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2013年3月13日 (水)

電波時計

★2011年3月11日の東日本大震災、それに続く原子力発電所の事故。
その後、「大鷹鳥谷(おおたかどや)山」の40kHzの標準電波が止まっている、ということをあの当時に書きました。
↓これです
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-d6d8.html
2011年3月17日 (木)「標準電波が止まっています」

http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-60b1.html
2011年4月22日 (金)「東の電波が聞こえたよ!」

電波時計が復活 福島県の送信所、無人のまま再開(朝日新聞 2011年4月21日20時46分)
 東京電力福島第一原発の事故の影響で、東日本を中心にできなくなっていた電波時計の時刻合わせ機能が21日、およそ40日ぶりに復活した。時刻合わせに使う電波を出す送信所が、原発20キロ圏内にあるため職員が避難し、電波が止まっていたが、送信を再開した。

この他にも少し書きましたが省略。

★で、この「復活」についての話が去年2012年10月の記事にあったのですが、ブログ用のメモ・ファイルに入れておきながら、忘れていて、3・11になって思い出しました。
遅くなりましたが、標準電波を維持する努力について、知りえたことをちょっぴりご紹介します。
<引用/始>
〈ザ・コラム〉復興を支える科学 悩みの時空へて育つ芽(朝日新聞 2012年10月28日)
                    渥美好司(福島総局長)

 科学者が相手にする時間スケールは、専門分野によって大きく異なる。福島で正反対の「時」を追う2人を紹介する。
 まずは時空標準研究室。東京都小金井市にある情報通信研究機構の一部門だ。室長の花土ゆう子さんは小学校の先生のような雰囲気で、難解な室名とすんなり結びつかない。
 昨年4月21日、花土さんは防護服を着て放射線測定器をもち、10人の仲間とともに川内村の警戒区域(原発から20キロ圏内)に入った。当時、研究者が業務で立ち入るときのルールはなく、県庁におかれたオフサイトセンターの担当者からは「自己責任で入ってください」といわれた。
 目的地は、おおたかどや山標準電波送信所。標高790メートルにある敷地は川内村と田村市にまたがる。高さ250メートルのアンテナから日本全土に向け40キロヘルツの電波を送っている。常駐していた所員は地震の翌日に避難し、この日まで機能停止していた。
 標準電波が止まると、電波時計は時刻調整ができなくなる。年1回、定期保守のため1週間ほど止めることはあるが、1カ月以上は例がない。再開のめどもたたなかったため、電波時計ユーザーから機構に苦情や問い合わせが殺到した。
     ◇
 再開するには装置や建物の状態をじかに確認しなければならない。送信所に着いた花土さんは原子時計室に向かった。ここと機構にある原子時計によって、100万年に1秒しか狂わない超高精度の時が刻み続けられていた。室内には空調設備がある。回路の発熱で温度が上がるのを防ぐためだが、事故のあと動いていない。装置内部の温度はふだんより14度高い54度だった。
 「これ以上になると原子時計が故障する恐れもあった。ぎりぎり間に合った。空調は使えないので、時計室と一般区画を仕切るドアを開放したら40度に下がった」
 この日から送信を再開したが、放射線量は平時より高く、常駐体制にもどすのはむずかしい。遠隔操作と監視の新システムを開発し、無人運用することになった。
 時空標準研究室は電波が届きにくい西日本エリアを補完するために、同じような施設をもっている。佐賀市と福岡県糸島市の境界線上にある、はがね山標準電波送信所だ。周辺になにもない山頂という環境が福島県の送信所と似ている。類似点はそれだけではない。30キロあまり西に玄海原発があり、事故への備えも迫られている。
(後略)
<引用/終>

ということです。最先端の技術なのですが、それを維持しているのは「人の技」なんですね。
私は東京で無責任なことを書いていましたが、現場で困難と闘っていた方々に敬意を表します。

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