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2014年2月24日 (月)

終わりましたね

★私の主観では「やっと」がつくのですが、刺激的なタイトルもいかんかな、と。

★朝日川柳
2014年2月18日: 押し売りは昔ゴム紐今感動(片岡)
2014年2月19日: メダリスト勇気感動底をつき(伊谷)

全く。あの「感動秘話」の押し売りには参った。
中継は夜中ですから、健康優良爺(けんこうゆうりょうじぃ)のかかしは白河夜船。
ニュースで競技の結果だけ見ればいい。なんなら、トップの人のパフォーマンスくらい見てもいいかな。
私だって、限界に挑む人の姿に心揺さぶられるくらいの感性はある。
でもなぁ、日本人の「活躍」ばかりなんですよ。それも感動秘話ばっかり。
競技が行われる前に、報道機関の能力の全力を挙げて「秘話集め」やってたでしょ。
それを、競技に合わせて、大量に流す。
やめてぇ。(辺見マリさん風に)
昨日の新聞のテレビ番組表。東京マラソン中継はランナーの「感動秘話」を何時間も流す気らしかったので、一切拒否。
マラソンそのものは嫌いじゃないんだけど、普通のマラソンでも解説者が物語ばっかり話すでしょ。音声消して見てたりね。
正月の箱根駅伝もね。もうヤダ。

★朝日川柳
2014年2月18日: 騙される方も無かった審美眼(安田)
これは全日展の話ですけど、音楽の偽装も同じでしょ。
要するに、対象のありのままの姿に対して、自力できちっと向かい合っていない、ということですよね。
対象の周辺にまつわる「快い物語」を聞かせてほしい、酔わせてほしい、という鑑賞者側の欲求が受け皿になっている。

★自慢話を一つ。(自慢話は鬱陶しい)
高校生の頃。私、自分に創造者の「熱」がないことを自覚しました。そうであるならば、せめて「鑑賞者」としての「眼」を養いたいと思ったのです。
絵画展へ行って、作品の解説を聞かせてくれる装置があったので借りてみた。そうしたら、一回りして返却したところでドキッとした。解説をたっぷり聞いてきたけれど、作品と全く向き合ってこなかったじゃないか。
作者は、自分の伝えたいことのすべてを作品に込める。であるならば、鑑賞者は、作品とのみ向き合って、その作品が自分の心の中に惹き起こすものを、味わい尽くすべきだ。
表現者と鑑賞者は作品を介してのみ、対決すべきだ。
芸術の鑑賞とは作者と鑑賞者が作品において対決することである。
そう考えましたので、絵の前に立って、先ずは絵のタイトルさえ見ないことにしました。
一切の物語を拒否すると決意したのが、高校生の頃でした。毎週のように絵画展へ行ってましたっけね。きっと怖い顔してたんだろうな。今なら、もうちょっと柔和な顔で「対決」できるかも。

★スポーツだってそうでしょ。選手は肉体の極限の能力を駆使する。その表現を見るべきだ。物語なんか不要。
音楽もまた然り。周辺の感動的な物語に酔うべきものじゃない。
私、よく、ラベル(レッテル)でものを見ないようにしたい、というようなことを言います。
同じことの表現です。
対象の本質と正面衝突するのが大事。
レッテル貼って、そのレッテルで議論するのはやめましょ。
いろいろな状況が同じ根っこから発しているように思われます。

★朝日の記事から引用。

(探)「反知性主義」への警鐘 相次ぐ政治的問題発言で議論(2014年2月19日)
・・・
 元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は対談で、領土問題や歴史問題をめぐる国内政治家の近年の言動に警鐘を鳴らした。その中で使った分析用語の一つが「反知性主義」だ。この言葉を昨年来、著書などで積極的に使っている。
 どう定義しているのか。
 「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だと佐藤氏は述べる。新しい知見や他者との関係性を直視しながら自身と世界を見直していく作業を拒み、「自分に都合のよい物語」の中に閉じこもる姿勢だ。とりわけ問題になるのは、その物語を使う者がときに「他者へ何らかの行動を強要する」からだという。
・・・

自分に快い物語に酔っていると、いつの間にか、とんでもないところへ連れていかれてしまうかもしれません。
自力で考えることはシンドイ、結論の出ないことをペンディングなままに背負っていくのはシンドイ。
他人が作ってくれた快い物語に酔い、誰かに「決めつけて」もらって気分よく楽してると、どこへ流されていくのかわからなくなります。

ペンディングな状態に耐える心の体力を養いたいと自らに言い聞かせています。

★車いすで活動する樋口さんという女性のエッセイから。

・・・
“障害者=ひとりでは何もできない=何かしてあげないといけない存在”
そんな気持ちが無意識のうちに、言動へあらわれている気がします。
手伝ってあげる、守ってあげる——。
その発想は、優しさから来ているのかもしれません。
しかし、手伝ってもらわないと成り立たない生活は、障害者にとって幸せなものと言えるでしょうか。
何かをしてあげるのは、簡単なことです。
けれども、障害者自身で事が完結するような環境であることこそが、本当の優しさだと思います。
でも、その優しさを、きびしく感じる障害者もいるかもしれません。
手伝ってもらうのが、当たり前――
そうやって障害に甘えている障害者が少なからずいることも、悲しいかな事実なのです。
ひと昔前の障害を隠して生きざるを得ない環境や、出来ていたことが出来なくなる喪失感から自尊心をも失ってしまう……
そんなことを想像すると、無理もない気がしてきます。
障害者の一部に見える甘えた姿勢も、きっと本心から来るものではないでしょう。
「障害があろうとなかろうと、できることは自分でする!」
・・・

東日本大震災の後、妙に倫理的なものがはやったり、奉仕や慈善がはやったり、「絆」がはやったりしました。
鬱陶しい。
「手伝ってあげる、守ってあげる」なんて思い上がりじゃないですか?
快い物語には違いないけど。
できることは自分でする、できないことはできないのだから援助してもらい、援助する。それだけでしょ。
それがフラットでバリアのない関係です。上から目線はバリアです。
快いものは危険です。

★みんな「同じ根っこ」です。
心を揺さぶられ、快さを感じたら、ちょっとだけでいいですから、身を引いてみてください。
世の中が少し違って見えるかもしれません。

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