原爆ドーム保存工事
今日の昼前後のニュースを見ていたら、広島市の原爆ドーム保存工事の様子が報道関係者に公開された、とのことでした。
で、思い出すこと。
今回は5回目の工事なのですが、1989年の2回目の工事の時のこと。
寄付を募っていましたので、それに応じようと思い立ちまして、自分も当然なにがしかを寄付するつもりでしたが、生徒にも声をかけてみたのです。小遣いの一部を寄付してくれたらうれしい、と。誰が応じたか応じなかったかがわかるのはまずいことですので、箱を作って、化学準備室の入り口のすぐそばに机を置いてそこに小箱を置きました。誰が来て寄付したのかは私にもわからないようにしておきました。本人のみが知っていればよいこと。
で、それなりの額が集まったので私の分も加えて、「〇〇〇と授業仲間たち」という名前で寄付金を送りました。(〇〇〇は私の実名)。
工事も終わって、広島市から寄付に応じた人の名簿の小冊子が送られてきました。
そこにはちゃんと東京の「〇〇〇と授業仲間たち」も掲載されていました。そこをコピーして、生徒たちに、僕らの寄付がここに記録されているよ、とプリントにして配布しました。
何かの拍子に、廊下で校長とすれ違って、その時にその小冊子の「〇〇〇と授業仲間たち」というところを見せて、「うらやましいでしょ、私には授業仲間がいる。校長になっちゃうと授業仲間はいないですもんね。」と軽くからかったら、校長はちょっと渋い顔して笑ってましたっけ。
教室で生徒と一緒に授業をする、それが教師です。
教室を去ったものを教育者とはいわない。←これ私の人生の師・清田先生の教えです。
私はついに最後まで「授業者」として教室にとどまることができました。清田先生への恩返しができたでしょうか。
恩というものは重いものです。一生かけて返せるかどうか。
「師恩友益」。人生において師と呼べる人は一人いるかどうか。後はすべて友なんだよ、と教わりました。
清田先生の友になれたのかな。
先生は生前からご自宅を「師恩院友益居」とし、亡くなっては「師恩院友益居士」となられました。
私の最初の教え子も今はもう還暦。
授業仲間の皆さん。ご健勝で。
先生がなくなられたとき、授業の関係で葬儀に参列できませんでした。そのことを、年配の同僚のお寺出身の電気科の先生に話したら「亡くなられた方にはたっぷりと時間はあるのです。亡くなられた方も大事だけれど『生き仏』様が大事。生徒がまず第一、亡くなられた方には時間の出来た時にきちんと礼を尽くせばよいのですよ」と教わりました。心が軽くなりましたっけ。
生き仏様を大事にいたしましょう。
佳い言葉でした。
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