世界でこの現象を知っているのは私だけよ
http://koba-t.blogspot.jp/2015/12/blog-post_22.html
動物行動学者の小林朋道さんの公式ブログです。
小林さんの著書「先生、○○○○です!」というシリーズを私は全部読んできまして、小林さんのファンです。
その小林さんの「ほっと行動学」というブログから引用します。
キクガシラコウモリは頬袋(みたいなもの)をもっている!(2015/12/22)
実験を手伝ってもらうキクガシラコウモリは、研究室に連れてきてから一週間近くは、私が、コウモリの口の前にミルワーム(甲虫の幼虫で、コウモリの餌にはうってつけ)をもって食べさせなければならない。
そうするとコウモリはバクッとミルワームにかぶりつき、むしゃむしゃとおいしそうに食べる。
ところがだ、かれらは私が与えるミルワームを次から次へと平らげ、「もう満腹」とばかりにミルワームにかぶりつかなくなるまで、結構な量の餌を与えなければならない。
もうそろそろいいだろ、という私の思いも通じず、まーよく食べるのだ。
そしてそのうち気づいたのだが、かれらは、私が与えた餌をすべて飲み込んでいるのではなく、途中から、口内の頬の辺りに溜めているのだ。その結果、頬の辺りが、ちょうどシマリスやハムスターの、餌で膨らんだ頬袋と同じような状態になるのだ。かなり膨れる。
おーっ、大発見だ!
その様子を撮ったのが上の写真である(ちなみに、ユビナガコウモリやモモジロコウモリなどの他の種類のコウモリではこんなことはない。きっとキクガシラコウモリの生活と深く関係した習性なのだ)。
おそらく世界約73億の人の中でこのことを知っている人は、数十人か数人か、あるいは私だけかもしれない。
「それがどうかしたのか?」とは聞いてはいけない。聞かないで欲しい。
これこそが「科学研究の原動力」「醍醐味」なのですよ。
世界中の誰も知らない領域へ一歩踏み出す、世界にただ一人。
ノーベル賞受賞者の梶田さんは「この研究は何かすぐ役に立つものではないが、人類の知の地平線を拡大するようなもの。研究者の好奇心に従ってやっている。純粋科学にスポットを当ててもらいうれしい」とおっしゃいました。
↓ここからの引用です。↑
http://www.asahi.com/articles/ASH9W5WBNH9WULBJ006.html
下の引用文を読んでください。米沢富美子さんの言葉。米沢さんは、日本物理学会の、女性としては初めての会長も務めたことのある方です。小林さんと同じことをおっしゃっています。
50年後につながるアモルファスの夢:米沢富美子
何かを発見するのは一仕事です。けれども、ある現象を発見して得られる「世界でこの現象を知っているのは私だけよ」という喜びには、代え難いものがあります。しかし、この歓喜の瞬間のあとに感じるのは、「これをみんなにどうやって説明しよう」ということなのです。今までのコンセプトを覆すような発見には、学会でもワーッと質問がきてしまいます。内容があまりにも新しいと、だれからもアクセプトしてもらえません。
「世界でこの現象を知っているのは私だけよ」って、ものすごい感覚なんだろうな、と推測します。
私自身は味わったことはない。
人は既存の枠組みの中で「認識」します。
その枠組み自体を変えてしまう営み、恐ろしいことですね。
認識の枠組みのないところでは「みれどもみえず」なのです。自分が何を見ているのかがわからないということはあるのです。それでもなお、見てしまう、という知的能力、私には想像を絶するものです。
枠組みの外へ踏み出して、新しい認識を得る。知的営為として最高の「歓喜」でしょうね。
拝察いたします。
米沢さんの言葉は下の本からの引用です。
「親愛なるマリー・キュリー 女性科学者10人の研究する人生」
猿橋勝子 監修 東京図書 2002年5月27日第1刷
猿橋賞といえば女性科学者を育てようという重要な賞ですね。
その猿橋さん監修の本です。
ではこの本から引用をもう少し。
未来に生きる女性たちへ――甘えていては道は開けない:猿橋勝子
新しいことを見出す喜び
科学の勉強をしていると、新しいことを見いだすことが、大変な喜びです。すでに発見されていても、よくわからなかったことについて、自分が実験していくなかで「これだったのか」とわかる。私だったら、家へ帰ってお風呂場で「万歳!」っていうくらい嬉しいですよ。生半可なわかりかたでは、前進しません。
・・・
研究には、未知の世界に挑戦するスリルとサスペンスがあります。そのおもしろさは、マリー・キュリーがいう「おとぎの国への一人旅」に似ています。
・・・
ゾウリムシの複雑さに魅せられて:高橋三保子
研究していると、変だというところにぶつかります。「これは?」というときがあります。常識と違った「何かくさい」というところがあるのです。それがおもしろいところです。学生が見つけたことを、私は大切にしたい。それは世界で、その人しか見ていないことなのです。小さくても、誰も知らないことを、今自分は知っている。誰にも見せていない顔を今、ゾウリムシは私に見せている。それが研究の醍醐味だと思うのです。
こういうお話を聞くこともそれ自体「歓び」ですね。なんだかドキドキしてしまう。
★ところで米沢さんの言葉の中に
歓喜の瞬間のあとに感じるのは、「これをみんなにどうやって説明しよう」ということなのです。
こうありました。
ここから話はふっとびますが。
お釈迦様は難行苦行を放棄して、菩提樹の下で静かな瞑想にふけって「悟り」を得た。
真理を得たという喜び・歓びを味わった後、「これをみんなにどうやって伝えよう」と悩まれたと伝えられています。
深遠な真理を説くことは容易ではない。
「内容があまりにも新しいと、だれからもアクセプトしてもらえません」からね。
そこを超えてくださったからこそ、現代に仏教が伝わるのです。
★また科学ですが
梶田さんは、最近、役に立つということが強調されすぎているとおっしゃっていました。
役に立つとかどうとか、そういうことは、科学の原動力足り得ません。
人間が人間であることの基本的な特徴、それは「圧倒的な好奇心」でしょう。
哺乳類の子どもたちのかわいらしさの根本は、生きることの安全は親に任せて、好奇心を旺盛に発揮するところにあるのではないかな。
好奇心旺盛な子をつぶしてしまうような教育をしなかったか、元教師として反省するところです。
また、高校教師としては
子らの好奇心をつぶさないでほしい、旺盛な好奇心でいっぱい遊んできてほしい、そうすれば知識の量なんかは問題ではなく、高校の理科は楽しめる。存分に楽しんでもらえるような授業を構築しよう。
こういう思いも強くあったのでした。
「夢」を強調しすぎて、夢の実現に「役に立たないもの」は切り捨てる、ということでは、あまりにも精神世界が貧弱になってしまう。そもそも「夢」なんて、そうそう確固たるものではあり得ないでしょ、老人としてそう思いますよ。
変転していく人生の中で「軸」はあるんです。それが「夢」。
夢というものは揺らぐけれど、それを軸として一生生きていけるということは確かです。
老人の繰り言ですけどね。
何かを選ぶということは、何かを捨てるということなのです。
そうであるならば、選択肢は可能な限り幅広く多様にしましょう。夢などという幻想のために、選択肢を狭めないでくださいね。
Keep your options open.
★また余分なことを。
ニホンザルのユズ湯の報道で「この日は最初に子ザルがお湯に入り、それを止めようとした親ザルもお湯へ。つられて周りのサルたちも入り、飼育係もサルもほっとした様子だった。」とかね。
http://digital.asahi.com/articles/ASHDQ4QZGHDQTIPE01T.html から引用↑
幸島の猿のイモが芋洗いを発明したのは1歳半の子ザルだったとかね。
好奇心こそが「真に新奇なること」を見つけ出していくのだと思っています。