成人の日
★以前は今日1月15日が「成人の日」として固定されていました。で、まあ、ちょっぴり書いてみようかな、と。
私の成人式はもう50年前、1969年1月15日でした。でも行ってません。
1・18・19の直前。大学闘争も力尽きようとしていました。15日は秩父宮ラグビー場のところで機動隊と対峙していました。対峙といえばカッコいいけど、要するに機動隊に追い回されて逃げまどっていたのですが。地下鉄の駅に逃げ込んだら、上から催涙弾を撃ち込まれて、涙ポロポロ泣きましたっけね。ひどかった。
ま、そんな日だったのです。
妻も成人式には出ていないそうです。どういう夫婦なのか、なんとまあ。
成人式なんか無視して、20代に突入し、24歳で結婚し、26歳で親になり。・・・。人生は進むんです、成人式なんか行かなくっても。いつかは成人になり、そうしていつかは老人になるのです。老人式って聞かねぇなぁ。
成人式だ、なんて「感動」してたら大事なものを見逃しますよ。「感動」がやってきたら、身を引きはがしてみてください。それが大切なこと、大人のふるまいでしょう、きっと。
儀式というものを徹底的に嫌う爺さんです。教職にありながら、入学式だ始業式だ終業式だ修了式だ卒業式だ、という儀式からは、なるべく遠くに身を引いて過ごしましたっけ。
同窓会も大嫌い。生徒としても教師としても自分に関わる同窓会なんか1回も出たことない。成人式なんて巨大同窓会じゃないですか。誰がそんなものに出ますかって。
大人というものはね、ちゃんと自分の脚で立って、自立し自律するものなんです。
大人というものはね、逆らうものなんです。ガキみたいにツルまないんです。
私は大学闘争で得たものを放棄しませんでした。「続き」をやりながら人生の終局へ向かう「者」です。
儀式嫌い組織嫌い。ま、なんとか貫いてきたかな。
そんな爺さんです。夫婦足並みをそろえて。
★大岡 信さんの「折々のうた」から引用します。
少数にて常に少数にてありしかばひとつ心を保ち来にけり 土屋文明
『山下水』(昭23)所収。明治23年生まれの現代歌壇の最長老。昭和時代の短歌全体を通じ、時代に対する批評眼の鋭さにおいて抜群の歌人である。この歌は敗戦直後、群馬の疎開地での述懐。背景には当時の人心の動揺、自信喪失、右往左往の現実があった。「ひとつ心」を自分が保ってこられたのは、数をたのんで押し渡るごとき生き方と、常に絶縁して生きてきたからだという。静かで強い意志の姿がある。
★14日のいくつかの新聞から部分引用とリンクを。どうぞ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019011402000154.html
東京新聞(2019年1月14日)
筆洗
「君たちには無限の可能性がある」-。成人の日である。新成人に日本中でこの言葉がかけられているかもしれない▼門出を祝う日に水を差すつもりは毛頭ないが、脚本家の山田太一さんはこの「無限の可能性がある」が苦手だそうだ。「大人が若者を無責任に励ましているようで本当にいやな言葉だと思います」とまでおっしゃる・・・その言葉は失敗した人に向かって無限の可能性があったのに「その分の努力が足りなかった」と言うのと同じではないかとおっしゃる・・・▼何か別の門出の言葉をと探せば心理学者の河合隼雄さんが「大人であるための条件」をお書きになっていた。「単純に他人を非難せず、生じてきたすべての事象をわがこととして引き受ける力をもつこと」だそうだ▼・・・
https://mainichi.jp/articles/20190114/ddm/001/070/142000c
毎日新聞(2019年1月14日 東京朝刊)
余録
大人になるとはどんなことか…
大人になるとはどんなことか。・・・詩人の茨木(いばらぎ)のり子に<大人になるというのは>で始まる詩がある。すれっからしになることだと考えていた自分が、立ち振る舞いの美しい、すてきな女性に出会う▲詩は続く。<そのひとは私の背のびを見すかしたように なにげない話に言いました 初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても 人を人とも思わなくなったとき 堕落が始るのね-->▲その人は新劇の名女優、山本安英(やすえ)。・・・▲73歳の時の詩集「倚(よ)りかからず」の表題作がある。できあいの思想、できあいの宗教、できあいの学問、いかなる権威--いずれにももはや倚りかかりたくないと茨木は言う▲詩にはこうある。<ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある>。・・・
倚りかからず(茨木のり子)
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ「倚りかからず」筑摩書房刊より
背筋がまっすぐに伸びた美しい姿勢の生き方に、心底打たれます。
「大人になるというのは」と書きだす詩は
汲む
―Y・Yに―
という詩です。
検索してみてください。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13848108.html
(社説)成人の日に 思考の陰影感じる世界へ
新成人のみなさんに、見てもらいたい風刺画がある。
黒と白の真ん中に引かれた、グレーの細い線。「怒りの時代に、ニュアンスある議論へ与えられた空間」(The space for nuanced debate in an era of outrage)だという。
作者は、30年以上のキャリアを持つオーストラリアの人気風刺画家、キャシー・ウィルコックス(Cathy Wilcox)さん。昨年9月にツイッターに載せると、すぐに1500回近く「いいね」された。
「ニュアンスある議論」とは、何だろう。
あなたの意見に共感はできないが、意図するところは理解する――。そんな結論に至ることができる意見交換だと、ウィルコックスさんは話す。
・・・
そう、世の中は、白黒だけで成り立っているわけではない。■SNS時代の議論
・・・
名古屋大学大学院の大平英樹教授(感情心理学)は「SNSでは、同じ意見をほめ、異論は遮断できる。これを続けていると、異質のものを想像したり、中長期的に感情を制御したりする機能が低下するという考え方がある」と話す。
会って意思の疎通をするとき、相手の考え方は言葉だけでなく、口調や表情、しぐさなどからも判断できる。会ってみたら悪意はないとわかった、ただ自分とは違う価値観を持った人だった、というように。
スマートフォンやパソコンの画面だけを通じたやりとりだけでは、十分にはわからない。時にはスマホから顔を上げて真っ正面から向かい合い、触れてみよう。怒りや嫌悪の裏にある、何十、何百もの陰影に。
・・・■違いを超えて対話を
・・・
ニュアンスある世界へ、ようこそ。
あおられないようにね。時々「そっぽ向いて」みましょうよ。
みんなが同じ方向を向くなんて異常・異様なことなんだから。
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