清浄と不浄
★こんな記事があったんですよ
神社、ペットに門戸 「穢れ」意識変化、氏子に配慮(朝日新聞 2013年4月5日)
犬猫お断り、が一般的だった神社が変わってきている。飼い主と一緒に参拝できたり、ペットの七五三をお祝いしたり、と動物歓迎の神社が人気を呼ぶ。神社が重んじる穢(けが)れと清浄の感覚が変わりつつあるようだ。
神奈川県座間市の座間神社は昨年8月、ペットと一緒に参拝できる社を建てた。その名も「伊奴寝子(いぬねこ)神社」。鳥居をくぐると小さなお宮にさい銭箱。両脇に犬と猫の石像を据えた。
隣の公園をペット連れで散歩する人が多く、以前は境内の立ち入りを禁じる看板を立てていた。しかし、「一緒にお参りしたい」という氏子らの声が近年強まった。「今やペットには家族と同等か、それ以上の愛情が注がれている」と宮司。
●七五三お祝い
・・・
●禁止なお大勢
とはいえ、ペットの立ち入りを禁じる神社がまだ大勢だ。全国約8万社を包括する神社本庁は「排泄をする動物は境内に入れないのが一般的」(広報課)と言う。
「そもそも犬猫など四本足の動物自体が不浄とされてきた」と指摘するのは、国学院大学の教授(宗教社会学)だ。神道上の清浄と不浄の区分は明文化されておらず、時代とともに変化してきた。例えば、かつて出産は穢れとされ、妊婦は神社に近づけなかったが、そう考える人は今はあまりいない。教授は「清浄の感覚は、生活のなかで共有される文化的なもの。ペットは不浄という常識は通用しなくなるかもしれない」と話す。
★ボールドフェイスで告白しますが
わたくし「排泄する動物」です。
神社の境内に入っちゃいけないんですね。知らなかった。これまでたくさんの神社をけがしてきました。申し訳ないこっちゃ。
動物「みんなうんち」なんですけどねぇ。
http://www.ehonnavi.net/ehon/178/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%86%E3%82%93%E3%81%A1/
「絵本ナビ」というサイトから引用します。
大きいぞうは、大きいうんち。小さいねずみは、小さいうんち。
さかなも、とりも、むしだってうんちします。
いろんな動物が、いろんな形、いろんな色、いろんなにおいのうんちをします。
いきものは食べるから、みんなうんちをするんだね。
こういうお話を「かがくのとも」として出版するというセンスを、私は非常に尊敬します。福音館さんはスゴイ。
この絵本は子育て中に月刊絵本として子らと一緒に読みました。
これを受けて私は「私の悟り」と称して
「人間みんな糞ったれ」
というのを担任していたクラスのクラス通信に書きましたっけ。なつかしい。
誰一人として神社には入れそうにないですねぇ。
池に金魚がいてもマズイんじゃないですか。「金魚のフン」という言葉は死語でしょうけど。
鳥が飛んできて糞で種まきしてくれて、境内の植物相が豊かになる、などということは「不浄」極まりないですね。
★「四本足の動物自体が不浄」ってどういうことですか?
野良の犬猫なんか自由に出入りしてきたんじゃないのですか?
人間だって基本的には「四本足」でしょ。前2本を「手」という名前にしただけで、犬や猫と何か違いがありますか?
人間だけを特別視するんですね。
人間は偉くて清浄で、他の動物は不浄なんだ。
とんでもない思い上がりでしょうに。
私は虫さんに感化されて「虫の眼」的に物を見るようになったらしい。そうすると、見えてくるのは
もっとも不浄なのは「人間」だ
ということですね。
犬や猫や、牛や馬や豚や鹿や虫や植物や・・・人間以外の動植物たちは、真剣に誠実に生きてますよ。
肉食動物は不浄?いえ、人は畜産を行って大量に肉を食ってます。
不浄な生き物ですねぇ。
自分で手を下していないものだから、自分は不浄じゃない、などと思ってしまって、なおさら始末に悪い。
私は不浄な人間です。
★現役時代のある時、国語の試験監督をしていたら、試験問題に中島敦「山月記」が出題されていました。
その時私は、この作品をもう昔のようには読めなくなっている自分を発見したのです。
虎は高貴な動物でしょ。李徴が虎になるということは、ないな。
自らの力で狩りをし、余分な狩りはしない。立派な行為です。(人は他人の力で殺して食う。更に際限もなく殺し続ける。同種まで。)
口が兎の血でまみれているということは、きちんと生きているという証じゃないですか。
人間という愚劣な動物が、高貴な虎になることは絶対にありえない。
人間という愚劣な動物は、その愚劣さを背負ったまま人間であり続ける以外に生きようはないじゃないですか。
他の生き物はみんな人間より高貴なんだから。
・・・
我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。
・・・
{青空文庫から引用:http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html}
いえ、人間が自己のうちに飼っている猛獣は人間そのものなんです。
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」=あっちこっちべたべにくっつきまわる心=執着(しゅうじゃく)が猛獣として暴れ、苦悩を生み出すのですよ。
その猛獣をきちんと飼いならしなさい、穏やかに平らかに心を調伏しなさい、と、お釈迦さまは説かれたのだと思いますよ。
私は李徴に親近感を持つものです。よくわかるんです、同質な人間だから。
私は虎にはなれないのです。人間であることを背負っていくしかないのです。
虫の高貴さに伏す私の「つぶやき」でした。
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