隠居
2010.9.11付の朝日新聞にこんな記事がありました。部分引用します。(太字は筆者による)
再読 こんな時 こんな本:紀伊国屋書店 市橋栄一さんに聞く:「隠居」原論
「隠居」とは、いわば無用の人のことである。
経済利益の飽くなき追求と競争原理を善とする物質文明の域外へ踏み出してしまっているからだ。しかし、無用であるがゆえに変幻自在に生きられる。流砂の上で必死に足を踏ん張って立ち続けなければならないような寄る辺なさにもつきまとわれずに済む。
市橋さんはその「無用」の生き方を、「自己の解放」と解釈して、「隠居」原論となる3冊を選んでくれた。
・・・
記者が薦める「したくないことはしない 植草甚一の青春」(津野海太郎 新潮社)は、1970年代の若者に「ファンキーな老師」と崇拝された粋人、評論家の植草がいかにそうなったかに担当編集者だった著者が迫る。
「したくないことはしない」。これこそ、「隠居」の神髄である。義理や義務のしがらみを断ち切った超自己中心の境地へ、もめごとを起こさずに没入するには、その生き方を「芸」の域まで磨くしかない。植草老はその範となるたぐいまれな人である。
その生き方の根底に終生、「新しいことはいいこと」という20世紀の前衛的信条があったと著者は論じている。
笑ってしまいました。私のことを言っているのかと思った。
そもそも、障害者であることを原点として引き受けたところから、私は「隠居」だったんですね。
せっかく障害者になれて、競うという価値観から解放されたのに、なんで競わなくっちゃいけないの?とパラリンピックを批判する文を書いたこともありますね。
「しがらみ」もほとんどないんですよ。教師ですから異動があるわけで、そのたびに人間関係をほとんどすべて脱ぎ捨ててきてしまった。同窓会というようなものも、まったく関心なし。年賀状という儀礼もとっくの昔に捨てちゃったし。
身軽でいいですよ~。もし私が死んでも、知らせなくっちゃならないところはほとんどない。
植草さんとは違った形で「芸」にまで達したかなぁ。
「新しいことはいいこと」という表現のままは受け入れられませんけれど、「新しもの好き」は大事だと思っています。過去の蓄積物なんかにかかずりあってはいたくない。好奇心の赴くまま、新奇なこと珍しいこと、知らなかったことをを求めて、日々楽しんでいます。
これって、隠居ですよね。
ところで、ちょっと話がずれるのですが、教師の現役時代、私はよく「教師は世間知らずでいい」といったものです。
学校というところは、世の中の仕組みや姿の原型、理想、仕組みを知るところでしょ。
なのに、今の世の中の仕組み、今の世の中に通用する価値観を絶対的なものとして教えたのでは、新しい世の中が作れないじゃないですか。
ですから、教師が「世知辛」かったり、「世故にたける」必要はないんですよ。民主主義の「原点」に立って、あるべき姿を説いていいんです。実際の社会とのずれはある。それは、大人の個人が背負って、矛盾の中を生きていく中で解決へ向けての努力を尽くせばよい。
学校は、世間に流される必要はない、と今でも思っていますが。
隠居はこんなことを考えます。
「人事」カテゴリの記事
- 「父」からの脱出(2023.06.01)
- 子供達に、1番に笑ってほしい!そしたら大人は頑張れるんだ!!(2023.02.20)
- クリスマスの足袋(2022.12.25)
- 日食月食(2022.11.21)
- 朝日川柳欄から(2022.11.21)
コメント