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2016年7月28日 (木)

障害者

書けない、というのが正直なところ。
過去の文章を載せます。

★私のHPに載せた自己紹介のぶん。
教師現役時代、4月年度当初の授業1時間は、自己紹介をして、障害について話しをしました。その内容をプリントにして配布して、生徒の手元に残したい、と思ったのが以下のページです↓そこから一部を引用。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/essay/profile.htm
自己紹介
 以下の文章を読んでいただければ判るように、私は障害者です。足のハンディキャップに「負けない」ように、また、肉体にハンディキャップがあるのだから、それとは関係ない「頭脳労働」の仕事をするのがよい、と幼い頃からいわれてきました。でも、なんか変だ、僕には障害があり、障害を持った僕自身がそのまま本物の僕なのだから、障害を生かした生き方をするべきなんじゃないか。そんな気持ちも思春期の頃からしてはいたのです。高校の頃にニーチェに触れ、大学の頃にいわゆる「大学闘争」の中をまともにくぐりぬけ、「障害があるのに」ではなく「障害があるからこそ」の生き方をすることに意志決定したのでした。教職ならば、生徒たちに障害者としての肉体をさらし、障害者としての生き方をさらして、私と接した生徒は、次に別の障害者と出会う時には、それなりに障害者差別から解放された接し方ができるようになるのではないか、そんな気がしたのです。また、一方で「生涯、偉くなるとかならないとか、そういうことから離れていられる職業」としての「教職」も魅力的でした。教諭として26年、退職して嘱託員として5年、計31年間教壇に立ってきて、毎年度、新学期の最初の1時間は自分の障害の話と、障害者差別の話などを、必ずしてきました。10年ほど前からは予めプリントを用意して、かいつまんで話す、そのときの反応で話の焦点を変える、でも伝えたいことの全容は生徒に渡る、ようにしてきました。ここでは、そのプリントの今年度版を紹介します。(少しだけ手入れしてありますが・・・)
 過激な余談ですが、私は「すべての小中高に最低一人の障害者を教諭として配置せよ」と内心思っているのです。そうすれば、子どもたち生徒たちは、思いやりの気持ちや、生きることの大変さや素晴らしさ、命の大切さを全く自然に身につけていくのではないでしょうか。とってつけたように「生きる力」だとか「命の大切さ」だとか叫んでも子どもたちの心にしみこんでは行きますまい。障害者教諭がどの学校にでも配置されれば、砂に水がしみこむように、草花が水を吸って育っていくように、こころのしなやかなひとが育っていくと思うのです。はるかではかない夢なのでしょうか。
{ここまでは、HP掲載時の注}

[自己紹介 2004年度版]
☆1 こんにちは
 君達の心の泉に石を投げ込みたいと思います。10年後の君達の心に何が残り、何が生まれているでしょうか。10年後に「効き目」のでてくるような石を放り込みたいと思います。今日私と出会い、1年間つき合ってくれたら、今度別の障害者に出会うときには、君達は何も知らない人とは確実に違ってしまっている。私はそれをもくろんでいます。私は君達を巻き込みたいと思います、「障害者と共に生きるという豊かな生き方」にね。そして、これからの1年間を始めるにあたって一度じっくり考えてみませんか?というのが今日です。

☆8 ところで
 「障害」ってどこにあるんでしょうね。私が今の社会で若干の不自由さを感じるのは否めません。「またぎこすべき壁(バリア)」があるからね。目や耳や言語やいろんなところで能力の多様性(泳げる人もいれば泳げない人もいる。走ることの好きな人もいれば嫌いな人もいる。近視の人もいれば遠視の人もいる。理科の得意な人もいれば苦手な人もいる・・・能力とは多様であるのが当たり前。みんな同じ能力などということはありえない。多様であるからこそ、みんなが大事、みんなが唯一の人、になるんだろ。みんな違ってみんないい。ね。)の少々端の方に位置してしまった人はみんな「コミニュケーション障壁」や「行動の障壁」に悩まされます。視線入力カメラ、視線入力ワープロ。点字キーボード、点字プリンター。コンピューターにしゃべらせたり、音声入力もできる。障害者にとってコンピューターはもってこいの道具だね。筋肉が硬直してしまって自由にしゃべったり字を書くことのむずかしい人にもコンピューターは優れた道具だ。でもまだまだ改良の余地はいっぱいある。それを埋められるのは、いわゆる「健常者の側」だろ。バリアを低くすることができて、低くする義務を負ってるのは健常者の側じゃないかい?つまり、言いたいことはこうだ。
障害(バリア)を持っている(あるいは、つくっている)のは健常者だ。
  少々センセーショナルに表現してみた。でも見方を変えると随分違ったものが見えてくるってことが判ってもらえただろうか。(パソコン画面のアイコンや、銀行のキャッシュディスペンサーのタッチセンサーなんかは視覚障害の人には辛いね。)
  障害者とは健常者が作り構えている「障壁」=「障害」にさえぎられている人のことなんです。
 バリアフリーという言葉が最近はやっていますが、障害者や老人や幼児や妊婦や・・・いわゆる社会的弱者にとって使いやすいということは、実はすべての人に使いやすいということなのですよ。強い人は多少のバリアがあろうがなんだろうが気にせずまたぎこしていってしまうわけですが、私たちはそのバリアに引っかかってしまうわけです。ですから、最終的には、すべての人に使いやすい、汎人間的デザイン、物理的にも心理的にも情緒的にもバリアのないデザイン、つまりユニバーサル・デザインができるといいですね。しかも、それも、さりげなく、ね。いかにも「経済的には引き合わんが、わざわざやってやってるんだぞ」じゃ、いただけませんものね。 私は自分の障害を誇りに思っています。積極的に人前に自分をさらして障害者のことを知らせようとしています。それを教師という生き方にまでしてしまった。この行為は、ものを考えない人にとってはうっとうしいかもしれないし、自分の安穏たる暮しや日常性を脅かすものに見えるかもしれないね。そうなったらむしろ嬉しいね。そういう意味で私は「社会に害をなす者」でありたいね。そうして言おう、 
「どっちが『障害者』なんですか?」
「障害(バリア)を作ってるのは誰ですか?」
「みんなでバリアを低くしましょうよ」ってね。

部分引用です。よければ、ぜひ全文をお読みください。

★↓こんな文章も書いています。よろしかったらどうぞ。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/essay/disablty.htm
パラリンピックはキライです

効率主義の社会で、障害者は「非効率」なものにされてしまいます。
「競う」のやめませんか?
「競う」のやめると、気分いいですよ。
オリンピックも、パラリンピックも、やめちゃった方が清々していいと思うんだよなぁ。
{過激でスミマセン}

★朝日新聞の連載から↓

(コータリンは要介護5)避難を想像、途方にくれる 神足裕司(朝日新聞デジタル 2016年6月6日05時00分)
 阪神淡路の時も取材に行った。東北へも足を運んで「何が今一番必要か?」と聞いて回った。初めて被災地を取材してから21年、残念ながら障がい者についての取材はしていなかった。熊本の地震で、身体が不自由な方々はどうしておられたのだろうか? 自分がこういう体になり、話を聞きたいと切実に思った。
 ・・・
 大変さや辛さに甲乙はつけられない。けれど、なんらかのバリアーを背負っている方々は、大変な思いをされているに違いない。避難所の一角で、一部屋離れた場所で、寝たきりの方々でも気がねなくオムツを交換できたら。そんな福祉コーナーがあったらどんなにか助かると思う。
     *
 こうたり・ゆうじ コラムニスト。58歳。2011年秋にくも膜下出血に倒れたが、自宅で執筆活動を再開。辛口のグルメルポ「恨ミシュラン」などで知られる。愛称コータリン

全体としての内容は優れたものだと思います。
ただ、一つだけ、障害者の先輩としていわせてもらえるなら。
私は「バリアーを背負って」なんかいませんよ~。
バリアーを作って、向こう側にいるのは健常者の方でしょ。
健常者こそ、バリアー作成者、バリアー保持者、バリアーを背負う人、なんですよ。
だからこそ、「合理的な配慮をしないことは差別だ」といえるのです。
バリアーを背負っている健常者の方々は、ぜひその重たいバリアーを下ろしてくださいな。
楽になりますよ。
バリアーをなくしていくことができるのは健常者の側なんです。

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