体温
2010.9.12付 朝日歌壇より
幼子の事件聞くたび抱きよせて子らの体温確かめており:(高槻市)有田里絵
大切なものを、両腕にひしと抱きしめる。手のひらに包む。
大事なことです。相手の体温を感じ、存在を確かめる。
赤ちゃんと一緒に成長するということは、「くっつく」ことですよね。
ベビー・マッサージ、とかベビー・ヨガとかなんだか妙なこのがはやりますが、要するに、授乳時、おむつ替えの時、抱っこのとき、寝るとき、起きたとき、常に触ってあげればいいんです。
ほっぺつっついたり、おなかつっついたり、小さな手で親の指を握らせて、開いたり閉じたり、体を立てて抱けば膝を蹴っ飛ばしてよろこぶから、ほ~らピョンとかいって遊んでいれば、喜びます。特別なことじゃない。触れ合いましょう。そうすると、赤ちゃんの精神も安定して、好奇心も発達して、どんどん環境を吸収して、育ちますよ、伸び伸びと。
親の不安も薄らぎます。
何か「してあげなくちゃいけない」といわれると、自分はちゃんとそれが出来ているんだろうか、と不安になりますよね。今の社会、そうやって親の不安を増幅するようなことばっかりやっているようにも見えるんですよ。
親子が育つ。自然なことです。
事件があると、そういう触れ合いを失っていたんだろうなぁ、と思います。
親が子を育てるんじゃないのにね。親と子が一緒に育つのにね。
◆原爆の話をした時に、書きました。存在を抱きしめたいのに、対象がなくって、骨しかない、もう「かみしめる」しかなかったのだろう、とね。
かつて、私は「概念の身体規定性」ということを考えていました。左脚の不自由な私にとって、座る、立つ、歩くという行為、およびその概念は健常者のものと完全に同じとは言い切れない。サリドマイド禍で両腕を持たぬ人にとって、握りしめる、抱きしめるという概念は、両腕のあるもののそれと、同じではないだろう。想像力のみがその間隙を飛翔することができるのではないか、などとね。観念的な時代を存分にくぐりぬけた私です。そして、大人にならなかった私です。今も観念的でいけないなぁ。
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