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2011年3月 8日 (火)

火のぢごく

2011.3.7付 朝日俳壇より
春の夜のかの水べりの火のぢごく:(東京都)井原三郎
 金子兜太評:水べりで燃やされている火の激しさ。作者が暗示する内容がよくわかる。

 評では、明示的に「東京大空襲」と言ったほうがよいと私は思います。俳壇の作者も読者もだんだん若くなります。こういうことは、暗示ではなく明示するのがよい。

最近の朝日新聞の記事2本から、部分引用して補足とします。

昭和史再訪:東京大空襲 20年3月10日 両手広げた悪魔の飛来  [11/03/07]
9カ月間に大小100回の空襲
 終戦までの約9カ月間に東京への空襲は大小約100回に及んだとされる。東京大空襲・戦災資料センターによると、このうち1945年の「五大空襲」と言われるものが3月10日を含め、4月13~14日(死傷者約7200人)、15日(約2500人)、5月24日(約4900人)、25日(1万6900人)。
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 1945年3月10日
 東京の下町ではどの家も、つましい夕げの準備が始まろうとしていた。1945年3月9日、日本時間の午後5時15分。マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムから、325機のB29米軍機が次々に飛び立った。
 目標は、約2千キロ離れた東京。7時間ほどで「敵地」上空に達し、房総沖で旋回しながら僚機を待ち、大編隊となって攻撃した。空爆精度を高めるため、米軍として初めて2千メートル前後の低い高度で作戦を試みた。攻撃機の多くがレーダーで照準を定め、夜間でも正確に投下目標をとらえた。
 空爆は10日未明に始まった。浅草や深川などの下町を中心に落とされた投下弾は、約2時間半で1万2千個、1665トン。焼夷(しょうい)弾の雨でたちまち猛火の海と化した。
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 警視庁の資料では、大空襲による死者は8万数千人、被災者は100万人超、被災家屋は26万8千余に上った。江東区の猿江公園には約1万3200体、隅田公園には5千体以上の身元不明の焼死体が運ばれ、埋葬された。

東京大空襲66年:伝えたい記憶(上)溶けたお金の塊 [2011年03月07日]
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◆遺品が語る焼夷弾の熱
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 平野さんの自宅は江東区石島で質屋を営んでいた。45年3月9日深夜、空襲を知らせる警戒警報が鳴った。父親は母親と長女に、幼い弟妹4人を連れて千葉県の行徳にあった親戚の家へ逃げるように言い、店で使うお金を革のかばんに入れて持たせた。
 平野さんは父親と兄の3人で店の片づけをして、母親らの約30分後に店を出た。江戸川区に近い境川あたりまで来ると、焼夷弾で焼かれた通り両側の家の炎が道をふさぎ、先へ進めなくなった。3人は近くの小学校の校庭に避難。校庭で泥水の中に腹ばいになり、朝まで猛火をしのいだ。再び歩き始めたのは日が昇ってから。親戚の家にたどり着くと、先に来ているはずの母や弟妹はいなかった。
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 姉に教わった場所は、現在の江東区南砂1丁目付近の踏切そば。そこに母と弟妹3人が、体を寄せ合って横たわっていた。4人の遺体は全身黒こげだった。4人と一緒にいたもう1人の弟は、熱さを逃れようとしたのか、すぐそばの川で死んでいた。傍らのマンホールの上に、父が持たせたお金が、熱で溶けて塊になっていた。

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