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2016年4月 1日 (金)

正札附現金男

http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-809b.html
2016年3月30日 (水)「鯛車・江戸前の寿司」
↑ここで、歌川国芳の浮世絵の話をしました。
そうしましたら3月30日の夕刊に「奇才・歌川国芳、アイデア自在 大胆さ・遊び心・魅力 東京で2企画展」というタイトルの記事が載りました。

東京・渋谷のBunkamura・ザ・ミュージアムで開催中の「俺たちの国芳 わたしの国貞」展(6月5日まで)は米ボストン美術館の所蔵作から選んだ170件(約350枚)で、2人がいかに創意工夫を重ねてきたのかに迫る。
・・・
「国芳イズム」を開いているのが、練馬区立美術館(4月10日まで)。

この二つの企画展についての記事でした。

・・・「国芳もやう正札附現金男 野晒(のざらし)悟助」(1845年ごろ)は10人の任侠(にんきょう)を描くシリーズものの1枚。よく見ると男の衣装は国芳が好きな猫を組み合わせたドクロの柄だ。げたもドクロのよう。
 ・・・
 大の猫好きだった国芳らしく、「流行 猫の曲手まり」(1841年ごろ)などは、そのかわいらしさについニヤリとしてしまう。

猫好き夫婦ですので、こんなところを読んでニコニコと楽しんだのでした。
翌31日、前日の新聞を軽く再読していたら、わあ、30日の朝刊の24面に、Bunkamuraの企画展の一面広告があったんですね。朝は気づいていなくて、夕刊で触発されて、翌朝に気づく、という順序の反転した読み方をしてしまいました。
掲載されていた絵は「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」の部分。

↓ここでその絵が見られます。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi028/
歌川国芳「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」
絵の部分部分の解説文があるのですが一部を引用します。

野晒悟助のトレードマークのドクロ模様。よく見ると猫が集まってできています!

髪の生え際の表現は最も難易度が高い所。江戸時代には専門の職人がいた、彫師の腕の見せ所です。

私の方は新聞の写真から部分引用しますが。
Kuniyosi1
髪の毛や眉毛の表現、刀の束に巻かれた組紐、とてつもないですね。国芳が描いて、彫師が彫り、刷り師が刷る、超絶の技ですね。
猫の方ですが、確かに猫を使った「だまし絵」になっていたりするのですけど・・・。
Kuniyosi2
右端、思い入れが過ぎるのかもしれませんが、子猫が母猫の乳首にくっついておっぱいを飲んでいる姿に見えるような気がするのでした。判然とはしませんが。
連日、すんごいものを見てしまったのでした。

★で、ですね。
「国芳もやう正札附現金男 野晒悟助」なのですが。
「野晒」は

され‐こうべ【髑髏】‥カウベ
(「曝れ頭」の意)風雨にさらされてしらけた頭骨。野晒(のざらし)。どくろ。しゃれこうべ。
   広辞苑第六版より引用

落語にも「野晒し」というのがありますし、知ってましたが。
「正札附現金男」のほうがね。
ナンダ?
私の感覚としては「掛け値なし」というとらえかたなのですが。
「掛け値なしの任侠(おとこ)」なんて、カッコいい。{古いかな。任侠はヤクザではありません。}

にん‐きょう【任侠・仁侠】‥ケフ
弱きをたすけ強きをくじく気性に富むこと。また、その人。おとこだて。「―の徒」「―道」
広辞苑第六版より引用

高校の日本史でしたか、三井の越後屋が掛け売りをやめて、店頭で、正札(値札)つきで、現金で売る、という商売を始めた、と習ったように思います。呉服の値段なんてどうにでもなる、あって、ないようなものだった時代に、見ての通り、そのまんま、という商売ですから、スゴイですよね。
多分それだろうと思うのです。
「正札附現金」=「掛け値なし」という言葉の遊びだと思います。
江戸の言葉遊びはすごいからなぁ。
{もし違っていたらゴメンナサイ}


↓以下に、いろいろ検索した一部をご紹介します。

https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E6%AD%A3%E6%9C%AD%E9%99%84%E3%80%8B-1340259
《正札附》 しょうふだつき
【正札】より
…越後屋では商品に符丁を記した紙片を付していたが,正札による売価表示も同店がはじめたものかどうかは定かではない。この言葉は明和(1764‐72)ごろから見られるが,やがて〈正札附〉という言葉が流行したらしく,唐来参和(とうらいさんな)作の黄表紙《正札附息質(むすこかたぎ)》(1787)や,歌舞伎舞踊の《正札附根元草摺引(こんげんくさずりびき)》(1814初演)が書かれ,後者は《正札附》と通称されて人気を集めた。…

http://www.mitsuipr.com/special/100ka/04/index.html
   新商法で発展した「越後屋」
 伊勢松坂(現在の三重県松阪市)に生まれた三井家の家祖・三井高利が、延宝元年(1673)、52歳の時に江戸本町一丁目(現在の日本銀行新館辺り)に開店した呉服店「越後屋」は、現在の百貨店「三越」の始まりであり、三井の事業の礎でもある。
 当初、間口9尺だった店は、新商法により発展し、天和3年(1683)に駿河町(現在の三越本店の一角)に移転の後、本店と支店からなる江戸を代表する大店に成長した。
 その新商法が「店前現銀(金)掛け値なし」である。当時の呉服商は、見本を持ち得意先を訪ねて注文を取る「見世物商い」か、品物を得意先で直接売る「屋敷売り」が普通で、支払いは盆と暮れの年2回であった。高利の発案により越後屋は店で品物を現金で売り、掛け値なしという正札販売を実施した。また、当時反物で販売していた呉服を、切り売りして庶民に喜ばれた。
 高利は、江戸の店の開店と同時に京都に仕入れ店を設け商品の買付けに工夫を凝らし、資金の調達も合理的にすることで斬新な呉服販売を可能にした。
 江戸の店では、引札(チラシ)を市中に配布したり、店で注文に即応して羽織などを仕立てたり、にわか雨の時に傘を多数の顧客に貸すなどの新サービスを心掛けた。
 やがて川柳に、「駿河町畳の上の人通り」などと詠まれるほど繁盛する店となった。

http://goshom.com/2011/03/post.html
新参ならではの創造と革新
 かつて江戸では「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」といわれるほど、伊勢商人の活躍が目覚しかった。その代表的人物が、越後屋の三井高利である。
 当時、呉服物は高価な商品であり、着ることができたのは裕福層や一部の武士などに限られていた。それゆえ老舗の呉服屋では、屋敷を訪ねて品物を売る「屋敷売り」、注文を聞いて後で届ける「見世物商い」が一般的であった。
 だが、新参の越後屋が老舗と同じ事をしていても勝負にはならない。そこで「諸国商人売り(地方商人への卸)」「店先売り(店頭販売)」「現金正札販売(現金廉売)」「はぎれ売り(少量販売)」「即時仕立て」など従来なかった商法に転換、顧客 満足の視点から創造と革新に挑戦し、自らの活路を切り開いていった。
 とりわけ薄利多売を旨とした。「現金掛け値なし正札商法」は、「呉服物は紛い物多く、素人目には品定めが難しい」といわれた時代に、「遠国の田舎者、女童も値切らずに買って喜ぶ正札商法」と大評判を呼び、「お客様が遠くからみえて、朝から昼まで買い物をしていただいたほど」(商売記)だったという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B6%8A
江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A6%8F%E5%B8%B3
 大福帳(だいふくちょう)とは江戸時代・明治時代の商家で使われていた帳簿の一種。大帳(だいちょう)または本帳(ほんちょう)、「大宝恵(おぼえ)」とも言われ、繁盛を願い縁起の良い文字が選ばれた。
 売掛金の内容を隈無く記し取引相手ごとに口座を設け、売上帳から商品の価格や数量を転記し取引状況を明らかにした帳簿で商家にとっては最も重要な帳簿の一つであった。通常は美濃紙や半紙を四つ折り20枚程度で一綴りにしたもので不足した場合には付け足していた。
 また当時の商業取引の前提として売上は「掛売り」が基本であったため、三井越後屋を代表とする「現金掛値無し」(言い換えると現金購入なら売掛入金の期間分は割引きします)という新商法の台頭までは大福帳=売上帳の機能を担っていた。

★別件:二つ。
1:三井と神岡鉱山とカミオカンデ。{KAGRAも}
http://www.mitsuipr.com/special/100ka/40/index.html
   三井ゆかりの神岡鉱山と「カミオカンデ」
 小柴昌俊・東大特別栄誉教授、梶田隆章・東大教授のノーベル物理学賞受賞に貢献したニュートリノ観測装置「スーパーカミオカンデ」(岐阜県飛騨市)。施設は明治期に三井財閥が傘下に収めた旧神岡鉱山内にあり、現在も三井金属系の神岡鉱業が鉱山跡を管理している。
 三井による神岡鉱山の取得は三池炭鉱よりも早く、明治7年(1874)まで遡る。亜鉛、鉛、銀などの資源が豊富で、採掘は平成まで続けられた。
 昭和58年(1983)、硬岩盤の地質や湧水を利用した純水の確保などが宇宙線の研究に適していることから、東大宇宙線研究所のニュートリノ観測装置「カミオカンデ」が設置される。地下1,000mに設けられた3,000tの純水タンクと1,000本の光電子増倍管からなる巨大空間で、名前は地名の「神岡」と「NDE」(Nucleon Decay Experiment、核子崩壊実験)を繋げた。平成8年(1996)には鉱山内に新設された「スーパーカミオカンデ」に引き継がれた。
 施設建設にあたっては地下の巨大空間の掘削に三井金属の岩盤エンジニアリング技術が生かされており、また、素粒子物理学関連施設で実績のある三井造船も参画している。

2:私の信条
私はいつもこういっていたのです。
「私の言葉は掛け値なし。100%そのまんまに受け取ってほしい」
「私の言葉には割引きも割り増しもなし。」
生徒にもそういってました。

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コメント

初めまして。
GARADANIKKIというBlogをやっておりますMarcoと申します。
実は、歌川国芳の野晒悟助の浮世絵のことを調べていまして
「かかしさんの窓」さんにたどり着きました。
正札附現金男とは何だろうと疑問に思っていたところ、こちらさまの記事を拝見し、是非引用させていただけないかと思い、連絡させていただいた次第です。
本文には出典元として「かかしさんの窓」さんのリンクを貼らせていただいたのですが、如何でしょうか。
問題がありましたら記事を取り下げたいとおもいます。
お忙しいところ、大変恐縮でございますが、ご確認をいただけないでしょうか。勝手なお願いで申し訳ございません。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

内容的に、ど素人の思いつきなので、信頼性が低いことをご承知いただければリンクは問題ありません。江戸って、「昔」じゃないですね。極めて「今」なんだと思います。

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