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2017年9月 4日 (月)

駒繋

下の記事でコマツナギを間違って萩としてしまって、訂正したのですが。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-6ea0.html
2017年9月 1日 (金)  萩←訂正します「コマツナギ」でした
この中の引用文に

丈夫なので、これに馬のたずなをつないだことから「駒繋ぎ」と呼ばれるようになったという。

こういう記述がありました。
この一文が、私の記憶を揺さぶりまして、改めて記事を書きます。

★実は私、世田谷区立駒繋小学校の卒業生なのです。
2年生から6年生までを過ごしました。団塊世代ですから、1クラス50人くらいいて、一学年が10クラスくらいあったのかな。全貌はわかりません。なんせ人が多くて、学級内の全員の名前を覚えるのに一学期くらいかかったような記憶。すごいでしょ。
さて、多分社会科で、「駒繋」の由来も習ったような気がします。みなもとのなんとか、という武将が、この付近で馬からおりて(これが、しもうま(下馬)の由来)、馬を繋いだので「駒繋」となった。というような話だったような、あいまいな記憶。
あのあたり馬がらみの地名が多いんです。駒留というのもありますね。
今回、駒繋神社のHPにあたってみました↓
http://www.komatunagi.jp/414219144
駒繋神社

・・・
その後文治五年七月(西暦1189年)源頼朝公が奥州の藤原泰衡征伐のため、自ら大軍を率いて鎌倉を発しこの地に至った時に、往時義家公が子の神(当社)に参拝したことを回想し、愛馬より下りて駒(馬)を境内の松(駒繫松 現在は四代目を育てており境内には松はありません)に繫いで戦勝を祈願したと言われており、この故事により「子の神」が「駒繫神社」とも呼ばれるようになり、明治以降に正式に「駒繫神社」と称せられるようになりました。
・・・
源頼朝公が、奥州藤原氏征伐にあたり大軍を率いて多摩川の矢口を渡り、今の目黒区と世田谷区の境の道を渋谷に向って進む途中、乗馬にて沢を渡ったところ、馬が何かに驚いて暴れだし、沢の深みに落ちて死んでしまいました。この場所は、砂利場といわれ赤色の山砂利が出るところでした。そのため、馬を引き上げようとしても砂利が崩れて引き上げられず、馬が死んでしまったので、沢の岸辺近くに葬り塚を作り、馬が芦毛であったため芦毛塚と名付けられました。
その時に源頼朝公が「これから先、この地に来たときは、必ず馬から下りて沢は引いて渡れ」と厳命し、この沢を「馬引きの沢」と名付けました。(この沢は、蛇崩川で砂崩川とも書かれ、現在の蛇崩川緑道になっています。)
・・・
この源頼朝公の古事により駒繫神社付近一帯を「下馬引沢村」(馬から下りて沢は引いて渡る村)と呼ぶようになり、大正14年町制がしかれたため、引沢村が取れて下馬になりました。
また、芦毛塚は、もともと祠でしたが昭和44年8月24日に下馬史跡保存会の第一事業として、「芦毛塚の碑」が建設されました。
下馬史跡保存会刊 「しもうま」より一部引用

ま、こんなところです。芦毛塚というのも知ってます。蛇崩(じゃくずれ)川もすぐ近くだったな。目黒川の支流になるのかな。
小学生の頃に「繋」というメンドクサイ字が書けたのです、スゴイでしょ。
駒繋神社は普段の遊び場所でした。藤棚があったという記憶があります。
当時は、神社の祭礼が優先で、秋の祭礼の日には学校が休みになったのですが、そのうち、祭礼の方が土日に移動してしまって、つまんなかったな。
駒繋神社の前の蛇崩川に、イチョウの並木があって、銀杏がいっぱい落ちました。
結婚してからも近くに住んでいましたので、結婚した年の銀杏、子らが生まれた年の銀杏などを鉢に蒔いて盆栽風にしたものが今もあるんですよ。古い話になったなぁ。

思わぬところで「駒繋」に出会ってしまって、思い出話でした。個人の思い出につきあわせてしまって申し訳ありませんでした。

じゃ‐くずれ【蛇崩れ】‥クヅレ
がけなどの崩れること。また、その崩れた所。山くずれ。
広辞苑第六版より引用

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