征爾
2010.10.4付 朝日歌壇より
がん乗り越えし征爾より流るる滴チャイコフスキー弦楽セレナーデ:(上田市)竹中透
高野公彦評:注に「サイトウ・キネン・フェスティバル松本において」。美しい音楽を「滴」と言ったのが見事。
ニュースで見ました。
無粋者のかかし。オーケストラにおける指揮者の働きがよくわかっていない。
楽団員と一緒に、曲の解釈、演奏の仕方など、そういうところを、事前に丹念に打ち合わせて、相互に理解して、練習して、そして本番で指揮者の個性が際立って出てくるのですよね。(多分)。
あまり事前の練習・打ち合わせも、できずに、その時、指揮台に立っただけで、指揮者の個性が明示できるものなのですか?
とても失礼なものいいですが、「征爾」というレッテルで音楽を聞いていませんか?
がん治療直後の「征爾」の指揮を聞いた。感動した。
それは征爾と楽団員が産み出した音楽への感動ですか?
腰痛をこらえて何とかしばらくの間立って指揮をしたという「感動話」への「感動」ですか?
無理しないでください。充分に療養して、腰の筋力をつけて、充分な体力を以て、指揮して下さい。
あれって、すごく腰や腕や肩や、使う肉体労働でしょ。
万全の状態に体を仕上げてから指揮をするのが、鑑賞者への礼儀でもあるだろう、と私は思うんですよ。
もう一つ、「がんを乗り越える」という言い方が好きではないのです。
がんは身の内。自分の細胞・組織がコントロールを失ってしまうのですから、病気ともいえない。長く生きていくということの一つ必然的な結果です。
さしあたって、がんを取り除ける分は取り除いて、残っているかもしれないがんの活動は抑え込んで、がんと共に生きていくしかないでしょう。
無理せず。頑張らないで。ゆっくりどうぞ。
自分のことを言うのはなんですが、私は教壇に立つ「腰力」を失って退職しました。
生徒への責任です。
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