませんか?(固定しないと、踏ん張りがきいてしまうので、ハンディがつきますね)。 ●脊髄損傷の方々は、健常だった時代を経験してから障害者になられた方も多いのでしょうね。「何で自分だけが」「障害さえなければ」というような思いはとても強いのだと思います。私のように、記憶などない満1歳でポリオに罹患した者は、障害者であることが当たり前で、その上に自分の自己形成を行なったのですから、ちょっと脊髄損傷の方々の思い入れとは違ってしまうのでしょう。 ●ですから、障害者にはなったけれど、色々なことができるんだ、「やればできる」という感覚が強いのかな。でもね、肉体的なDisabilityを抱えたことは事実なんだし、できないことはいくらがんばったってできはしないのです。それはあたりまえ。  「自分の能力を超えることができた」なんてのは嘘っぱち。能力の限界と決め込んでいた線を踏み出してみただけでしょ。人間は、できることしかできない、というのは、これも当たり前なのですよ。  競うべきは「他者」ではないのです。自分自身の能力をどこまで推し進めていけるか、自分はここまで、と決めつけてしまうのは楽なことなので、そういう楽したい自分だけが競うべき相手です。スポーツのこういう性格がよりはっきり出るのが障害者スポーツではないでしょうか。体を動かせるということは最高に楽しいことです。スポーツの原点って、体を動かして楽しむっていうことなのではないでしょうか。 ●スポーツをするということは、自分自身を突き詰めていく作業でもあるのです。 ●障害者であることを隠すことはないし、卑下することもないし、かといって優越感に浸るのも逆差別だし、自分が自分であることをありのまま生きればいいんでしょ。そこまでいってみれば、それって、健常者だって同じじゃないですか。 ●「障害を超えて」ではないのです、「障害と共に」「障害があるからこそ」の生き方を健常者の方々に提示して、健常者が囚われている競争原理への強い執着を解き放つ一助になりたいな、と思うのです。 ●僭越でした。 ●パラリンピックが始まると、またなにかぶつくさ言いたくなるかもしれません。