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2020年3月23日 (月)

浜益 増毛の思い出

↓3月初めころに書いた記事。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-7d180f.html
2020年3月 6日 (金) ルッツ(食材)

「北海道・石狩市 浜益地区 名物」とあります。
「浜益」に痺れてしまって、いろいろな記憶が湧きだして来て、かえって何もかけなくなってしまったのです。
で、まぁ、その思い出の方は、ずっと後回しにしましょう。

その記憶のお話。
私が大学に入学したのは1967年4月です。
教養学部の1年次はごく普通に過ぎていったのですが。
68年に入って、本郷の医学部の方から火の手が上がりました。
夏休みに入るころでしたでしょうか、「全共闘」という形がまとまってきた。
実は、私は高校時代に続いて大学教養学部でも化学部に入っていましたが、その化学部の活動として、夏休みに僻地の中学校へ行って、実験の指導をする、という取り組みを行っていたのです。
で、2年生になって、その取り組みのまとめ役が私に回って来て、北海道へ行こうという話になった。北海道の教育委員会に手紙を書いて、何度もやり取りを重ねて、増毛と浜益の中学校で受け入れていただけることになったのです。
僻地でしてね。昔、ニシン漁猟で栄えた港町だったと聞きますが、当時はもう、昔の面影はほぼなくなっていました。
行きがかり上、私が「隊長」さんと呼ばれることになりました。

Hamamasumasike
①滝川から増毛へ、バスがあったのかなぁ、まず行きました。

この増毛での話は、既にかなり詳しく書いておりますので、それを是非お読みください。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-bbf3.html
2015年9月 3日 (木) 思い出話
{後に妻となる女性との出会いも書いてあります。}
Wikiから引用

三國 清三(みくに きよみ、1954年8月10日- )は洋食料理家。北海道留萌支庁管内増毛町出身。父・正(手漕ぎの漁師)、母・亮子(農家)の間に7人兄弟の三男(兄2人、姉2人、弟2人、妹)として生まれる。実家は半農半漁。現在は東京四ツ谷の「オテル・ドゥ・ミクニ」等のオーナーシェフ。「ソシエテミクニ」代表取締役。日本フランス料理技術組合代表。称号(名誉学位)は美食学名誉博士(仏トゥール大学)[1]。北海道食大使、北海道白老アイヌ食文化大使。フランス農事功労章オフィシェ章受章。政府・各種社団法人の委員・理事等を務める。

私が増毛を訪れたのが1968年ですから、三國さんは14歳。きっとあの時出会ってますね。短い期間でしたが。人生の交錯って不思議なものです。

②浜益へ
増毛での授業を終えて、浜益へ行ったのですが。
陸路だと大回りだから、船で送ってやるよ、と漁船に乗せてもらって暑寒別岳を海から眺めながら浜益へ。絶景でしたね。
浜益でも歓待を受けました。浜益は増毛と違って砂浜でした。
地元の子どもたち用かな、少し沖にブイを浮かべてロープが張ってある。そこまでの内側で泳ぎなさい、ということですね。
私は泳いでブイの辺りまで行って浮かんで遊んでいました。脚が海底につかない方が私は気楽なんです。片足で体をコントロールするのは難しいので。そうしたら、生徒がびっくりした。脚が不自由な隊長さんが、すいすい泳いで沖へ行っちゃった、と。
きっと、あの時の生徒さんたちも、障害者というものを特別視しない視点を獲得してくれたんじゃないかな。

この思い出深い浜益の特産が「ルッツ」。私共が行ったのは夏ですから、ルッツにはありついていません。
もし季節がよくって、ルッツを提供されたら、あの頃、猛烈な胃袋の持ち主だった私はきっと堪能していたんでしょうね。

とまあ、思い出深い増毛・浜益なのでした。
そして、妻となる人と出会った、20歳の夏。

③東京へ戻ったら、東大闘争はどんどん激しくなっていった。
私はノンセクト・ラジカルです。
「無党派過激派」と言われますが、ラジカルはそういう意味だけではないのです。
ラテン語の「radix」が語源。
radix: base, foundation, basis, origin というような意味があるのです。
根っこ、根本、基本というような意味で、自分たちをラジカルと名乗っていました。
安定していてほしいと思う自分の足元、それを根っこから掘っくり返してしまえ、と。
障害者ってなんなんだよ、というのが全共闘における私自身のテーマ。
全共闘というのは組織ではありません。独立した個人の運動体でした。
シールズが近い感じだったな。問題が提起されたら、それに関心のある物が集まって運動する。
そして組織の自己保存性を破棄して、解散する。

やがて、1969年の「1・18・19」
↓閉塞していく状況の中での打ち上げ花火。1969年5月13日の三島由紀夫との討論会。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-596149.html
2020年3月19日 (木) 焚 50年目の真実

④その後、いろいろな議論の出来る場として、今度は自主講座というものを立ち上げました。
運営側にいましたが、自分もいっちょ、話をしようか、というのが「自らをして毒虫とせよ」。
1970年ですね↓
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-56bea7.html
2020年1月14日 (火) 自らをして毒虫とせよ
「自らをして毒虫とせよ」(自主講座 朝日ジャーナル 1970.9.27)
                  報告者 和 崩彦

思えば激しい時代でした。教師になるといことの根本もこの時代にあるのですが、書く気が起きたら書きますが、今はここまで。
老人の繰り言でした。

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