言葉は跳ね返ってきます
浡「自己言及のパラドックス」という話をしました。↓ここです。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-af54.html
2015年4月28日 (火)「今年はウソつきません」
自己言及のパラドックスというのは
「この文は偽である」
「私は嘘つきである」
クレタ島の人が言った「クレタ人はみんな嘘つきだ」
こういう厄介なやつです。
今回の話は、それそのものではないのですが、ちょっと気になる文章を見ました。
折々のことば:32 鷲田清一(デジタル朝日 2015年5月2日05時00分)
本当に思っていることを、うまく書けない文章のほうがときには文章としては上である。
(荒川洋治)
◇
詩人は「言葉と意味との食いちがう部分」をしか信じないと、かつて大岡信さんは言った。言葉はいつも過剰か過少で、出来事や経験とぴたり一致することがない。が、その隙間に、祈りや悔い、希望や絶望が棲(す)みつく。そのちぐはぐさ、噛(か)み切れなさこそ大事だと現代詩作家の荒川さんは考える。胸をなで下ろすというより、よけい怖くなる。「文芸時評という感想」から。
この4月から始まった連載です。ただね、どうも、いいにくいけど、「これはすごい」という「ことば」に出会いません。
鷲田さんには申し訳ないのですが、寸評に噛みつきたくって仕方ない。
我ながら嫌味な爺さんになってきたよなぁ、と、渋い気分ですが。
もし荒川さんご自身がこの文を、「今、思っていることを、うまく書けたよなぁ」と思っていらっしゃったら、この文は「上ではない」かもしれませんね。
もし荒川さんがこの文について、「いろいろ工夫はしてみたが、どうも思ったことの全貌がうまく書き切れてないよなぁ」と思っていらっしゃったら、この文は「上」かもしれないですね。
文章、言葉というものは、発されたら、書かれたら、それは常に自分自身にも跳ね返ってくるのです。怖いですね。
いまブログを書いていても、この文はやはり私自身に跳ね返ってくる。ヤバ。
★もう一つ。
「詩人は『言葉と意味との食いちがう部分』をしか信じない」と大岡さんがおっしゃったそうですが・・・。
詩人って、やっぱり厄介な人たちだなぁ、というのが正直な感想。私にはとても付きあいきれません。
科学に携わってきた人間としては、「言葉と意味との食いちがう部分」をなくさなければ話になりませんからね。
科学用語が嫌われるのはそのせいなのですけれど。
言葉に与える意味を限定し、ある言葉が用いられたら、その意味は一つしかない、という形で科学者のコミュニケーションはなされます。
含蓄とか、多様な意味とかを可能な限り排除しなければ、科学のコミュニケーションは成立しないのです。そのかわり、世界中どこでも通用します、科学の用語をその意味で使う限りね。
私は長年そういう言語に親しんできましたから、どうも詩の言語は苦手です。
私は深味のない人間で、薄っぺらぺんです。ですから、私の言葉はに含蓄なんてものはありません。
ストレートに捉えてください、ありもしない含蓄なんか決して汲み取らないように。
私の言葉は100%。それ以上でもそれ以下でもない、と標榜して生きてきた人間です。
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