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2010年11月 2日 (火)

神は選みて

2010.11.1付 朝日歌壇より
優しきひと神は選みて障害児授け給ふと医師は語れり:(東大阪市)大川純子

ちょっと角が立つ気もするのですが、こういう言い方が最近はやりのようですけれど、障害者本人としては、あんまりいい気分じゃないんですよね。
{私のような、身体障害者の勝手な言い分と聞いて下さい。知的障害となるとまた、問題が別になる。}

試練に耐える力のある人にのみ神は試練を与えられるのだ、とかね。
普段、「神」を信仰しているわけでもないのに、こういう時だけ「神」を引っ張り出してはけない。
要するに、人は純然たる偶然には耐えられない、ということですか。

障害のある子を持つことは、「マイナスの価値」なんですよね、この言い方が含むのは。
障害のある子を持ったがゆえに、感性が磨かれ、人生の深奥に触れ、豊かな人間観を育むことができた。という観点には立てないでしょうか?

最近読んだ本です。
「偶然とは何か --その積極的意味」竹内啓 著、岩波新書、赤1269
、2010年9月17日発行
その一部を引用します。

 古代の人々は、宇宙に秩序が存在することを発見し、したがって必然性がものごとを支配することを認めたが、同時に人間が理解できないことも起こることは認めざるをえなかった。しかしそれを些細な乱れとして無視してしまうことができない場合は、それを何か不可解な「必然性」の表れとして、「神意」「因縁」「運命」などと解釈したのであった。
 それはある意味では偶然を別種の「必然」と見なすものであり、「偶然」の存在を否定するものであった。純粋の「偶然」、つまり何ら理由なくして発生したり起こったりするものやことの存在を受け入れることは、人間にとって難しいことなのである。

 人間はその出発点においても人生の途中においても、またその結末についても、大きく「偶然」によって規定されているのであり、それは人生というものの根源的な「不条理」というべきものである。それはどうしようもないものであり、人はそれを自分のものとして引き受けて、最大限努力するより以外の生き方はない。
 しかし、考え方を変えれば、人間がそれぞれ異なった遺伝子をもち、異なった環境に生まれ、異なった偶然に出会うということが、一人一人の人生を独自のものとするのであり、それぞれに価値あるものとするのである。そうして、そのことはまた自分とは異なる他の人々の人生を、それぞれに尊重すべきものとしているのである。

タフになって下さい。偶然だからいいのであって、人生が必然で規定されていたら面白くもなんともないでしょう。偶然こそが、責任ある自由を生むのです。必然ばっかりだったら、責任なんか負いたくないよね。どうでもいいんだもん。

私が満1歳足らずのところでポリオにかかったのは純粋な偶然です。
だからこそ、それを誰かのせいにしたりはせずに、自分のものとして引き受けることができるのです。ポリオに罹患したことをも含めて、現在62歳、これが全部自分の人生です。

むき出しの偶然を引き受けることのできる意志を育てて下さい。

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