鏡の話:10の5
★「ナメクジの言い分」足立則夫 著 の最終章・最終節から引用します。
殻を脱ぐ
生身の自分をさらけ出すのを避け、見せかけの殻で全身を覆うカタツムリのような人間が増えているような気がする。
文化人類学者の上田紀行が書いた『覚醒のネットワーク』を読んでいたら、こんな表現が目に止まった。「私たちが卵を見るとき、そこに見えているのは硬い殻です。けれども、卵とはその硬い殻のことではありません。それはその殻の内側にある生命力です。そこから生まれ出てこようとする力です。そして、その生命力は他の卵ともつながり、すべての生きとし生けるものともつながっています」。
ところが、人間は自分や他人を見るとき、外側にかぶった殻がその人そのものだと考えてしまいがちだ。例えば他人を評価しようとするとき、容姿や学歴、肩書など外側の情報で判断しがちだ。自分を評価するときも、外側の情報が他人とどう違うか、その違いだけが自分自身であるかのように受け取る傾向がある。
・・・
人間がかぶる殻は厚くなる一方だ。このあたりで、潔く殻を捨て去ったナメクジに倣って、殻の存在に気づく。殻を徐々に脱ぎ去り、カタツムリ型ではなく、ナメクジ型の人間を目指したい。そう恐れることはない。その昔、殻をぬいだナメクジは、生命体をされけ出しながら、ゆったり我が道を歩み、地球のあちこちで自在に生きているではないか。
そんな風に考えてきて、私は確信した。21世紀は、ナメクジに人間が学ぶ時代である。
パチパチ!すごい!ナットクです。
内容的にはね。
★ここで、かかしのへそ曲がり。
「たとえ話」が自立して動き出してませんか?
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-a853.html
2012年10月19日 (金)「正の数・負の数」
ここで私はこんなことを書きました。
「アナロジー」とは「類推・類比」「たとえ話」です。
アナロジーはある側面で出来事の性質をよく表現することができることがあります。
ある側面で有効なアナロジーだからといって、全面的に有効であることは稀です。
ですからアナロジーを無限定に拡大してはいけません。
どうしても人は「言葉の意味」にとらわれてしまう。
で、損と損が掛け合わさって儲けになるのはおかしい、納得できない、というようなアナロジーの拡張に戸惑ってしまうのです。
アナロジーは、「損と得という、反対向きの出来事」くらいのところで止めておけばいいのにね。
「よいたとえ話」は、理解を容易にしたり、理解を深めてくれることもあります。
初めのうち、例え話を作った時点では考えていなかったような、新しい理解に導いてくれることもあるのです。それは確かなこです。
そうか、こう考えることもできたんだ。ってね。
でも「たとえ話の自己運動」「一人歩き」が起こることも、ほぼ必然的なことです。
ところが、たとえ話の自己運動・一人歩きが無限定に拡大すると、逆に例え話が思考に枠をはめてくるようになることもあるのです。
物事にレッテルを貼り付けて、レッテルで考えるようになる、という、私の一番嫌う思考法なんですね、そいつに陥る可能性がある。
カタツムリは「殻」を背負って不自由だ、殻を捨てたナメクジは「自由」を獲得した。
という「殻」を背負ってませんか?思考に。
思考の「入れ子」が発生してめんどくさいことになってきますけれど。
面白いたとえ話です。深くて深刻な真実を含んでいます。
本のまとめとしては、こうならざるを得ないでしょう。
でも、少々、たとえ話の一人歩き・自己運動を感じてしまうんですよ。私は。
「言葉」というものは恐ろしい。発された言葉は必ず自分に帰ってくる。
それは意識していなければなりません。
その意識なしで発される言葉には、常に疑いの眼差しを向け続ける必要があります。
めんどくさくて、しんどいですけどね。やらなきゃならない。
めんどくささをきちんと背負っていくだけのしぶとさを持ちたいと、自分に対していつも思っています。
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