四十九日
2010.9.20付 朝日俳壇より
凄まじや四十九日のいなびかり:(箕面市)大野美恵子
大串章 評:死後四十九日目のすさまじい稲光。この日まで死者の魂は迷っているとされる。
法事の雷雨、というのは「すさまじい」出来事だ、ということは充分に理解します。
評がねぇ、なんだかねぇ。
御霊前とか御仏前の使い分け、ってのがありましたね。亡くなった方は初めは「霊」で、やがて「仏」になるんですか?
葬式仏教とは、ずいぶんいろいろ妙なことを言いだすものだ。
そもそも、死後の霊の存在なんて、基本的に釈迦は言っていないと思うんですけれどねぇ。
まあ、親しい人を失った衝撃を和らげていくための「装置」として、だんだん間隔が長くなっていく法事というものは優れた装置なんでしょう。
それだけですよ。
後に残った人が納得できればいい。法事の形にとらわれることは全くない。
私は葬式仏教のお世話になる気は全くない男です。
私は原始仏教の理解者です。実践はまるっきり不十分ですから、実践者とは名乗れませんので、理解者としておきます。
日本の仏教をみていると、恥ずかしくなる人間です。
形式として、社会人だから、従いますけどね。
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