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2014年4月22日 (火)

絵は絵自身が語る

★「バルテュス展」が開催されているようですね。
鑑賞に行くだけの体力もなし、あまり関心はなかったのですが。
新聞記事を読んでいて、おおすごい、と思ったものですから、ご紹介します

「神聖なエロス描いた」 バルテュスの妻節子さんに聞く(朝日新聞 2014年4月17日)
という記事です。

・・・
バルテュスの妻である節子・クロソフスカ・ド・ローラさんはどう見ているのか。回顧展の魅力も交え、話を聞いた。
・・・
「絵は絵自身が語る」
・・・
 節子さんは、バルテュス展の見方について、こう話している。「バルテュスはよく、絵はただ見ることが一番大切だと言っていました。知識は仕入れず、清らかな気持ちで見て欲しいと思います

更にインタビューもありまして。

――バルテュスの作品は、なかなかまとまって見る機会がありません。
 バルテュスはよく、絵というものは、ただ見ることが一番大切であると言っていました。見ることはどういうことかと。それを映す心が清らかでないと、心が映らない。あまりいろんなことを読んだりインテリ的な方向で見たりするよりは、清らかな気持ちで見てほしいと思います。

――少女をモチーフにしたことに対して、世間から性的なイメージを付与されることを断固として退けたというよりも、バルテュスは晩年に至るまでそもそも語りませんでした。なぜなのでしょうか。
 絵自身は文学でも音楽でもないので、絵自身が語るべきです。絵画は目に訴えて、目を通して他の五感を動かします。説明があって理解するのは絵ではありません
・・・
 そういう意味で絵画とは何か、その本質はあるイメージがあればイメージ自体が語る、直截(ちょくせつ)的に人の心の中に入って語るものです。それがイメージそのものの強さです。
・・・

いいですね、これ、最高だ。
「絵はただ見ることが一番大切だと言っていました。知識は仕入れず、清らかな気持ちで見て欲しいと思います」
頭でっかちにならず、まっさらな感性のままで作品と向き合う(対峙する)ことが「鑑賞」ですね。
絵は絵自身が語る。「説明があって理解するのは絵ではありません。」

私にとって、ストンと落ちる言葉でした。
作者の側からそういっていただけるのはうれしい。
作者は「作品」にすべてを込める。鑑賞者は「作品」から作者が込めたものを味わう。
作者と鑑賞者は「作品」において対峙するべきだ。というのが私の青春時代からの主張ですので、とてもうれしく読んだのでした。
創造者でありえないのならば、せめて鑑賞者として真剣に鑑賞したい、というのが私の願いでした。

世の中「評論家」がはびこるからなぁ。鬱陶しい。
評論家どもを撃破して、脇へ取り除き、作品と向き合いたいですね。
絵、音楽、文学、詩歌・・・すべてにおいて。

物語に浸るの、やめません?
自分が聞きたい物語だけを聞いて、快く浸りきっていたのでは、創造的なものは生まれてきません。
物語を脱いでしまいましょうよ。
むき出しの自分が、むき出しの対象と正面衝突する。
ちょっとしんどいですけどね。
そらすなよ、にげるなよ、正面衝突しな。
とまあ、私はよく言ってきました。
正面衝突こそが新たなものを生むのです。

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