被災教諭、再出発の手記
6月20日の朝日新聞に下のような記事がありました。岩手県の56歳の高校の先生の話です。
被災教諭、再出発の手記 妻子捜し続け、避難所生活を書き殴った
(朝日新聞 2011.6.20)
その高校教諭は、妻の死亡届を出すことを決めた。がれきのまちを見るのが嫌になり、もう1カ月半以上前から、津波で行方不明になった妻を捜していない。震災から3カ月、久しぶりに訪ねたまちに日常が戻りつつある現実を見て決心した。避難生活や家族への思いをまとめた手記を再出発の「原点」にする。
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しばらく足を踏み入れていなかった陸前高田に12日、妻と照合する際に使う長男のDNA型を登録するため訪れた。次男の遺体が安置されていた小学校体育館のそばを通ると、中から歓声が聞こえた。スポーツの試合のようだった。
「この間まで遺体が並んでいたところで、子どもたちが遊んでいる。これが現実なんだな……」。周囲を見回すと、木々はすっかり新緑に染まっていた。
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手記の抜粋
《ウォシュレット世代も食えば出る。心は悲しみ一杯でも、食う限り人は泣きながらでもうんこをするのだ。それが生きているということだ(16日)》
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話の全体は省略します。下線を施した部分に私は激しいショックを受けました。
私は元理科教員ですから、知識としてのDNA鑑定はそれなりによく知っているつもりです。
妻かもしれない遺体とのDNA鑑定には長男のDNAを登録しなければならない。
事実としては当たり前。子は両親の遺伝子を受け継いでいるのですから、親子のDNA鑑定はできるのです。
ただね、私がショックを受けたというのは・・・
子はいずれ親元を離れ子自身の人生を歩んでいくもの、と私は考えています。
独立した人格として、去っていくがいい、と自分の子にも思っています。
子が去る、これこそ人生の幸せ、と思っています。
人生を共にする生涯の「伴侶」は配偶者です。別の人生を歩むべき子よりも自分の人生に近い存在。
もともと、愛とは互いの人生を一本に縒り合せようという意志のこと、と考えてきた私です。
そう、縁がなければ別々の糸だったかもしれない人生を、意志によって一本に縒り合せていく、それが愛なんだろうと。
自分の人生に相手を絡ませるのではない。互いに独立で対等な2本の糸が一本に縒り合せられる、そうでなければならないだろう。そんなふうにも考えています。
人生を共にするもっとも「ちかしい」相手、それが配偶者ではないでしょうか。
でも、DNA鑑定というシーンでは、配偶者同士というものは他人なんだ、という現実に突き当るわけです。
DNA鑑定によって、配偶者を確定することはできない。
当たり前のことであり、記事中にも何も書かれてはいませんが、私にとっては強烈な衝撃でした。
夫婦って、夫婦って、と絶句するのみでした。
◆「心は悲しみ一杯でも、食う限り人は泣きながらでもうんこをするのだ。それが生きているということだ」
根源的な真実です。この真実に例外はありません。
30年も前の担任時、クラス通信に「人間みんな糞ったれ」と書いたことがあります。
表現をきつくして、この真実を生徒に伝えたかった。この悟りのようなものに導いてくれたのが絵本「みんなうんち」。
人に貴賎はなく、この真実の前にすべての人は平等です。
うんこしない人間はいない。においを発しない人間はいない。
生きる人間にとって「超清潔社会」などというものは幻想にすぎないということを認識してほしいと思っています。「超清潔な暮らし」なんて、生きるということへの侮辱・冒涜のようにさえ感じている私です。
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