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2010年9月 2日 (木)

教師

太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり:正田篠枝

9月に入って、猛暑日が続く東京です。
8月の原爆忌のときに、「出会い」という題で、私自身の「関わり」を書き散らしたのでした。↓
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-9ff9.html

その時に、書きたいなと思いつつ書けなくて、今も多分まともなことは書けそうにない、というテーマがあります。
冒頭に掲げた歌についてです。
広島の「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれています。

ぐったりと恐らくは息絶えた幼い児童を両腕に抱え、深い絶望の眼差しで空を仰ぐ女性教師の像です。

私も、教師のはしくれでした。
教室に立つ、ということの意味を、常に考えていました。
通常は「授業」です。でも、地震・火災・事件・・・なにが起こるか分かりません。
そういう時に、教師としての自分は、生徒とともに、どのような行動が取れるのか、取るべきなのか。何か事ある時、生徒に対する責任を果たすことが私にできるのか。
それらは、教師たるもの、常に自分につきつけていなければならない刃であろうと思います。

原爆が投下され、教師としての極限に突如放り込まれてしまった女性教師。
その思い、いかばかりか。
自身も家族がありましょう。でも、その瞬間、子らにとって絶対的に頼ることができるのは、その先生だけでした。その子らの思いを引き受けつつ、何もできはしないあの状況。絶望のどん底にあられたことでしょう。
言葉になりません。

あの頃、小学校3年生以上は疎開していました。でも、1,2年生は、幼いがゆえに疎開から外され、親元に残りました。中学生も建物疎開作業に従事させられて、疎開しなかったそうです。
その、幼い子が、あの原爆に焼かれたのです。
無念です。
教師約200人、児童約2000人が犠牲になったと考えられるそうです。

8月31日の朝日新聞天声人語「8月の言葉から」に、こんなことが書かれていました。

 〈八月五日(日)晴れ〉。少女の日記は〈明日からは、家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う〉と結ばれている。13歳。原爆で亡くなる前日だった。平和と安穏を求める8月の言葉から。
・・・

疎開した方々の辛い思い出も聞きます。そして、疎開から除外されて被曝した声もない無念にも思いを致さなければならないでしょう。

どうにも、この文章を「まとめる」方向に持って行くことができません。

唐突に、ここで終わります。
教師という職業を思います。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kyousitokodomonohi.htm
松山大学のサイトです。
「小さきあたまの骨」の主が、小学校1,2年生だった、ということはこのサイトで知りました。

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