台風など
記事を書いている今は19日の午後です。台風14号の影響で、日がさして影がくっきりと思うと直後に大きな雨音を立てて雨が吹きつけてきたり。かわりやすいったらありゃしない。雨戸を閉めて何か飛んできても被害が少ないようにと、お籠り状態です。で、年寄りの台風の記憶など、少しだけ。
①:洞爺丸台風
1954年9月の台風です。
私は1948年生まれですので、当時、6歳ですね。小学校に上がる前の年。
当時、一家4人で、八畳間一部屋で生活していました。家主さんの自宅の2階の部屋を借りていた。
家主さんは息子さんを戦争で亡くした高齢女性で、一人暮らし。仏壇に写真を掲げていらしたな。私は孫のようなもので、かわいがっていただきましたっけ。
戦後をまだ引きずっている時代です。水道もなく、井戸水で生活してました。
で、台風が来ました。父親は仕事に出かけていて、家には母と兄と私の3人。
ものすごい風でね。2階の部屋の天井下の壁が3尺四方、吹き抜かれてしまったのでした。
焦った。台風の風が吹き込むと、屋根を持ち上げて屋根が吹き飛ばされると聞かされていまして、わ、屋根が飛んじゃうのか、と、恐怖。
私より5歳年上の兄と母二人で、ベニヤ板を切り、必死になって穴をふさいだ。ま、何とか耐え抜きまして、無事でした。
でも、怖かった。これは忘れられません。
後になって、ラジオのニュースで被害状況を知り、改めて恐怖を覚えたのでしたっけ。
↓参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%88%BA%E4%B8%B8%E5%8F%B0%E9%A2%A8
洞爺丸台風
概要
この台風は九州地方・中国地方を上陸通過し、日本海へ抜けた後に更に発達しながら北上。函館港沖では洞爺丸事故を、フェーン現象により岩内町では3,300戸を焼失させる岩内大火を引き起こすなど、北海道を中心に多数の犠牲者を出した台風である[1]。
豪雨による水害をほぼ起こさなかった反面、強風による被害を大量にもたらした、いわゆる「風台風」であった。
・・・経過
台風15号は、9月18日にカロリン諸島付近で熱帯低気圧として発生し、21日には台風となったが、すぐに勢力が衰えた。
ところが、23日には台風に復活、23日9時には中心気圧992ミリバール(mb、現在のヘクトパスカルに同じ)、24日9時990ミリバール、25日9時には975ミリバールと次第に発達しながら台湾の南東海上で転向、急激に加速しながら北東に進み、9月26日未明に鹿児島県大隅半島に上陸、このときの勢力は中心気圧965ミリバール、最大風速40メートルであった。
時速75キロから80キロで九州を斜走。上陸後以降に勢力を増し、朝には中国地方から日本海に出てさらに時速110キロという異例の速さに加速しながら北東から北北東に進んだ。風速20m以上の暴風圏は26日段階で九州から北海道まで日本全土に広がった[2]。
9月26日9時には964ミリバール、15時には960ミリバール、北海道西岸に達した21時には956ミリバールとなっている。その後、北海道からオホーツク海を進み、9月28日9時にカムチャツカ半島付近で温帯低気圧に変わったが、通常の場合、海水温が低下した9月末の日本海で台風が発達することはほとんど考えられないため、実際には、台風が九州に上陸する9月26日3時頃から温帯低気圧に性質を変えていた(いわゆる「爆弾低気圧」と呼ばれる状態になっていた)と見られる。
北海道に接近した頃に最盛期を迎え、同時に一時的に速度を時速40キロ以下に落としたため、北海道を中心とする北日本では猛烈な暴風による被害が大きかった。すなわち、最大風速は寿都で42.0メートル(最大瞬間風速53.2メートル)、室蘭で37.2メートル(55.0メートル)、留萌で35.2メートル(45.8メートル)に達したほか、各地で30メートル以上となった。転覆した洞爺丸
そのため、家屋の全半壊や倒木などの風害が顕著だった。岩内町では火鉢の飛び火が原因による大火(岩内大火)で、3000戸あまりが焼失。森林が受けた風害はすさまじく、支笏湖周辺などでは全山の大木が根こそぎ倒された。
また、青函連絡船では洞爺丸の遭難により1,139名が犠牲となり、他にも連絡船4隻の沈没・転覆により多数の犠牲者を出す、海難史上まれに見る大事故が発生しているほか(この事故が後の青函トンネル建設の契機ともなった)、9月26日には海難救助にあたっていた海上保安庁のはつなみ型巡視艇「うらなみ」が二次遭難している(乗員は全員救助)[3]。また台風が通過した西日本でも大きな被害が出ている。
・・・
台風自体が時速100kmなどという速度で進むなんて、まったく想像の及ばない出来事です。
こわかったな。20歳の時に北海道へ旅しましたが、青函トンネル(昭和63年開業)はまだ当時はありませんで、青函連絡船で渡りましたっけ。これがあの青函連絡船なのか、と感慨深かったな。
・内緒話:新聞を読むような年齢に達する前、ラジオの音声でのみニュースを聞いていた私の大誤解。
「たいふういっか」という言葉を当時の私の語彙の中で「台風一家」だと思っていました。大誤解。台風って家族連れで来るのかな、などと、わけのわからない状態で。
「一過性」という言葉を知ったのはかなり後になってからのことでした。テレビなら字幕があるのでしょうけれど。ラジオのみの時代の餓鬼の誤解でした。
同じような大誤解をご紹介。お名前を忘れましたが、有名な女性詩人だったかな。シャボン玉の歌を聞いて「屋根まで飛んだ」というのを、シャボン玉が「屋根まで飛んだ」のではなく、風にあおられて「屋根が吹っ飛んでしまった」と聞いておられたとのこと。
子どもが耳だけで得る情報はこんな誤解を生むこともあるのです。
②:伊勢湾台風 1959.9
私11歳でしたね。現在の上皇ご夫妻の結婚とパレードで日本中がにぎわい、中継を見ようと白黒テレビでしたがテレビが猛烈に普及したのでした。我が家も御多分に漏れず、テレビなどというものを購入、珍しかったなぁ。(カラーテレビが普及したのは東京オリンピックの時でした。)
その年の9月。伊勢湾台風。気圧が低くて海面上昇、吹き付ける風が湾口から吹きこんで高潮が発生。
テレビ画面に映し出された映像がショック。一面が水没していましたっけ。
・ある意味で似た出来事:チリ地震津波
1960年5月、チリ近海を震源としたマグニチュード9.5という、観測史上最大級の地震。この地震による津波が地球を半周して日本に到達しました。三陸沿岸のリアス式海岸の湾の奥で海面が猛烈な上昇をして、多数の死者が出た。
開いた湾口から狭い湾の奥へ。その意味で、伊勢湾台風と共通するものがありましたっけ。小学校6年生だったかな。驚きましたっけね。
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