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2021年4月12日 (月)

この子らを世の光に

★朝日新聞に「ひと」という連載があります。
4月10日の「ひと」欄では、「障害者のアートに光を当てる画廊を経営する」杉本志乃さんが紹介されていました。
その文中に
「それは、障がい者など多様性のある人たちを世の中の光にすることです」
こういう言葉が出てきました。
「世の中の光」この言葉に聞き覚えのある方は少なくなったかもしれない、と思って、今回ここで取り上げることにしました。
↓滋賀県のHPから引用します。
https://www.pref.shiga.lg.jp/oumi/gakuen/103467.html

滋賀県立近江学園とは(2018年12月13日)

滋賀県立近江学園は昭和21年11月、大津市南郷に糸賀一雄氏らによって創設され、昭和23年4月「児童福祉法」の施行に伴い、県立の児童福祉施設となりました。
「この子らを世の光に」と人々に語りかけた糸賀氏は、池田太郎氏、田村一二氏らとともに知的障害児・者の療育に力をそそがれました。その後、昭和46年9月、現在の湖南市に移転後も糸賀氏らの心は受け継がれ、知的障害を持った子どもたちが豊かに育っていくよう支援しています。

私は昭和23年生まれ。私などの年代の人では「この子らを世の光に」という言葉はそれなりによく知られた言葉ではないでしょうか。

↓これも滋賀県のHPから
https://www.pref.shiga.lg.jp/oumi/yonohikarini/103707.html
この子らを世の光に(2018年4月16日)

『この子らを世の光に』と『この子らに世の光を』の違いについて
 「を」と「に」が逆になれば、この子どもたちは哀れみを求めるかわいそうな子どもになってしまいます。しかし、この子らは、みずみずしい生命にあふれ、むしろ回りの私たちに、そして世の人々に、自分の生命のみずみずしさを気づかせてくれるすばらしい人格そのものであります。
この子らこそ「世の光」であり、「世の光」たらしめるべく、私たちは努力しなければなりません。糸賀先生は最後の講義で「この子らを世の光に・・・」の言葉とともに、大きな福祉の思想を私たちに託して逝かれました。

無財の七施(むざいのななせ)
財産がなにひとつなくても出来ること

眼施(げんせ)・・・人にやさしいまなざしをもって接すること
和顔悦色施(わがんえつじきせ)・・・にこやかなほほえみをたたえた顔で接すること
言辞施(げんじせ)・・・言葉の美しさ、やさしい声で接すること
身施(しんせ)・・・勤労奉仕のこと
心施(しんせ)・・・感謝の心
牀座施(しょうざせ)・・・席をゆずってあげること
房舎施(ぼうしゃせ)・・・一宿一飯の施しということ

(中略)
糸賀先生はこの言葉の中に、「知的障害といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。知的障害を持つ人たち自身の真実な生き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目覚め救われていくのだ」という願いと思いをこめられました。
(後略)

全文はリンク先でどうぞ。
糸賀さんの近江学園は知的障害者が対象ですが、私のような身体障害者にとっては宮城まり子さんの「ねむの木学園」も忘れ難いですね

↓朝日新聞デジタルから
https://digital.asahi.com/articles/ASN3Q736ZN3QUCLV00D.html
「障害ある子にも教育を」支援の先駆け、宮城まり子さん(2020年3月23日)

 日本の肢体不自由児養護施設の先駆けとなった「ねむの木学園」を創設した宮城まり子さんが亡くなった。93歳だった。歌手や俳優として活躍した後、障害がある子どもたちの福祉のために生涯をかけた。
 1927年に東京で生まれ、小学3年から大阪に。母親とは早くに死別した。
 20代で歌手としてデビュー。社会福祉への関心を高めたのは、55年に「ガード下の靴みがき」が大ヒットした直後だった。
 57年、「婦人公論」の取材で知的障害がある子どもを知った。59年、米国の俳優シャーリー・マクレーンさんの紹介で渡米、身体障害者に対する米国社会の積極的な理解に触れた。
 その後ミュージカルで脳性まひの女の子の役を演じることになり、役作りのために障害児の施設を訪れた。その際、当時は多くの重度障害児が「就学猶予」として義務教育の機会を与えられず、学校に通えないことを知った。
 「障害がある子もない子も教育を受け、愛されて当然。誰もつくってくれないから、自分でつくろうと決心しました」
 2018年の朝日新聞のインタビューに、当時の思いをこう振り返っていた。その思いを実現させたのが、1968年に完成したねむの木学園だった。
 ・・・
 私財を投じて立ち上げた学園は、肢体不自由児のための養護施設の先駆けとなった。養護施設として開園し、学ぶ場を確保するため、施設内に公立学校の「分校」も設けた。
 「すべての子どもたちに可能性がある」が信念だった。学園では、絵画や音楽、工芸などを積極的に教育に採り入れた。国内外で作品展「ねむの木のこどもたちとまり子美術展」の開催を重ねるなど、子どもの個性を伸ばす活動に取り組み続けた。
 ・・・
 日本障害者協議会代表の藤井克徳さん(70)は「肢体不自由児に関する制度が未整備だった時代に、教育、生活の場をつくったのは先駆的だった。大規模な絵の展覧会なども通して、障害者問題を社会化したという点で、重要な役割を担った。1、2年前だったと思うがテレビで拝見し、お元気だと思っていただけに残念」と悼んだ。
(後略)

 私という身体障害者が教師として教壇に立つ。そのこと自体が生徒に与えるインパクトはそれなりのものがあったと思っています。弱い立場の人、手助けしなきゃならない人、何もできない人・・・と思っていた障害者が「先生」として目の前に立ち、その人に理科を教わる。人格形成途上の人たちの価値観形成に、何らかの影響を与えられたとしたなら、よろこびです。
私は「ほのかな光」になれただろうか。

事故や病気で障害者になった方がよくいうことが、「障害者になって何もできなくなってしまった」ように感じたということですね。そしてそこから自分にできることを探し求めてスポーツに打ち込み、パラリンピックにも出場する。そんな「成功物語」が感動を呼ぶのでしょう。私のような、人生の始まりから障害者だったものにとってはまるっきり挫折感がない。自分にできることを積み重ねて、この70年余りを生きてきただけです。ごく当たり前の人生を送って来ただけです。
どうもね、パラリンピックに付きまとう「成功物語への感動」というやつが嫌いでしてね、白けています。

もう一言。私は障害者であることをある意味で誇りに思い、それを利点として生きてきました。そんな私には「障害者」と書くことに抵抗感がないのです。「障害」を作っているのはいわゆる「健常者」の側でしょ。障害物を持っているのは健常者の方々でしょ。どっちが「障害者」なんでしょうか。そんな話を生徒には年度当初にしましたっけね。

 

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