気持ちが「切れそう」です
大震災の4日後。朝日新聞の文化欄にこんな記事が載りました。
「東日本大震災」を詠む 短歌・俳句緊急募集(2011.3.15)
東日本大震災を詠んだ短歌・俳句を緊急募集します。今回の大災害を受けて詠んだ作品であれば結構です。
<白梅や天没地没虚空没>
1995年1月の阪神大震災で94歳で被災し、九死に一生を得た俳人の永田耕衣さんが震災後に作った句です。短歌や俳句を通じて、多くの方にメッセージを伝えてください。
応募方法は、自作の作品をはがきで。住所または連絡の取れる場所、氏名、年齢、できれば電話番号を明記のうえ、〒104・8011朝日新聞東京本社文化グループ「東日本大震災を詠む」係へ。随時受け付けています。
このとき私は「なんで?」と強く疑問を抱きました。何に対してでしょうか。
「はがきで」というところなのです。
だって、葉書でと言われてしまったら、被災した人は避難所から葉書に書いて投函なんてまずほとんど無理じゃないですか。郵便局だって被災しているはずなんだし。
葉書にこだわるということは、被災者の生の声は受け付けないよ、ということになりはしませんか?「メールも可」なら、普段からメールを使っている若い人だけではなく、年配者だって若い人に頼んで投稿してもらうことだってできるでしょ。
被災し、避難所にあっても、投稿できる。
押しつぶされそうな心を、歌や句に表現することで解放できる。
ある種の「心の支援」にだってなれるんじゃないですか?
で、大震災後初めての朝日歌壇・俳壇は3月21日に掲載されました。
このときは震災関係の歌や句はありませんでした。
せめて、「今回掲載分の作品の選考会は○月○日に行われたもので、震災に関わる俳句・短歌は掲載できませんでした」などの注があってしかるべきだったと思うんですよ。
なんにもない。かなり無神経なことでした。
また、歌壇の下の、担当者コラムにも大震災への言及は全くない。「東日本大震災を詠んだ短歌・俳句を緊急募集します」ってのを15日に出したんですから、当の歌壇・俳壇欄で何か書いて当然だと思うんですけれど。配慮がないですね。
さて、3月28日(月)11面の朝日歌壇・俳壇面では、歌壇に震災関連の短歌が約半分あり、俳壇には震災関連は皆無でした。その震災関連の短歌も、おそらくは被災者ではない。テレビなどのニュースで災害を見たりして「心揺さぶられた」作品が多いと思われました。被災者の声は掬い上げられていないと思われます。
歌壇下の担当者コラムには
被災地からの詠 強い意思に敬服(3/28)
例年なら、朝日歌壇にも淡い、だが確かな春の気配が漂う季節だ。開花、木々の芽吹き、かたや子や孫の卒業、進学、就職を伝えつつこもごもを思いうたう作品が並び心なごみ侯。
そのはずだったのだ。しかし3・11を挟んで届いた投稿歌が選歌対象となった本日の朝日歌壇は、つらい。どの選歌欄も、不安、おびえ、かなしみ、苦しさ、えたいの知れない冷たく湿った硬い叙情に覆われている。
万人が共有した3・11の衝撃を物語る投稿は、今も、日ごとに、さらに増えている。深手をおった被災地からの詠も交じり始めた。想像を絶する苦境にあって、必死に自分を保つ言葉を探し表現した歌がある。その強い意思に敬服する。
筆跡に、作者の無事を確認してすこし安らぐ。気丈に持ちこたえる人々の存在は、希望の拠(よりどころ)だ。はがきを運んでくれる配達の方々のがんばりに感謝する。
こうです。肉筆を読めるのは担当者だけ。読者は活字化された作品を鑑賞するんですよ。「筆跡」がそんなに大事ですか?被災なさった方々への「心の丈を吐きだして下さい」というメッセージは皆無ですね。情けないなぁ。「被災した郵便局」への想像力もない。想像力不足。
同じ28日の12面の文化欄では
「被災地へ希望を詠む 1300句から4選者が選ぶ」と題して俳句が掲載されています。
「東日本大震災を詠む」俳句を緊急募集したところ、多くの投稿が寄せられた。これまでにいただいた約1300句の中から、朝日俳壇選者4人が特選を3句ずつ選んだ。
とあって、句が掲載されましたが、選ばれた句の作者のご住所を見る限りやはり被災者の生の声ではないと思いました。
引き続き、俳句と短歌を募集しています。はがきに自作を書き、住所または連絡の取れる場所、氏名、年齢、できれば電話番号を明記し、〒104・8011朝日新聞東京本社文化グループ「東日本大震災を詠む」係へ。
こうあって、やはり「はがき」にこだわっています。
昨日、こんな記事が載りました。
行き着くところは涙しか…福島の詩人、ツイッターで発信(2011年3月29日19時5分)
福島市在住の詩人で、中原中也賞受賞者の和合亮一さん(42)が、インターネット上のツイッターで東日本大震災の状況を発信している。140文字以内の投稿はこれまでに約650。心を揺さぶる「つぶやき」に、多くの人たちが呼応している。
和合さんは福島県立保原高校(同県伊達市)の国語教師。地震が起きた11日は同校で入学試験の判定会議中だった。教師になって初めての赴任先は県沿岸部の南相馬市にある相馬農業高校。それだけに地震、津波、原発事故に襲われた浜通り地方への思いが人一倍強い。
「何か、言葉を発することで役に立てることはないか」。「詩の礫(つぶて)」と命名し、16日に最初の約40作品を載せた。《放射能が降っています。静かな静かな夜です》《この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか》《行き着くところは涙しかありません。私は作品を修羅のように書きたいと思います》
翌朝、和合さんのツイッターをフォローする人は500人ほどに。さらに投稿すると次々と増え、28日時点で約4500人になった。
読んだ人からはすぐに反応がくる。「新宿で飲んでいたが、今、帰ってきて読んでいます」「テレビの情報ばかり見ていると不安になる。この詩を見てホッとした」「心が折れそうになっていたが、進むべき道が見えてきた」……。
作品は長野や福岡のイベント会場などで紹介されたほか、「東北を元気づける曲の作詩をしてくれないか」「この震災のドキュメント雑誌を作りたい。その中でこの詩を使わせてくれないか」「英訳して海外で紹介したい」といった申し出もきている。
「休みの日は1日20時間机に向かっていた。自分も書くことで気持ちが立ち直ってきた。多くの人がちゃんと読んでくれている。今は、やめられない」と和合さんは言う。
ツイッターのアカウント名は「wago2828」。URLは「http://twitter.com/wago2828 」。
詩人の生の声・詩が果たす役割について、積極的に評価していますよね。
だったら、なぜ、被災者の生の声、呟きにもにた俳句・短歌を評価しないのでしょうか?
朝日歌壇・俳壇のあり方そのものに疑問を抱いてしまいました。
今日はこんな記事もありました。
郵便局132局が流失・浸水 死亡・不明者は計59人(2011年3月30日11時24分)
日本郵政グループは30日、東日本大震災の被害状況を発表した。郵便局は、簡易局も含め東北や関東地方の132局が津波で流されたり浸水したりする被害を受けた。死者・行方不明者はグループ社員だけで53人、簡易局関係者を含めると計59人にのぼる。
郵便局や簡易局は、岩手、宮城、福島3県で計1423局のうち127局が壊れたり浸水したりした。うち、77局は地震で壊れるか津波に流されるなどして全壊。郵便物の仕分けなどをする郵便事業会社の集配センターは、宮城や岩手で13カ所が全壊したほか、3カ所で浸水被害があった。集配車とバイクは計431台が使えなくなった。
30日現在、郵便局は岩手、宮城、福島の215局(簡易局含む)が営業を停止。避難所などに車両型の移動郵便局15台を配置し、通帳やカードが無い場合でも20万円を上限に貯金を払い戻すなどの対応をしている。
郵便は、集配センターが使えなくなった地域では近くのセンターで代替したり、公民館などの施設を借りたりしている。受取人が避難所にいる場合は、自治体の避難者名簿を活用するなどして居場所を確認できれば最大限届けているという。宅配便ゆうパックは震災後にサービスを停止していたが、東京電力福島第一原発周辺などの一部地域を除いて再開した。
全壊を免れた郵便局や集配センターは順次営業を再開しているが、全壊した郵便局などは全く復旧のめどが立っていない。
ほらね、葉書にこだわっていたら、被災者の生の声は聞き取れない、と私はいったじゃないですか。
事実上、被災者を排除した短歌・俳句の募集になってしまっているではないですか。
それはないでしょ。
今年の2月の毎日新聞です
発信箱:メール投句
毎週日曜は「毎日俳壇」を読む。少なくとも、選者の「評」がついた句は必ず。暦の上ではもう春。早春、春浅し、冴(さ)え返る、余寒、春寒……これからの季節を表す季語がこんなにある国で生きる幸せ。大雪の地方の方には申し訳ないが、晴天続きの関東ではもうウメが咲き始めてうれしい。
数年前に前橋支局長をしていたころ、群馬版の俳句欄の責任者として句会に呼ばれた。あのころからだろうか、俳句欄が楽しみになったのは。つくろうと思い始めると、世の中の見え方が違ってくるから不思議だ。花壇の隅っこや枯れ木の枝先、風の音にも注意がいく。あるときの句会で「支局長、投句をメールでも受け付けてくださいよ」と言われたことを思い出した。私は即座に断った。理由は特にない。俳句と電子メールが結びつかなかったから。
インターネットで検索すると、メール投句は当たり前だった。ならばと新聞の俳句欄を調べると、毎日と朝日はメール不可で、読売は可能。毎日は短歌は可というのは発見である。若い層が多いからだろうか。ついでにいえば、ウェブサイトの英字紙「毎日デイリーニューズ」では英語の投句をメールで受け付けていて、これはこれでまた味わい深い。ネットだと、すぐに投句できるし、郵送費も要らない。俳句のファン層拡大に役立っているのだろう。
それでも私は、何となく投句ははがきか封書で、と思ってしまう。支局時代、広告チラシの裏だったり、不自由な手で書いてある熱心な17文字をたくさんいただいた。手書き文字は「その時間」を封印しているように思えるのだ。自然と向き合い、一瞬ひらめいた感覚。その感動をそのまま刻むように残す作業のよう。メールの文字はみんな同じにみえて。分かっています、古くさいことは。でもなあ。(毎日新聞 2011年2月9日 0時19分)
繰り返しますが、手書き文字を読むのは担当者だけ。読者は、活字になった「詩の本体」を読むんです。手書きにこだわるのなら、葉書を写真にでもしてjpgファイルででも読者に提供すればいいでしょ。「これが手書きの味です」って。
なんだかピンボケなんですよね。
毎週、朝日歌壇・俳壇の作品を取り上げて感想を書いてきました。
なんだかその気持ちが切れてしまいそう。
選者はそれでいいんですか?同じように葉書の手書きにこだわっていらっしゃいますか?
長期間の後にどうなるかは自分でもわかりませんが、当面、崩彦俳歌「倉」は閉鎖します。
短歌、俳句だけじゃないしな、詩もいいかな。朝日にこだわることもないか。
想像力の欠如した「詩」の欄(詩の作者のことではないですよ、断固。あくまでも新聞社側への批判です)に、今はなんだかついていけそうにないや。心が疲れた。
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