親子で俳句を
2010.8.8付の朝日歌壇・俳壇のあいだのコラム「うたをよむ」で、俳人の大高翔氏が、「親子で俳句を」という文を書いておられます。
・・・
俳句は、現代の親子にとって、こんなにすばらしいコミュニケーションツールになるのだ。
・・・
と書いておられます。
それはその通りだと思いますし、言葉を意識化して使うことの楽しさ、言葉の持つ意味がどのように伝わっていくのかについての深い経験などを味わうことができると思います。目で見たものを、心に感じたことを「ことば」で表現することは大変に意義深いものです。
かつて、子どもが書く「言葉」は詩だ、というのがはやりました。
大人の常識的な視点を覆し、常識的な表現を突き崩し、新鮮な驚きと感動を受けたことは紛れもない事実です。
しかし、勢い余って、ただ単に、年齢の低い人が書いたものなら何でも「詩」だという行き過ぎが起こったことも否めません。
稚拙な散文を、ただ短く切って並べたら詩になった、というのは行きすぎでした。
現在、あまりそうしたものは流行らなくなりました。当然です。
大人が書こうと子どもが書こうと、「作品」は独立したものとして、作品自体として鑑賞されるべきであって、書いた人によって価値が決まるべきものではありません。
今週の歌壇にも小学一年生の歌が一首、選ばれております。
歌壇の選者の方々に、幼い人の歌を選ぶ傾向が多少あって、10首を選んで、その最後に置くことが多いようです。
決して悪いこととは申しません。ですが、上に書いたように、年齢がまだ少ないがゆえに選ばれたのだということになっては、作者に対してもかえって礼を失することになるでしょう。
読者の心に作品が語りかけることがまず第一です。その基準を失ったら、いずれまた、年少者の短歌が消えてしまうでしょう。俳句も然り。
親子の俳句・短歌づくりは楽しいことです。慎重に育てて行って、大切な芽が途中で枯れることのないようにしたいものだと思うものです。
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