概念なき死
2010.9.20付 朝日歌壇より
自(し)が影に花びらのごと蝶墜ちぬ概念なき死は怖れなき死か:(和泉市)長尾幹也
「死」という概念をつくってしまったところに人間の不幸があるわけで、生まれ来るも死に去るも、そう特別なことではないのにね。
生まれる前に何かがあったわけでもなし、死んだ後に何かが残るわけでもなし。
死ぬ時には意識の統合がほどけてしまうので、苦痛も何にもありはしない。
ただ、死ぬのが怖い、とか、死んだら何にも残らない、とか余分なことを考えるのがいけないのです。
生まれた以上生きる。生きている以上死ぬ。ただそれだけのこと、に徹してしまえば、何にもない。
実はおそらく、釈迦の教えはそういうところにあるのです。
「概念」とは中味の朽ち枯れた外殻でしかないのに、それが実体であるかのように思って苦しむ。そんなことへの執着は捨ててしまいなさい、そうすれば「苦」は消えますよ。
ちょうど明後日は「彼岸の中日」。
執着に苦しむのが「こっちの岸=此岸」、執着を離れて自在にあるがままにあり、また、消えるのが「あっちの岸=彼岸」。
ヒト以外の生物たちはみんな悟りに達していましてね、彼岸にいるんです。たまたま、此岸に姿を現して私たちの目を楽しませてくれますが、あれらは皆悟りし者。
どうということもない。あっちの岸へ渡りませんか。
ご一緒に。
彼岸にわたるというのは、即、死ぬということではありません。
心が凪ぎわたることです。
生きたままでも渡れるんですよ。
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