遠泳
2010.8.16付 朝日俳壇より
遠泳の陸を手繰りてもどりけり:(青梅市)市川賢
長谷川櫂 評:沖から泳いで戻るときのあの感覚。陸を手繰り寄せるとはそのとおりだろう。引き寄せられた陸がしだいに大きく近づいてくる。
「あの感覚」と書いておられますから、長谷川氏は遠泳の経験があるのでしょう。
集団で遠泳に挑戦していると、孤独にさいなまれて、不安に駆られてパニックになるということはおそらく少ないので、「陸を手繰り寄せる」という感覚が得られるのだと思います。
私は一人で沖に出ていって、浮かんでいて、気分よく波に揺られていて、さあ、もどろうかと思った時にパニックになったことがあります。高校時代かな。
沖に出ていく時は、意気揚々なんですよ。ところが、帰ろうとすると、浜って近づいてこないんです。横に広がった浜って、遠近感がつかめなくって、泳いでも泳いでも近づいてこないんですよ。とても「手繰り寄せ」られるものではない。おまけに、北の方の川から流れ込む水の流れがあって、流される。まっすぐ自分の出た場所へ向かっているつもりなのに、横へ横へずれていく。これ、こわいですよ~。
沖へ出ていく時の何倍も時間がかかったような気がして、浜辺に戻ったときにはぐったりでした。自分の心理があのように動くものだとは知らなかった。
遠泳のゴール地球を確と踏み:(大阪市)森田幸夫
大串章 評:遠泳のゴールが近づき、歩いて岸にたどり着く。「地球を」と言ったところに実感がある。
いや、プールと違って脚の全く立たない場所を泳ぎ続けてきての「浜」は、確かに「地球」「大地」ですね。
水中と地面の絶対的な違いを脚で踏んで知るのですね。
中学生の初遠泳の話が新聞に載っていました。
(五線譜)遠い砂浜、少し成長していた夏(2010年8月17日 朝日新聞)
千葉・館山の穏やかな海に白い水泳帽子が揺れている。都内から5泊6日でやってきた生徒たち。合宿の最終日は1年生の96人が3キロの遠泳に挑む。
Mさん(12)は小学校時代、水泳が苦手だった。十分練習して遠泳班に合格したのに「本番は無理じゃないかな」。緊張しながら泳ぎ始めた。
海ではクラスで行列になり、学校のテントがある砂浜を目指す。まもなく近くでタンカーが動き出した。波が大きくなる。「気をつけてください」。ボートからの先生の声に無我夢中で手足を動かす。平泳ぎのフォームは崩れがち。足の裏に何かが触れた。「魚かな」。確かめる余裕はない。
海の真ん中でコーチが氷砂糖を口にぽんと放りこんでくれた。甘さが広がる。なめていて気づいた。「あれ、立ち泳ぎができてる」。海藻の間の小さな魚の群れが、今は目に入る。歌を口ずさんで自分を応援した。そばで泳ぐ3年生が「もうちょっとだよ」と励ましてくれる。
泳ぎ始めて1時間半。砂に手が触れた。立ち上がると浅い。「ゴールしたんだ」
周りが大はしゃぎの中、Mさんは「まさか自分が完泳してるとは」とどこかひとごとのよう。無理だと思っていたことができた。自分の可能性がぐんと広がった瞬間。そのことに本人が気づくのは、もう少し後かもしれない。
途中、ちょっとパニックになったようですね。でも、パニックを経験することはわるくない。
人間が一回り大きくなります。心の容量が大きくなるんですね。
「崩彦俳歌倉」カテゴリの記事
- 榠樝(2021.02.01)
- オオスカシバ(2020.10.06)
- 猫毛雨(2020.04.20)
- 諏訪兼位先生を悼む(2020.03.25)
- ルビーロウカイガラムシ(2020.01.17)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント