立花隆さんを偲んで:2
★「勉強屋」
これも立花さんを回想するインタビューで耳に挟んだ言葉。
「自分の職業は勉強屋だ」とおっしゃったように思います。
いいですね。知の巨人とは、何でも知っているということではない。
なんでも学び吸収し消化し、それを表現する人、なのでしょう。
「立花ゼミ」が残したものとは 知りたいがままに、知る喜び
2021年7月7日 16時30分科学ライターの緑慎也さん(44)
「立花さんは知らないことにすごく喜びを感じる人。うれしそうに『へぇ、そうなんですか』『知らなかった』と言うんです」。教わった「知る喜びの中毒性」を、緑さんも追いかけ続けている。
・・・
大好きな居場所を残したい。この年度を最後に立花さんが退職すると決まっていた09年に文科3類に入学した廣安ゆきみさん(30)は、翌年度以降も立花ゼミをサークルとして存続させることにした。
・・・
「立花ゼミは、『知りたがる』ことを全肯定してくれる場所でした」
素晴らしいなぁ。教師というものはこうでなくてはならないと思うんですよ。
★口幅ったいことを言いますが。
教師という職業は「勉強屋」でなければならない、と私は思ってきました。
教師なんて自分がすでに学んだことを生徒に教えるだけなんだから楽なものだ、という感覚はありませんか?
申し訳ないけれど、低年齢の人を教える先生に対してそんな感覚を持つ人は多いのではないでしょうか。
それはちがう。教える分野に対する深い洞察と愛情なしで教えるということは、教わる人に対して非常に失礼なことだと思う。
{大人は自分が四則演算を知っているのだから、別に数学への理解がなくても四則演算は教えられる。って、本当ですか?}
私は自分は「授業屋」だと思っていました。
授業を「創る」ということほど楽しいことはない。
教科書には必要最小限のことは載っていますので、それを反復すれば生徒に教えたことになる、のでしょう・・・か?
先生って毎年、同じことを教えるんでしょ、という問いがある。
それは間違い。
授業というものは教師と生徒が共同で構築していくものです。
毎年目の前の生徒は異なるのですから、同じ授業なんかできるわけがない。
生徒が違えば授業も違う。長年教師やってて、同じ授業なんかやったことないよ、と生徒にも話したものです。
教師も生徒も、好奇心を原動力として学び、授業を構築するのです。授業は創造的な作品なのです。
現役を退いた今でも、「あ、これ授業に使える」という感覚が結構頻繁に私の中に生じるのです。
「教師くささがまだ抜けねえなぁ」と苦笑いしてますけど。
学ぶことなしに、授業はできません。
思えば、教職の出はじめから「授業作品」を作ったけなぁ、と感慨深いものがあります。
そういう私の授業作品の一部について概要でも書けたらいいなぁ、とは思いますが、多分無理でしょう。
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