拒絶
★また、悲しい拒絶に出会ってしまった。
朝日新聞の2012年3月28日の記事です。
(石巻日記)命の記憶、受け止めたい 東日本大震災
手を合わせる。一年の間に、このことをどれだけ続けただろうか。
被災地の人々の自宅や仮設住宅にうかがい、遺影の笑顔に対面し、心の中で言葉にならない問いかけを繰り返す。
震災後にこの地に着任したので、生前のその人を知ることはない。何度も手を合わせるうち、時に、言葉にならない何かを感じ取り、心が晴れるような気持ちになることに気付く。いつしか、祈ることは「対話」なのでは、と思うようになった。
・・・
大川小で子どもを亡くした遺族から、メディアを批判する言葉を聞いたことがある。「遺族はどんなにつらい思いをしているか。その遺族に取材して、あなた方は生活しているのでしょう」。返す言葉が見つからなかった。
・・・
あえて言いましょう。おっしゃる通りなのです。
遺族に取材してそれを記事にして、この災害のもたらしたものを社会に広く共有してほしい、それが新聞記者というものの「仕事であり生活です」と。
人の不幸を「食い物」にしているわけではありません。
純粋な偶然のもたらす不幸をみんなで分担しましょうよ、といっているのです。
それは拒否すべきことではありません。
下の記事で、「想像力」という話を私は書きました。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-c113.html
2012年2月24日 (金)「想像力」
2012.2.20 朝日歌壇
あなたには子がいないからわからぬと痛いところを突かれてしまう:(さいたま市)五十部 麻それをいっちゃあ、おしまいよ。ですね。
その論理を突きつめると、「あなたは私ではないから、私の事なんかわかるはずがない」というところまで行ってしまいます。
そして逆向きに「私はあなたではないから、あなたのことなんかわからないわ」ですよね。
一切のコミュニケーション・共感の絶対的な拒否になってしまいます。
同じなんです。
コミュニケーションの絶対的な拒絶、否定をしてしまったら、一切が閉じてしまうのです。
それをやってはいけない。
つらいけれど何が起こったかを伝える、つらいからこそ敢えて出来事の全体を伝える。
その先に、やっと、そのつらさを託すことのできる希望の明かりが見えてくるんです。
遺族のいうことは正義だ、というわけではない。
大きな辛さのために、つい、そのような言葉を発してしまったのでしょうけれど、どのような時であれ、私はそのような言葉を容認することは出来ないのです。
人は人とつながってこそ人であり得るのですから。
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