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2010年10月26日 (火)

後の月

2010.10.25付 朝日俳壇より
待ち合はす後の月とは気づかずに:(東京都)大久保白村
 稲畑汀子評:たまたま今宵が十三夜と知らずに出会った人との縁。

語感の問題なのですが、「出会う」という言葉は、「偶然に」という感覚ではないですか?
句は「待ち合わす」と言っているのですから、偶然ではなく、意図的に、約束をして待っていたのでしょう。待ちながらふと空を見れば、満月に足らない十三夜。あぁそうだったか、と気づいて楽しむ作者。それは「縁」ですね。

東京で9月20日の月の出は15:55でした。日の入りは17:42でした。
仕事を終えての夕方の待ち合わせでしょうか。

◆10月16日付の朝日新聞週末のbeという紙面で高橋睦郎さんが「後の月」という文章を書いておられました。

 旧暦八月十五夜、いわゆる中秋の名月を愛(め)でる習慣のお手本は中国。しかし、もともとわが国に該当するものがなかったわけではなく、月ごとの十五夜のうち、秋の初穂を祭る日に舶来のお手本を継ぎ木したのが、月見だという。
 ただ、お手本の中国にはなくて、わが国で生まれた月見の習慣もある。中秋の名月の一箇月のち、ただし十五夜ではなく二日早い十三夜の月を賞でる後の月だ。後の月の由来については、平安後期の公卿、中御門右大臣(なかみかどうだいじん)藤原宗忠の日記『中右記(ちゅうゆうき)』に

 保延元年九月十三夜、今宵(コヨイ)雲浄(キヨ)ク月明(アキラカ)ナリ。是(ココニ)寛平法皇明月無双ノ由(ヨシ)仰出(オオセイダ)サル。仍(ヨッ)テ我(ワガ)朝九月十三夜ヲ以(モッ)テ明月ノ夜ト為(ナ)ス。

とある。ここにいう寛平法皇とは風流天子として聞こえた宇多天皇のこと。しかし、江戸後期の曲亭馬琴(きょくていばきん)の『俳諧歳時記栞草(しおりぐさ)』の伝えるところによれば、天暦七(九五三)年、村上天皇の時、八月十五夜が先帝(せんだい)朱雀(すざく)天皇の国忌に当たったので一箇月延ばし、同時に命日を避けて二日早い十三夜に観月の御遊(ぎょゆう)をおこなった、という。いずれにしても、王朝時代の天皇の風流が産んだ、わが国独特の習慣ということになる。
 また、十五夜ではなく十三夜にした理由について、貞享五(一六八八)年の『日本歳時記』に

 八月にはすでに十五夜の月を賞しぬれば、易(えき)に月望に近しといひ、また天道は満てるを欠く義を取りて、この日を用ふるなるべし。

と説くが、完全より不完全を喜ぶ日本的感性も考えるべきか。
 後の月を発明したのは平安時代の王朝文化だったにしても、それを育てたのは江戸時代の町人文化、わけても俳諧だった。
(後略)

満ちれば欠ける。満ちる前の味わいなんでしょうね、十三夜。
鈍感な私にはあまりよくわからない、というのが正直なところです。

ところで、オマケ
10月26日の
日の出 : 5:57
日の入り:16:53
なんとまあ、暮れるのが早くなったことです。
朝起きるとまだ真っ暗です。

季節は確実に進行していきます。

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