想像力
2012.2.20 朝日歌壇
あなたには子がいないからわからぬと痛いところを突かれてしまう:(さいたま市)五十部 麻
それをいっちゃあ、おしまいよ。ですね。
その論理を突きつめると、「あなたは私ではないから、私の事なんかわかるはずがない」というところまで行ってしまいます。
そして逆向きに「私はあなたではないから、あなたのことなんかわからないわ」ですよね。
一切のコミュニケーション・共感の絶対的な拒否になってしまいます。
障害のない人には障害者のことは絶対に、永久に分からないのでしょうか。
障害者にならなければ障害者のことは分からず、障害について語ることはできない、許されないのでしょうか。
いろいろな差別なんかも、みんなそうなんです。当事者以外には語ることはできないのでしょうか。
逆に、互いに分かり合えるつもりで当事者だけが集まるってことは可能なんですか?
「○○患者の会」って、私嫌いなんです。
そりゃ、当事者にとって重要な情報などが手に入りやすいでしょうけどね。そのような会の中では。
でも、同じ病気の人は互いに良く分かり合えて、同じ病気にかかった人同士はみんな仲良くなれて、みんないい人ばっかりなんですか?
同じ病気にかかった、ということ以外では、どんな人格の人が集まっているのか判ったもんじゃないでしょう。
付き合いやすい人もいれば、苦手な人もいる。
それって、患者の会ではなくったって同じでしょ。
そういうふうに、溝を言い立て、違う部分ばかりを言い立てること。
それが差別を生み、争いを生み、ひいては戦争を起こすのではないですか。
溝・違いは乗り越えられませんか?
人間には想像力というものがありますよね。
小説を読めば、その中に入り込めますよね。
想像力があるから。
想像力の翼を失ってほしくないのです。
想像力の翼をしなやかに強く育て鍛えてほしいんです。
だって、おそらく、想像力のみが、人と人の間の溝を越えさせてくれるんですから。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/essay/profile.htm
私は教師の現役だったころに、年度当初の1時間、必ず障害の話をしました。
その話を文章化したものが上のページに載っています。
そこから、一部分だけ
☆7 私の世界地図
行動の不可逆性や、右と左の非対称性を意識しながら、行動。「あの歩道の段に右足からかかるにはあと何歩か」「この階段は登るのはいいとして降りられるのか」「歩道橋はいやだ。回り道でも横断歩道にしよう」・・・。バスの走行中に立ったり座ったりはまず不可能というべきかな。電車の方がその点では楽だな。つまり、障害があると世界の見え方が違って来るのですね。君達の気づかない構造を読み取りながら行動しているのです。世界や人間や生命をより深く見てしまう。「障害があるのに」ではないのです。障害があるからこそ私は豊かになりえた。障害に感謝こそすれ、厭(いと)うことはありません。「障害を乗り超えて」というのがマスコミや世間は大好きだけど、「障害があるからこそ」「障害と共に」と読みかえてみましょう。また違った真実が見えてきますよ。それを可能にするのが想像力です。たくましい想像力の翼を養って下さい。
「ひとり想像力のみが我々をして他人の苦しみを感じさせる。」(ルソー、「エミール」)
★震災以来「絆」というのが流行りますが、私は好きじゃないんです、「絆」って。
被災者を一段低く見る。
そこから、かわいそうだ、たすけてあげなくちゃ、と同情、慈悲が発生する。
それって、絆という甘い衣装を着た差別意識ではありませんか?
高みに立って、自分はいいことをしている、と自己満足に浸れます。
でも、「東北」って放射能で「けがれ」ちゃったんだ。
その「けがれ」が同じ地平に立って、自分に近づいてきてもらっては困る、嫌だ、と、それは拒否する。「がれき」処理の問題ってそれでしょ。(沖縄へ運ばれた雪とおんなじ。)
測定して放射線が許容範囲に収まっていても
「けがれはいや」
なんですよね。
合理的な判断は停止してしまっていますね。
これって差別の論理ですよね。
障害者はかわいそう、自分は差別なんかしていない、でも障害者と接するのはいや。
障害者はこわい、という方もいますよ。なにするかわかんないんですって。
★この間、ウッドフォード・オリンパス元社長が会見でこんなことをおっしゃいました。
解任「憎しみはないが軽蔑」 ウッドフォード・オリンパス元社長が会見(朝日新聞 2012年2月17日)
オリンパスの巨額不正経理を追及して社長を解任されたマイケル・ウッドフォード氏が16日、ロンドンで記者会見し、前社長の菊川剛容疑者ら旧経営陣の逮捕を評価しつつ、「解明されていない問題がある」と述べ、真相の究明を求めた。
昨年10月、過去の企業買収の問題を指摘して菊川会長(当時)らに辞任を求め、社長を解任された。「彼は卑劣なやり方で、私(の人生や家族)を壊そうとした。憎しみはないが軽蔑している」と語った。
これ、最大級の非難なんですけど、日本人にうまく伝わっているかな。
「憎しむ」というのは、ある意味で相手を対等な人格と認めたうえでのものでしょう。
「軽蔑」というのは憎しみにも値しない、人格を認める価値もない、ということに等しいのです。
差別される側のものは、よくこんな主張をします。
「慈善はいらない。同情よりも憎しみを、敵対を」と。
慈善も同情も、自分を一段高い側に置いて、相手を低く見て、完全な人格とは見ない行為なんですね。それくらいなら、むしろ、敵対してくれ、憎しんでくれ、その方が相手としての私たちを対等な人格として見ていることになるのだから。
ということなんです。
なんだかなぁ、世の中、やたらと甘い幻想ははびこってるけど、殺伐としてしまいました。
悲しいです。
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