人事

2023年6月 1日 (木)

「父」からの脱出

https://www.nhk.or.jp/aomori-blog2/3010/467341.html いえ、なんとなく頭に浮かんだものですから、書いておきます。
高村光太郎の「道程」という詩、多くの方がご存知と思います。
詩の冒頭で

どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る

こう出ます。かっこいいですよね、何物にも頼らない、自分の道は自分で切り開いていくのだ。と。

↓青空文庫です。かなり長い詩ですので、終わりの部分だけを引用します。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/59185_75168.html
道程
高村光太郎

・・・
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程の爲め

この部分を初めて知った時、私は失笑してしまった。
カッコいいこと言っていて、父親から脱却できてないのかよ、ナッサケネェーなぁ。
「とうちゃん、ボクを守ってね。とうちゃんの気力、パワーをちょうだいね。ひとりじゃ歩いていけそうにないから」

私の父は明治の最後の年の生まれで、家庭内で妻や子に君臨するのがごく当たり前の人でした。
今なら、言葉によるDVということになる状況の中で私は育ちました。
ですから、中学生くらいのころ以降、私の人格形成は「父を超え、父の力を撥ね退けて、『父を破壊する』」という形で進行したのです。「あんな男には絶対ならないぞ」とね。(『反面の手本』といえばそうですけど)

光太郎くん、まだまだ修行が足りないね。独り立ちしてないんじゃないの。

いやはや、こんな詩だったとは。でも正体が知れて、まあ、よかったとは言えますけどね。

★ところで、高村光太郎と戦争の関係、というのも忘れてはならないこと。
↓NHK
https://www.nhk.or.jp/aomori-blog2/3010/467341.html
"わが詩をよみて人死に就けり" 高村光太郎 ~「乙女の像」に込めた願い~

・・・
しかし、日本が先の大戦に突入すると、高村は戦争を後押しする詩を、次々に発表するようになります。
日本が真珠湾攻撃を行った昭和16年12月8日に執筆した詩では、国民が一丸となって戦うことを呼びかけています。
「われら自ら養いてひとたび起つ 老若男女みな兵なり 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦う 世界の歴史を両断する 十二月八日を記憶せよ」(「十二月八日」)

国民の戦意高揚を図る歌謡曲も作詞しました。
・・・
真珠湾攻撃の翌年には、文学を通して国策を周知することなどを目的とした、『日本文学報国会』が政府主導のもと設立されます。
高村は詩の部会長に就き、戦争を賛美する作品を次々に世に出しました。
・・・
「特に学徒動員で戦地に行くことになった若い兵士達にとっては、高村光太郎に何か書いてもらうというのは、一つの守り神というようなトレンドがあった。多くの若者が高村のアトリエを訪れて、日章旗に一筆書いてもらった。その中には帰ってこられなかった、戦地で露と消えてしまった若者もいた」

軍部や政治家だけでなく、文化人も加担して行われた戦争。
その結果、日本人だけで310万もの命が失われたのです。
・・・
「その詩を戦地の同胞がよんだ 人はそれをよんで死に立ち向った」
(「わが詩をよみて人死に就けり」)

終戦から5年後に出版した詩集の序文には、戦争へと向かう雰囲気に流され、あおってしまったことへの後悔の念がつづられています。
(後略)

★こんな書籍をご紹介します。
危険な「美学」
  津上英輔 著、2019年10月12日 第一刷発行、集英社 インターナショナル新書044

きつい読書でした。高村光太郎についても詳しいですよ。

★話は飛びますが。
「陶酔感」とか「戦意高揚」とかいうとき、「歌」の力というものを考える必要がありますね。

「露営の歌」という軍歌があります。
「勝ってくるぞと勇ましく・・・手柄立てずに死なれよか・・・まぶたに浮かぶ旗の波」
私はこれが軍歌であると同時に、現代にも重なっていると感じるものです。オリンピックの選手団の結団式なんか見ると、この軍歌と同じじゃないですか。選手たちに「旗」を背負わせ、「旗」で送り出す。
気持ちが高揚します。感情が昂ぶります。
この軍歌の作曲は古関裕而さん。

そして
「長崎の鐘」
「こよなく晴れた青空を・・・」という歌い出しですね。
心揺さぶられますよね。
昭和24年、古関裕而さんの作曲なんです。

音楽って、恐ろしいですね。心を揺さぶってくる。
戦意高揚だったり、平和の祈りだったり。同じ作曲家の曲なんですが。

私は音楽に限らず、自分の心が揺さぶられている、と感じたときには、意図的にしらけようとします。
みんなが一方向を向いてしまってはまずい、危ない。必ず反対方向を見る奴がいなければならない。
そう思っています。

戦争を遂行するためには、権力者は国民の「戦意高揚」「陶酔感」「一体感」を「煽り」立ててくるのです。
警戒しなくっちゃなりません。

2023年2月20日 (月)

子供達に、1番に笑ってほしい!そしたら大人は頑張れるんだ!!

↓2016年4月14日に熊本地震がありましたね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E9%9C%87_(2016%E5%B9%B4)
熊本地震 (2016年)

熊本地震は、2016年(平成28年)4月14日21時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生した地震。

気象庁震度階級では最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜(前記時刻)および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生している[7]。日本国内の震度7の観測事例としては、4例目(九州地方では初)[9] および5例目[8] に当たり[注釈 1]、一連の地震活動において、現在の気象庁震度階級が制定されてから初めて震度7が2回観測された[11]。また、熊本県益城町で観測された揺れの大きさは計測震度6.7で、東北地方太平洋沖地震の時に宮城県栗原市で観測された揺れ(計測震度6.6)を上回り、国内観測史上最大となった。さらに、一連の地震回数(M3.5以上)は内陸型地震では1995年以降で最多となっている[12]。

この後、熊本出身の尾田栄一郎さんが発表したしたメッセージを新聞紙上で読み、心を打たれ、今もくっきり私共の心に銘記されております。

ワンピースのルフィ「必ず行くぞ」 作者が故郷にエール(朝日新聞デジタル 2016年4月20日 11時57分)

 人気漫画「ワンピース」の原作者で、熊本市出身の尾田栄一郎さん(41)も19日、公認サイトにメッセージを掲載した。くまモンの絵とともに、主人公ルフィが「フンバれよー!!」「必ず行くぞー!!」と呼びかけた。

 尾田さん自身、家族や友人らに安否を尋ねたという。「人間が気を張れる時間って限界があります。その糸が切れる前に何とか心が落ちつける状態になってほしい」「子供達に、1番に笑ってほしい!そしたら大人は頑張れるんだ!!」と思いやった。さらに「必ずや復興のお手伝いさせて頂きます。どうかフンバってください!!」とメッセージを送った。

そう、子どもたちの笑顔、声こそ、大人のエネルギー源なのです。大人の直接の未来ですからね、子どもたちって。
今の世界中の状況の中で、この言葉を多くの人に知ってもらえたらと願います。

2022年12月25日 (日)

クリスマスの足袋

クリスマスは如何でしたか。
先週の土曜日(12/17)の朝日新聞別刷り「土曜be」に面白い記事が出ていました。
有料記事なので、一部分だけ引用します。

(はじまりを歩く)クリスマス 山口市、福井市 伝来の降誕祭、市を挙げ祝う(2022年12月17日)

・・・
 次に向かったのは福井市である。明治時代初めの1871年12月25日に、福井藩藩校の明新館で理科を教えていたお雇い外国人のウィリアム・E・グリフィス(1843~1928)が、教え子の子供たちと日本初のクリスマスパーティーを開いた記録がある、と聞いたからだ。
 グリフィスが故郷・アメリカの家族にあてた手紙によると、12月24日、彼が当時、同居していた生徒たちに母国のクリスマスのことを話したところ、強い興味を示したため、グリフィスは靴下の代わりとして、足袋(たび)をつるしておくよう指示したらしい。
 生徒たちは「松と栂(つが)を切り、みかん、張り子のおもちゃ、いろんな食べ物、つがいの雉(きじ)、各自の新しい足袋、紐(ひも)などを持ってきて、食堂の壁や暖炉をいろんな色の装飾品、緑の枝」で飾った。グリフィスは、生徒や家の使用人とその家族がつり下げた9足の足袋に、角砂糖、ドロップ、干しぶどう、筆記用紙、鉛筆、写真、ペン、ジャムの小びん、小銭などを入れて贈る。翌朝、足袋の中を見た生徒たちは大いに喜んだという。
・・・

「靴下の代わりとして、足袋(たび)をつるしておくよう指示したらしい。」
なるほど。その時代、「靴下」というものはあまり普及していなかったんでしょうね。
面白い話だ、と思っていたら。

このごろ朝日新聞では、(朝日新聞写真館 since1904)という、古い写真を紹介する記事が土曜日の夕刊に載ります。その特集の12/14(土)で、古い白黒写真のキャプションにまた「足袋」が出てきました。写真は著作権があるでしょうから借りてきません。

(朝日新聞写真館 since1904)クリスマス この日、家族を思う、平和を願う(2022年12月24日)

・<1952(昭和27年)> 70年前のクリスマスイブ。東京・日本橋に近い運河で水上生活を送っていた一家は船の中を飾り付け、「サンタクロース」を迎える支度をした。長靴の代わりに天井からつるされているのは足袋。プレゼントはカルタだったらしい

現在日本では「靴下」を吊るすことになっていますが、「クリスマス・ブーツ」といって、「長靴」をつるす習慣もあったようですね。

1952年だそうで。ワタクシ4歳の12月ですね。クリスマスなんて記憶にありません。
なんかやったのかなぁ。二階の八畳一間で一家4人が生活していたころです。
戦後すぐなんだなぁ、という感じですね。
その頃の水上生活者のクリスマス。思ってみてください。

とまぁ、古い話ですみません。
「クリスマスの足袋」というのが面白かったのでご紹介しました。
そもそも、なんで「靴下」なのか、については「クリスマス 靴下」で検索してみてください。いくつかのお話がヒットしますよ。

2022年11月21日 (月)

日食月食

朝日新聞の連載コラムなのですが↓興味深い話でした。
(山本みなみの鎌倉からの史)月食から守られた将軍(2022年11月17日)

 11月8日、442年ぶりの「皆既月食と惑星食」のため、多くの方が夜空を見上げたことだろう。
 メディアでは織田信長も見たかと話題になっていたが、中世の日食・月食に対する考え方は現在とは大きく異なる。
 日食や月食の光は、自然秩序の変異を示す穢(けが)れと認識されていた。11世紀末頃の院政期より幕末に至るまで、天皇は日食・月食の妖光から保護されなければならず、そのため御所を筵(むしろ)でつつむ行為が行われるようになる。天皇は聖なる存在であり、その身体を守ることが、国の安泰を維持するために必要であると考えられたのである。
 順徳天皇(後鳥羽院の皇子)が宮中の儀式や作法をまとめた『禁秘抄』には、「日蝕(にっしょく)・月蝕の際、御所を席(むしろ)で裹(つつ)み、決して光に当たらぬようにし、御持僧(ごじそう)(天皇加護の祈祷〈きとう〉を行う僧)が修法を奉仕する」とある。
 ・・・元久元(1204)年9月、将軍実朝が北条義時邸から帰宅する際、月食であったため逗留(とうりゅう)することにしたという話が『吾妻鏡(あずまかがみ)』にみえる。月食の光が、将軍の身体を穢すという認識を持っていたことを窺(うかが)わせる。
 将軍は、武家政権の首長として、国の安穏を体現する存在でもあったといえよう。(中世史研究者)

そうなのか。「天皇は日食・月食の妖光から保護されなければならず」なんですね。知らなかった。
現在は「日食 月食」と書きますが、もともとは「日蝕 月蝕」と「むしばまれる」できごとですものね。

↓参考
https://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka/oldchina/tenpen/nisshoku.htm
日蝕故事

  古代中国では天変は政治の上で非常に大切でした。真偽はともあれこんな伝承があります。
夏の第4代仲康のとき天文官だった羲氏と和氏が酒色に溺れ、職務である天文観測をさぼり,日蝕の予報を出さず,暦を乱したのでクビ(罷免ではなく死罪)になったそうです。天文官たるもの職務には命をかけねばならず,星空を楽しむ余裕はなかったようです。その日付は詳しすぎてかえってアヤシイですが『書経』では季秋月朔と,また『竹書紀年』では帝仲康五年秋九月庚戌朔となっているそうです,もしホントなら世界最古の日食記録です。そこで紀元前19世紀,20世紀に洛陽で見える皆既日食を探すと・・・BC2004年2月27日、BC1961年10月26日,BC1945年7月3日,BC1903年9月15日が見つかり,どれも皆既食です。それらの日の干支はそれぞれ癸丑、庚子,己巳,癸亥で,記載とは合いません。
 ・・・

暦というものが民に対する権力者の権力の源泉のひとつであったようですね。

「暦はエレガントな科学」 石原幸男 著、PHP研究所、2012年1月10日第1版第1刷 発行

p.46「つまり暦の整備は『新秩序の形成』だったのです。爾来、中国ではこのことが重視され、暦は皇帝が『天意を知る者』として制定し、人民に授けるものとされました。」

p.63「じつは中国歴では日食月食の予測が重要だったからです。暦は皇帝が『天意を知る者』として人民に授けました。天意を知るといったって、口先だけで信用するほど中国人はお人好しではなかった。実証する必要があった。それが日食月食の予報だったのです。これが当たっているうちは皇帝は信頼された。しかしひとたび外れると、へたをすれば革命も起こりかねない。そんな緊張感のなかだ、天文学者たちは暦をつくりつづけたのです。」

いろいろ日食関係など読み歩いていたら、朝日新聞の「論座」というところで面白い記事を見つけました。
有料会員でなくても読めるようです。記事は長いので、終わり近くの一部を引用します。

↓論座
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2022111500001.html?iref=com_rnavi_chumo_n
皆既月食や日食に盛りあがる日本人の心に潜んでいるもの

・・・
古来、月は直接見るのは不吉とされ、水に映して楽しんだ

 さて、この目でみたい! とあれだけ盛り上がった月食観測の話に戻ろう。日本の文化歴史に詳しい、成願義夫氏(伝統デザイン研究家)によると、かつては月食はもとより月自体も直接は見てはいけないものだったらしい。特に女性が月を見るのは良しとされていなかったという(「女性が月を見てはいけないと言われる理由。ただの迷信じゃなかった!」女性の美学)。

その昔、月は直接見てはいけないものでした。
まして、月蝕はなおのこと、不吉とされていたのです。
それでも月を観たい人々が、見る方法はただ一つでした。
それは、手鏡か水鏡に写した月を間接的に観ることでした。
月を観たいのは、庶民だけではありませんでした。
最も位の高い日本人、そう天皇も月を観たかったのです。
しかし、天皇はご自分が最も上に座する人。
何かを見上げてはいけないのです。
さらに不吉な月を見上げるなんてとんでも無いことでした。
月を間接的に見下ろして、ご覧になる方法はただ一つ。
そこで、
嵯峨天皇は月を観るためだけに、池を造らせました。
その池が嵯峨にある広沢池です。
水鏡に映る月を見る『観月の宴』を船で楽しまれたそうです。
出典:成願義夫氏のフェイスブック(2022年11月9日)

 成願氏によれば、京都の桂離宮は池の水に月を映して見るために計算しつくされて設計されているという。「日本人にとって、満月が特別だったのはなぜか!?」(weathernews)という記事ではその計算された方位が示されている。
 ・・・
 満月を直接見ずに、鏡のような水面、まさに文字通り明鏡止水に映し出された月を真珠の粒として味わい、歌に詠む。これはこれでなんと風流なことだろう。
 月食にしても日食にしても、時々、全国で盛り上がる天体ショーはそういう古人が当たり前に行っていた行事を懐かしむ何かが私たちの中に潜んでいるからかもしれない。次の満月、部屋の明かりを全部消して、月明かりだけで一時を過ごし、歌でも詠んで平安時代の貴族の気分を味わってみてはいかがだろうか。

広沢池にそんな話があるとは全く知りませんでした。
今度、月見をするときには、手鏡を持って鏡に映る月を愛でてみませんか。
「私は見上げたりはしないのだ」と見得でも切りながら。

↓素性の確かなサイトにリンクします。
https://weathernews.jp/s/topics/201801/260095/
【中世日本の月食観】月食が怖かった!?

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9138/
ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 日本版サイト
月食にまつわる各地の神話 2014.04.17

●追記
ここまでは土曜日にテキスト・エディタに下書きを書いておいて、あとはアップロードするだけだと思っていたのですが、日曜日の朝刊に思いがけない記事が載りましたので追記します。

↓朝日新聞デジタル
QuizKnockの朝日新聞クイズ(2022年11月20日)

・・・
 月食とは、太陽の光を受けてできた地球の影に月が入ることで、月が欠けたように見える現象のことです。したがって、三つの天体が太陽、地球、月の順で一直線に並んだときに起こります。これは満月になる条件と同じですが、地球が太陽を回る軌道面に対して、月が地球を回る軌道面が微妙に傾いているため、満月のたびに月食が起こるわけではありません。古代ギリシャの天文学者アリスタルコスは、月食の時に月に映る地球の影の大きさから、月の直径が地球の約3分の1だと推定しました。彼は太陽の大きさも求め、地動説の先駆者とされています。
・・・
 ■Q3 北欧神話では、月食が起きるのはどんな動物のしわざだと考えられていた?
・・・
 北欧神話では、ハティというオオカミが月を捕まえることによって月食が起こると考えられていました。北欧神話には他にも、日食の原因だと考えられていたスコルや、世界の終末に主神オーディンをのみ込むフェンリル、オーディンに仕えるゲリとフレキなどのオオカミが登場します。
・・・

アリスタルコスの推定は知りませんでした。
↓早速wikiを見たら
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9
月の大きさ
アリスタルコスの『太陽と月の距離と大きさについて』の写本(10世紀頃)

アリスタルコスは月食の際に月が地球の影の中を通過する様子を観測した。彼はこの観測から、地球の直径は月の直径の約3倍であると見積もった。地球の外周を252,000スタディア(一説では約42,000km)であると求めたエラトステネスは、このことから月の外周を約14,000kmであると結論した。実際の月の外周は約10,916kmである。

そうだったのか。
理科年表によると

    赤道半径[km]
地球:   6378.1
月   :  1737.4

こうですので、6378/1737=3.67
です。
ごく大雑把な推定としては、いい線いってる、というべきでしょうね。
すごい人もいるもんです。

月蝕や日蝕は、オオカミが「蝕む」のだ、という神話を考えると、これらの現象はやはり「不吉」なものだったのでしょうね。

朝日川柳欄から

朝日川柳 山丘春朗選(2022年11月16日)

サピエンスなればこの惑星(ほし)救う知恵(福島県 柴崎茂)
{選者コメント。三句、G20とCOP27}

投稿者はもちろん「サピエンス」の意味をご存じで、だからこそこの川柳のひねりが効くわけですが。
読者はどのくらい御存知なのかな、と余計なことを考えて、注釈をつけます。

↓wikiから引用

ホモ・サピエンス(Homo sapiens、ラテン語で「賢い人間」の意味)は、現生人類が属する種の学名である[2]。ヒト属で現存する唯一の種。

↓辞書から

homo
►n (pl ~s) [OH-] ヒト,人間《ヒト科ヒト属 (H-) に属する動物の総称;現生人類 (H. sapiens),H. erectus などの化石人類が含まれる》.
[L homin- homo man]
リーダーズ英和辞典第3版より引用

sápience, -cy n 《文》 知恵 (wisdom);知ったかぶり,物知り顔.
[OF or L (pres p)〈sapio to be wise]
リーダーズ英和辞典第3版より引用

ホモ‐サピエンス【Homo sapiens ラテン】
(知性人・叡知人の意)現生人類の学名。新人。
広辞苑第六版より引用

というわけで、「賢い人間」が集まって会議をするのだから、当然「この惑星(ほし)救う知恵」が湧くだろう。
もし湧かなければ、「サピエンス」という名を返上しなくちゃいかんでしょ、ということですよね。

余分なことでした。失礼しました。

2022年10月25日 (火)

北前船

朝日新聞の10/18の記事が気になりまして。

水中考古学、夢も発掘した18歳 一冊の本きっかけ、クラウドファンディングで資金集め
2022年10月18日 16時30分

 京都府北部の日本海に面した漁港で、海に眠る遺物を探す調査が行われた。1人の高校生が抱いた夢が、水中考古学の専門家らを巻き込んだプロジェクトに発展して実現した。江戸時代に船を係留するのに使ったとみられる設備など、貴重な発見があった。

 緑豊かな山に囲まれた京丹後市の旭漁港。9月下旬、台風14号が去り、天候が落ち着いた湾内に、ウェットスーツに身を包んだ調査メンバーが散らばった。ゴムボートで漁港がある湾を移動して地形を調べたり、水中に潜って遺物を探したりしていった。
・・・
 コロナ禍で8月に予定していた調査は延期になり、9月に実現した今回の調査も台風14号が直撃。期間の前半は海に入れなかったものの、海岸の岩場では、船を係留するための綱を通す穴が開いた「鼻ぐり岩」や、綱をかけられるように加工された「もやい岩」が約30個確認された。陸上でも、台風で打ち上げられた土砂に混じって江戸時代のものとみられる陶磁器の破片が見つかった。
・・・
 調査後に開かれた現地説明会兼オンライン報告会で佐々木さんは、「船をつなぎとめる設備がこれほどの密度で見つかるのは珍しい。古い文献にも記載があるが、江戸時代、大型の船と小型の船で荷物を積み替えていたと推測できる」と話した。今後、船から落ちた物などを探す潜水調査も考えているという。
・・・

地元の羽間さんという女子高校生も調査に参加していた、ということも記事では強調されていましたが、ここでは割愛。
引用した記事中の「佐々木さん」というのは、福岡県在住の水中考古学者、佐々木蘭貞(らんでぃ)さんという方です。

で、私が気にしたのは、京丹後市の旭漁港という日本海側の海中に、「大型の船と小型の船で荷物を積み替えていたと推測できる」遺跡が見つかったという点。

「日本海側は辺鄙なのに」という感じを受けませんか?

いえいえ。高校の日本史にも出てきたのではないかとも思いますが、中世から江戸時代の航路は日本海側が主流。
太平洋側の航路は、波も荒いし潮の流れがきついんですね。日本海側の方が穏やか。船だって今のような巨大な船じゃなし。
で、日本海側の航路は栄えていたのです。
(サーフィンは太平洋側が主でしょ。日本海側の波はいまいち。太平洋側は、長い距離を風に吹かれて波が来るので、吹送波が大きいのです。日本海側は吹かれる距離が短い。)

「北前航路」なんて有名なんだけどな。

↓日本海事広報協会
https://www.kaijipr.or.jp/mamejiten/fune/fune_3.html
北前船ってどんな船

 江戸時代には日本海や北海道の港から江戸や大坂(大阪)へ、米や魚などが船で運ばれていました。船は瀬戸内海をとおって大坂、江戸へ向かう西廻り航路か、津軽海峡をとおって江戸へ向かう東廻り航路を利用しましたが、西廻り航路を走る船を北前船と呼ぶようになりました。なぜ北前船と呼ぶのかについては、北廻り船がなまったという説、北前とは日本海の意味で日本海を走る船だからという説など、いくつかあります。
 18世紀のはじめごろになると、西廻り航路が東廻り航路にくらべてさかんに利用されるようになりました。というのは東廻り航路では太平洋側を北へ向かう黒潮の流れにさからって走らなければならないため、当時の船では航海がたいへんだったからです。また、西廻り航路のほうが荷物を安く運ぶことができたからでした。
・・・

↓このページの上から1/3位のところかな、良い図があります。
http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-11.html

十三湖、能代、秋田、酒田・・・
主要な中継地点がわかります。
私は生まれたのは能代市ですが、1歳ちょいまでしかいなくて、それ以降は東京育ちです。
でも、親戚などが能代市や八峰町などに多いものですから、秋田県に親近感があります。
八峰町は青森に近くて、津軽弁に近い方言になじみがあるんですね(純粋津軽弁はチト無理ですが)。
そんなこんなで十三湖も知っている。今はあまり「栄えている」という状況でもないのですけど、江戸時代には北前船の港として栄えたのです。そんなことも知ってほしいな、と。

↓参考に。
https://aomori.uminohi.jp/report/noheji-kitamae/
海と日本PROJECT in 青森県
“誇り”は海の向こうからやってきた!―野辺地町と北前船―

京丹後市には御縁はないのですけど、日本海側の航路は重要なものとして栄えていたのだ、ということを知っていただきたいな、とこの記事になりました。

2022年10月24日 (月)

人は生きることがその人の最大の役割

前の記事で扱った朝日新聞の読者投稿欄「声」、同じ日の「声」にもう一つ「重みのある言葉」を読みました。

「声」生きること、それこそが人の役割
2022年10月18日 5時00分

・・・
 「おやじのせなか」(9日本紙)の「人にはそれぞれ役割があってそれぞれの仕事をしている」という言葉に目がとまりました。私は「人は生きることがその人の最大の役割」という意味だと受け止めました。誰かの役に立つことも大事ですが、それよりも「生きること」自体が、人の尊い最大の役割だと今は感じています。
・・・

ここで触れている「おやじのせなか」は、南野陽子さんのお話でした。
佳い言葉を聴かせていただき、悦びに浸っています。

地球上を滔々と流れる38億年に及ぶ「生命の大河」から生まれたこの命。
生きる力のある限りを生き切るのが、私に与えられた使命だと思っております。
「生命の大河」から生まれて「生命の大河」へ還る。それが生きるということだと思っています。
「墓」などという人間の文化は不要。
地球そのものこそが私の墓標です。
すべての生命はそのようにして生き継いできたのですから。

今日までそして明日から

朝日新聞の読者投稿欄「声」に、吉田拓路さんに関する投稿が載りました。
「声」拓郎、まだまだ人生を語らないで
2022年10月18日 5時00分

「人間なんて」の絶叫を聞かれたのが高校生の時だった、という方です。
私はもう大学生だったな。
さらに「今日までそして明日から」への言及もありました。
懐かしいな、大好きな歌です。

↓こんな歌です。(昔はもっと叩きつけるような歌い方だったような気もしますが)
「吉田拓郎 今日までそして明日から」
https://www.youtube.com/watch?v=rh76yCwMy7s
from 「'90 日本武道館コンサート」
弾き語りversion.

この歌のリリースは1971年だったそうで。私はもう23歳。
東大闘争の後でした。一応、大学そのものは通常に戻ったのですが、普通には3月卒業なのに、6月に卒業させるという話になりまして。私はへそを曲げた。ちゃんとした時間をかけて学んでいないのに、卒業させられるのは嫌だ、と、個人で卒業拒否をしました。後は卒研さえやれば卒業単位は満たされるというところで、単位取得をやめて留年したんです。理学部化学科です。
その最中ですかね、この歌がリリースされたのは。
農学部へ行って生化学で分子生物学的な講義を聞いたり、理学部動物学科へ行って、単位にならなくていいからゼミに参加させてください、とお願いしたら、歓迎されましたっけね。視覚の生理学についての英語の本を読みました。おかげで視覚の生化学に詳しくなってしまった。いろいろさまよい歩いていたころです。ひょっとして本川達雄さんとすれ違っていたのかも。
そんな宙ぶらりんな私には、この歌、心に沁みましたねぇ。
教師になろうかな、という感覚は結構根強かったのですが、化学科を出て化学教師になるということに、なんとなくすっきりしなくて。科学史・科学基礎論の大学院へ。多士済々でね。化学科出身の私、物理学科や数学科出身の人もいまして。なんだかすごい2年間でした。バビロニアの楔形文字で書かれた数学を学んだり、変体仮名の古文書を読んだり、ラテン語の論文を読んだり、まあものすごかったな、ハードでしたが面白かった。
そして教師になったわけですが。
その時々に出会った経験は、全部、教師としての基盤になったと考えています。

★教師として
私の信条は「人事を尽くして 出たとこ勝負」なのです。
授業というのは、教師一人で創れるものじゃない。生徒の反応があっての授業。教師と生徒が共同で創出するものなのです。
よく、教師なんて毎年同じことを教えるんだから楽なもんだ、という感覚が語られます。
それはない。教えるべき知識は確かに教師側に豊富にありますけどね。
「毎年違う生徒と授業をやるんだから、同じ授業なんてできるわけがない。」と生徒にも語りかけましたっけね。
授業に臨むに際して、その時点で考えられることは考えつくす、そして教室では生徒との切り結び合いですよ。出たとこ勝負。
何をを見ても「教材」にみえる、という「眼」になりました。そして毎年新たな教材を身に備えて授業に出る。
楽しかったですよ。
出会いによって、どんどん変わる私。自分が変わっていくことを恐れず、楽しむ。
それが「私の生き方」なんです。拓郎の歌が身に沁みます。

★夢を持て
この言葉が嫌いです。
夢を持て、その夢の実現に邁進せよ。もし夢が実現しなかったら、それはお前のせいだ。
一つの道を究める。精進する。こういうの日本人は好きですね。
それと新自由主義的な「自己責任論」が一緒になってしまう。

「夢を持て。夢は必ずかなう」なんて噓なんだよ、と私は生徒に言い続けました。
「夢を持つことはいいことだ。でもそれにこだわることはない。出会いを大事にして、選択を大事にして生きていけばいい。人生をそれなりに生きてから振り返ると、『ああ、あの夢が自分の人生の軸だったんだな』となるんだよ」と語り聞かせました。
「夢を持て。夢は必ずかなう」というのは薄っぺらな言葉です。
どこでどう変わろうといい、逃げずに引き受ければいいのです。

「どこでどう変わってしまうか。そうですわからないまま生きていく、明日からのそんな私です」

とね。

2022年9月 9日 (金)

今日は「重陽の節句」です

↓まず解説から。
https://www.hibiyakadan.com/lifestyle/z_0064/
9月9日は重陽の節句!菊酒や栗ごはんなど菊の節句の行事食と由来

「重陽の節句」は平安時代の初めに中国より伝わりました。古来中国では、奇数は縁起が良い「陽数」、偶数は縁起の悪い「陰数」と考えられ、陽数の最大値である「9」が重なる9月9日を「重陽」と呼び、節句の1つとしました。旧暦の9月9日は、現在の10月中旬ごろにあたり、まさに菊が美しく咲く時期です。菊は「仙境に咲く霊薬」として、邪気を払い長寿の効能があると信じられていました。菊を行事に用いたため、重陽の節句は別名「菊の節句」とも呼ばれています。重陽の節句では、菊の香りを移した「菊酒」を飲んで邪気を払い無病息災や長寿を願います。

日本では、平安時代の初めに宮中行事の1つとなり、菊を眺める宴「観菊の宴」が開催されたり菊を用いた厄払いなどが行われたりしました。また、時代とともに菊の風習は庶民の間でも広がり、江戸時代には五節句の1つとして親しまれる行事になっています。

というわけです。ま、菊の花を愛でてください。とはいっても、旧暦での話です。
今年(2022年)の場合だと10/4が旧暦の9/9だそうです。
まだなぁ、暑い、今年は特に暑い気もします。こういう場合は旧暦でやってください。どうぞ。

★雑談
「六日の菖蒲 十日の菊」という言葉知ってますか?

https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%8D%81%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%8F%8A-2086017

六日の菖蒲十日の菊(読み)むいかのあやめとおかのきく

ことわざを知る辞典「六日の菖蒲十日の菊」の解説
六日の菖蒲十日の菊
端午の節供(五月五日)の翌日の菖蒲と重陽の節供(九月九日)の翌日の菊。時機に遅れてしまい、いまさら役に立たないことのたとえ。

「五節句」というのもあります。今は桃の節句と端午の節句くらいしかしられてませんけどね。

人日(じんじつ) (=一月七日)
上巳(じょうし) (=三月三日)
端午(たんご) (=五月五日)
七夕(しちせき) (=七月七日)
重陽(ちょうよう)(=九月九日)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%8F%A5
節句

六日の菖蒲、十日の菊(むいかのあやめ/しょうぶ、とおかのきく)
5月5日(菖蒲の節句)までの菖蒲、9月9日(菊の節句)までの菊は価値があるが、その日を過ぎると一気に価値がなくなる意味[11]。転じて、時機を逸して価値のなくなった状態を指す[11]。例えば、2月14日を過ぎたバレンタインチョコ、12月25日を過ぎたクリスマスケーキが投げ売りされることと同様の意味合いである[要出典]。

https://www.alsok.co.jp/person/recommend/2042/
五節句とは?日本の四季を彩る節句の意味や行事食

2022年8月15日 (月)

歴史感覚 或は 時の流れの長さ

西木空人さんの選になる朝日川柳に驚かされました。

朝日新聞デジタル(2022年8月13日)から

七十七 戦前と並んだ戦後(大阪府 藤井康信)

ドキっとしました。
私は74歳、戦後生まれですが、おおよそ「戦後」と呼ばれる期間の長さを生きてきました。
でも「戦前」といわれると、昭和の初めあたりくらいからという感覚でいたのです。大正や明治など「古く過ぎ去った歴史上のもの」という感じがあった。
ところが上の川柳の指摘は鋭く恐ろしい。

1945+77=2022
これが「戦後77年」という事ですよね。
じゃあ「戦前77年」はどうなりますか?
1945-77=1868
こうなります。
1868年って「明治元年」じゃないですか。
Wikiによれば↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB

明治の元号下にあった1868年10月23日(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日までの45年間を明治時代と呼ぶ。

明治維新そのものについては色々ありますけれど、シンプルに明治という元号で考えれば上の通りですね。

明治なんて遠くはるかな歴史的な時代と感じがちですが。
今年を戦後77年というなら、戦前77年は明治元年だよ。
この歴史感覚、いかがですか?そうなのか!とビックリしませんか。

自分の「今」ばかりに引き付けて物事を考えてはいけないんだなぁ。
私は混乱しています。突きつけられてしまいました。

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