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2010年9月 1日 (水)

母じゃない

2010.8.30付 朝日歌壇より
母じゃない、母じゃないんだ、母じゃない。ああこの骨が母というのか:(東京都)無京水彦

どうも、わたくし、薄情というのか、強情というのか。
祖母、母、兄の骨揚げをしましたが、激情に身を悶えさせるということはありませんでした。
お骨への感情の移入がないものですから、墓に納める、ということへの執着もない。
地球に生まれたものは、地球へ還ればよい。
ちかしい者の心になおしばらくとどまって、やがて無名の者たちの世界へ去るのが、幸せというもの、と心得ております。
それは私の気持ち。
歌われた激情を否定するものではありません。

◆かつて、生徒を修学旅行に引率する前に、教室で、原爆の詩など読み聞かせたことがあります。
林 幸子さんの「ヒロシマの空 」という詩も読みました。
一部分だけ引用します。

・・・
ああ
お母ちゃんの骨だ
ああ  ぎゅっ  とにぎりしめると
白い粉が  風に舞う
お母ちゃんの骨は  口に入れると
さみしい味がする
たえがたいかなしみが
のこされた父とわたしに
おそいかかって
大きな声をあげながら
ふたりは  骨をひらう
・・・

全文は下のページでお読みください。
http://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/taikenki/sora.html

ある生徒が、なんで骨を口に入れるんだ?と呟きました。

私、
人が、もっともちかしい者の存在を確認したくなった時、おそらくは、しっかりと腕に抱きしめたいと思うのではないだろうか。そう思うよ。
ところが、その相手の体がない、骨の灰しかない。握りしめてもこぼれる灰。抱きしめようもない、どうしようもない時、最後は、口に、唇に、舌に相手の存在を確認するしかなかったのではないかな。
赤ちゃんは、何かを確認し学ぶときに、口にいれる。唇の感覚、舌の感覚、それは人間存在のもっとも奥深いところで、相手の存在を確認する、最終的な手段なのかもしれない。

そんな話を思い浮かぶままに聞かせたら、なんとなく納得してくれました。
教師というものは、いろいろな局面で、自分をさらけださないわけにはいかないものなのです。

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