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2013年11月28日 (木)

レッテルでものを見ない

★「行分けした散文」のところでこう書きました

有名人とか、なんとか、そういうレッテルでものを見ないで、自分の感性だけで立ち向かってください。それが芸術を鑑賞する唯一の方法です。作品と読者の「対決」を「鑑賞」というのです。余分なものをさしはさまないように。

http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-77e0.html
2013年11月22日 (金)「行分けした散文」

私ってこのことに関しては昔っから変わってない。(この場合の「昔」は高校生の頃のことです。50年近くの「昔」です。)

★では私の教員としてのラストメッセージから引用します↓
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/essay/lst_msg3.htm

05/02/02, 朝日新聞の記事の一部をコピーして貼り付け。
 「あらゆる芸術は、その表現を通じて、何らかのメッセージを発している。芸術鑑賞とは、一面ではそのメッセージを受け取ることにほかならない。」高階秀爾。

{この記事に対する私のコメント}

 これは異なことを聞く。芸術鑑賞とは、作品と鑑賞者が対峙し、会話することに他ならない、と私は高校生の頃に悟ったよ。創造者としては無能力な私は、せめて鑑賞者として自分を磨きあげたいと願ってきた。創造者は作品にすべてをこめる。その人の伝記も、作品の注記も、評論も不要、「題」ですらジャマなときがある。鑑賞者は、ただひたすらに作品と対決して、おのれの能力のすべてを傾注して作品にこめられたものを受けとめるべきだ。私の芸術鑑賞はそのようなものです。音楽も、絵も、彫刻も、詩も、短歌・俳句も、演劇も、小説も、・・・。作品を介して作者と語り合いたい。
 私は鑑賞者として一流でありたいと願った。せめて。

★ところで、きっかけになった高階秀爾さんの文章について、ですが・・・。
現在、朝日新聞で2,3か月に一回、「美の季想」という題で高階秀爾さんが文章を書いておられます。
文化勲章受章者に噛みつくのもなんかなぁ、と思いながら、毎回、この高階さんという方の文章は駄文だなぁ、と感じ入ります。{変な表現}
文章が「意味」を運んでこないんですよね。
読み終わって、結局この人、何を言いたかったの?なのです。
無意味。
「その表現を通じて、何らかのメッセージを発して」いないんだなぁ、この方の文章は。
「高階流」とかいう流派にでも属していたら、ありがたく拝読しなけりゃならないのでしょうが、生憎私は門外漢。
レッテルでものごとをみてはいけません。

テレビのニュースでよく「専門家」のコメントというのを流します。
なるほどそうなのか、というポイントを指し示してくれる方もいますけど、かなり多くの「専門家」のコメントは、トートロジーだったりして・・・
   私:今この人、なんか意味のあること言った?
   妻:全然
   私:結局何にも言わなかったのと同じなんだよなぁ。
ということが多いんですねぇ。
専門家だからってありがたく納得しちゃわないで、よく分析的に聞いてみてください、相当にくだらないですよ。

無意味なものにレッテル貼り付けてありがたがるのはやめましょう。
{ひょっとして食品の偽装問題も同じ根っこなのではないですか?}

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