真理は二つの中心をもった楕円である
朝日新聞デジタルのサイトに「アピタル」という医療関係のコーナーがあります。
そこで読んだ文章の一部です↓
終末期における「もうひとつの物語」 高山義浩 2014年1月21日
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終末期にある患者さんの多くが、その解決困難な問題を前にして、死を受容する現実とは別の「もうひとつの物語」を創生しておられます。そこに新たな意味を見出し、書き換えながら生きておられます。もっぱら、その物語に(現実の)医者や看護師は参加させてもらえませんし、まあ、踏み込むべきでもないでしょう。でも、(キューブラー・ロスの受容理論とは別の)代替的な物語が紡がれはじめていることを、私たちは見落とすべきではないと思うのです。
「真理は二つの中心をもった楕円である」とは、内村鑑三が残した優れた言葉です。どうしても私たちは、中心がひとつの真円として構造認知しようとする癖があります。でも、ほんとは、真理ってのは二つの(ときに幾つもの)中心をもっているものです。真円だと考えると不条理なことも、楕円だと思えば納得がゆくのですね。そのどちらもが大切な中心だからです。都合の良いどちらかとだけ向かい合っていても、患者さんは決して救われないでしょう。いのちに関わる仕事をしていると、そんな風に感じることがあります。
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う~ん。哲学者とか詩人とか宗教者とかの「思索世界」って、繊細だなぁ。
私なんぞの雑駁な脳みそとは違うんだなぁ。
1点からの距離が一定なら円、2点からの距離の和が一定なら楕円、3点に糸の輪をかけてたるまないようにまわすと「卵形線」なんて。
味もそっけもなく理解してますからねぇ。
付随的な意味をそぎ落とすのが理系ですかねぇ。
だから、詩が書けないんだよな、ワタシ。
言葉の意味の豊饒(≒あいまい)さを使う気にはならない。
「真理は二つの焦点を持つ楕円」ですか。
離心率はどう解釈しますか。とか。
焦点から発した「光」はもう一つの焦点に必ず「至る」というのは、その比喩世界では何を意味しますか。とか。
無味乾燥なことを聞きたくなっちゃうんだよなぁ。
一時、さもわかったような顔をして科学用語を哲学に持ち込んでみせて粋がる、という風潮がありましたよね。
比喩や意味、の無限定な増殖を私は嫌います。
内村鑑三の言葉と言われても、ぴんと来ない、頑固かかしなのです。
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