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2012年2月28日 (火)

へそまがりの「詞集」:1

★いちいちの文にコメント付けません。
こういう言葉を選んだ、ということ自体が私という人間の「表現」になっていると思っています。そのようにご理解ください。(書きたいときは書きますけど。)

(生きるレッスン)無力感を超えて 回答者3人が座談会:明川哲也・あさのあつこ・森岡正博 (朝日新聞 2011年12月26日)
 ――震災をめぐって「絆」が盛んに言われました。今年を表す漢字にも選ばれて。
 あさの:絆で何でもくくると、きれいな、収まりのいい物語になってしまう。確かに美しい物語も生まれましたが、感動するために一言に集約するのは稚拙、思考停止です。
 明川:まとめてどうすんだ、という感じですよね。
 あさの:だからこそ作家として、具体的なところから言葉を発していきたい。
 明川:これほど重い共同体験をしたからには、二度とないように、というだけでなく、気づきがあるべきです。
・・・

この3人の発言は、いつも心に沁みます。また別のシーンでご紹介したいと思っています。

[CM天気図]ことしのCMベスト3:天野祐吉(2011/12/21)
 「絆」っていう字は、常用漢字にはない。ってことは、絆なんてものは現実の世界からもなくなっている、ということかな。
 そう、絆が失われているから絆って言葉がはやるんだろうね。愛がない人ほど、やたらに愛という言葉を口にするようなもんだ。
 だいたい、人と人がつながるのは、言葉だ。言葉でちゃんとつながっていれば、絆なんて言葉をことさら使わなくても、そこに自然と絆は生まれる。
 ・・・

さすが、天野さん。深く突き刺さります。

[声]今年の漢字「絆」に思い複雑(2011/12/19)
 今年の漢字は「絆」。日本漢字能力検定協会の恒例の公募で、東日本大震災やなでしこジャパンの勝利などから連想されたという。
 予想はしていたものの、私は少し違和感がある。東日本大震災の大津波で1万5千人を超える命が奪われ、約3500人がまだ行方不明だ。家族や親友、家を奪われ、命からがら避難できた人たちも、寒く不便な中でなんとか暮らしている状況だと思う。
 確かに大震災は安心に慣れた私たちの人生観を揺さぶった。家族の大切さや支援の必要性を感じたとはいえ、復興への取り組みも放射能対策もまだ不十分な中で、1年間の世相として「絆」の字を選んだことは、痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけた結果ではないだろうか。
 今年の漢字が始まったのは阪神大震災が起きた1995年だ。その時選ばれた字は「震」だった。1月に起こった大震災がみんなの脳裏から離れなかったのだと、今も思う。あれから16年。この国は弱く、軽くなったように感じられてならない。

(記者有論)年末年始商戦 「絆」の安売りが生む錯覚(2012年1月17日)
 「また絆ですか」。取材先の百貨店の担当者につい尋ねることの多い歳末だった。
 2011年の漢字に選ばれた「絆」は、買い物の世界でも引っ張りだこだった。家族同士で高額品を贈り、身近な人と過ごす時間を充実させる雑貨を買うことが「絆消費」ともてはやされた。お歳暮、福袋、おせちなどの商戦の取材で、主役は「絆」だった。
 たとえば、服やアクセサリーを詰めた福袋は結婚相手を見つけるための「絆婚応援」。こたつと土鍋のセットは「家族の絆」。東北の名産は「東日本との絆」。
 長引くデフレの下、値の張る買い物は敬遠されている。そこへ「買うことで絆が深まる」という物語を示すと、固かった財布のひもが少し、ゆるむ。百貨店の売り上げが低迷する中、高額品は昨夏以降、4年ぶりに前年を上回って売れるようになった。アクセサリーや時計などが贈り物として売れたことが要因だ。
 記事で頻繁に使った自戒を込めて、安売りされすぎだと思う。織田・豊臣・徳川の純金の像が「三武将の絆」というように、関係がよく分からない商品まで「絆」と冠された。絆と関連づけるのが「お約束」であるかのように。
 なぜそれほどまでに、人とのつながりを求めるのか。
 震災はさまざまな不安をかき立てた。稼ぐ手段をなくしたら、雨露をしのぐ家を失ったら、安心して飲食できなくなったら。国は頼れるのか、誰が助けてくれるのか――。
 実は、そうした不安は震災で初めて生まれたのではない。私たちの社会が既に、切実に感じていたものだ。
 セーフティーネットの谷間に落ちないために、絆が大切だと叫ばれてきたのは、震災前からだ。限界が見えた家族や地域だけでない、人間関係や社会保障の仕組みが模索されている途上だったはずだ。
 それだけに、消費を喚起するフレーズとして連呼されることに、違和感がある。商品の形でやすやすと購入できる「絆」は、重みもそれ以上ではない。東北との絆にしろ、産品を時々買うことは難しくないが、復興増税や食品の安全を確保する闘いなど、本当は長く、痛みを伴うことだ。
 それぞれの商品や消費にこめられた善意は温かい。しかしあまりに氾濫することで、この社会に絆が満ちているかのような錯覚が生まれるならば、向き合うべき問題の解決はむしろ遠のく。「また絆ですか」。日本中がつぶやくようになったら、怖い。

「絆」という言葉に酔うということは、実はとても危険なことなんだと思います。
自分を高みに置いて状況から離れていられるからです。
同じ地平に立って接近してくることは拒否。都合のよいことです。

たまに、現地にボランティアなどに行くと「かえって元気をもらった」などというのは失礼なことでしょう。高みから見おろして、あの人たちは大変だろうと「同情」していた、ということの表明に他なりません。そのことを意識してますか?

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