2010.8.16付 朝日歌壇より
走るのがおそい私は泳ぐのが苦手な魚と話してみたい
馬場あき子 評:具体的な弱点の自覚に対して、空想した似た弱点を持つお魚が面白く、結果的に楽しい歌になっている。
佐佐木幸綱 評:「泳ぐのが苦手な魚」は私たちを一気にメルヘンの世界につれていってくれる。
じっくり読んでください。
選者の評から、作者の年齢に関する部分を削除してあります。
「私」の年齢を問う必要もない。「私」の性別を問う必要もない。
たとえば、62歳の男性である私=かかしが詠んだといっても別におかしいということはないでしょう。
私は、年とって長距離を飛ぶのが辛くなったカラスというのはいないのか、ぜぇぜぇ、ちょっと待ってくれよ、一息入れたいよ、と若いカラスを呼びとめる老カラスはいないのか、などということを考えるたちですから。
泳ぐのが苦手な魚なんてのはいないのかな、と私が考えてもおかしいところはない。
{脚の障害者としての「走れない私」が、ヒレなどの傷で「泳ぎにくい魚」のことを考えていてもおかしくないですしね。}
実はこの歌の作者、九歳の女性なんですね。
で、私が主張したいのは、歌はまず作品それ自体として鑑賞されるべきだ、という点です。
作者の名前も年齢も性別も、あるいは詞書があったとしてそれも、あるいは選者の評があったとしてそれも、一切抜きにして、鑑賞者は作品と向かい合い、作品のみを通して、作者の表現内容とぶつかり合い、切り結ぶべきだ、ということです。
この作品は、充分に鑑賞に耐える。
最近のアニメのポニョとかニモとか、そういう背景を考えれば、魚を擬人化して「わたしは魚なんだけど泳ぐの苦手だなぁ」というシチュエーションを設定することにそれほど大きな飛躍はない。
選者たちは、やはり作者が幼いという点を勘案したうえで、「幼い『のに』すごい」と評価したと思うのですね。
それって、芸術作品の評価としてはフェアじゃないと感じてしまう私です。
今週の歌壇で高野公彦氏は冒頭の歌のほかにもう二つ、小学生の作品を採り、10首のうちの最後に3つ並べています。
さて、ここで、歌壇・俳壇担当者の書いたコラムがあるので読んでください。
幼いひとの歌 童心恐るべし(2010/8/16)
本日の朝日歌壇・馬場、佐佐木、高野選歌欄に小学3年生の歌が入選した。共選の☆三つもさることながら馬場、佐佐木選者の、この一首を第2位に置く高評価を思えば、9歳少女の快挙だ。
小中学生の投稿が増加傾向にあるのは確かだが、日々400余も届く投稿歌の作者は、もちろん圧倒的に大人が多数派。そのなかから、同列の選を経て、文字も言葉づかいも幼い歌が、時にこのように立ちあがる。
こころに感じたところを、31音の定型詩の器に盛るにあたってはそれなりに懸命な創作意識があるに相違ない。だが語彙も少ない。技もない。記されるのは、子供特有の奇妙な発想を含めた、ありのままだ。
たぶんそこにえも言われぬ魅力が生じるのだ。佐佐木評にもあるように、幻想的なメルヘンの世界が現出する。童心恐るべし。願わくば、永遠なれ童心。
この筆者は「子供特有の奇妙な発想」とか「それなりに懸命な創作意識」とか、「語彙も少ない。技もない」などと、芸術の場で、幼い人を低く見る視点を持っていることがあからさまですね。「幼いのにすごい」といっていますね。そういう意識では少なくとも、小学校の教師には不適格ですね。児童がついてきませんね。
歌壇・俳壇担当者としてはかなり情けないなぁ、というのが実感です。
幼い人の作品だからということで選ぶのはいけない、と考える私です。
作品そのものを味わいましょうよ、というのが基本的な主張です。
「童心恐るべし」というのは当然「後生畏るべし」を踏んでいるんですよね。だったら、「恐ろしい」とはせず、「畏怖する」という「畏る」を使うべきではありませんでしたか?
(漢字の使用制限のせいか。情けない。)
もう一つ。
「第2位に置く高評価」という表現。
短歌・俳句、選者はそれぞれ4人ですが、紙面に並べるときに、選者の位置が固定されないように工夫していることは分かっています。毎週、位置をローテーとしてますね。
さて、各選者が十首、十句を選んで並べるのですが、その配列順に関しては、私も長いことこの歌壇・俳壇を読んできましたが「明示的に(explicitに)」右の方が高い評価で、左が低い評価だと言ったことはありませんでした。
暗黙のうちにそのような了解があったのかもしれませんが、明示的に読んだことはない。
それを「言っちゃった」。
小学生の作品が選ばれて、しかも、高い評価の2番目に置かれた、とね。
逆にいうと、高野氏が小学生の歌3首を左端に並べたということは、評価は低いが幼い人の歌としては面白いから採りましたよ、ということになってしまいます。
いいんですか、そんなことを明示的に言ってしまって。
かなりの問題発言だと私は思います。
選者たちは、評を書くにあたって、「第一首」「第一句」というような順番で示すか、作者の名前で示して評を書いています。それは、やはり作品の配列順は、そういう明示的な評価がらみではないとしているのだと思います。配慮でしょう。
俳壇の方で、長谷川氏が選者になってから、長谷川氏は「一席」「二席」という表現を使っています。そして、かならず右から3句にしか評を書きません。他の選者は、通常、右から3つまでの作品について評を書きますが、飛んで、途中の作品に評をつけることもあります。
長谷川氏は選者になった時から、ほぼ明示的に自分の選句は右ほど評価が高いということを示しておられました。そのことは最初から気になっていたことです。
右に載った人はいいですよ。でも、左端の人の気持ちって考えたことあるんですか?
私にはよくわかりません。
俳句という「芸事」の世界では問題ないんでしょうね。きっと。
◆最近、こんな文章を読みました。
なぜ、もっと視ないのか? 市川亀治郎
十代の一時期、展覧会の梯子に凝ったことがある。デパートから国立博物館まで。内容は問わず。西洋美術は好むところではないが、当時は「ルーブル美術館特別展」「ルイス・C・ティファニー展」などにも足を運んでいた。五島美術館で国宝「源氏物語絵巻」が公開された時は、入館待ちの大行列にも並んだ。どれもが懐かしい思い出である。しかしながら、作品についての印象は、残念ながら数えるくらいしか残っていない。
日本で行われる展覧会は、宣伝が大いに行き届いているせいか、どの会場も大勢の入場者でごった返している。作品を鑑賞しにきたのか、人を見に来たのかわからなくなるほどに、各陳列ケースの前には人だかり(厳密にいうと、説明書きの前)。後ろからだと背伸びをしてもよく見えない。そこで、人と人の間を巧みにすり抜け、手際よく最前列に進み出て、心ゆくまで鑑賞する。これは子供の特権である。
そこで気付いたことがある。大人はまず解説をじっくりと読む。親切にも声に出して読んでくれる人もいる(いや、それは他人に聞かせるためというのではなく、ただ単に独り言の音量が大きいということなのだが)。その後に作品をちらりと見る。不思議だった。せっかく間近にある作品をなぜこの人たちはもっと視ないのだろう?
歳を重ねれば重ねるほど、人は知識が豊かになってゆく。知識を得るということは、すなわち知識という眼鏡を掛けることだと思う。眼鏡を掛ければ、今までよく見えなかった物事が、よく見えるようになる。これは大切なことである。その一方で、安易に眼鏡に頼りすぎると、裸眼で物を見る努力を怠るようになる。そしていつしか眼鏡なしでは何も見られなくなってしまう。
子供はいつでも裸の目だ。自分の範疇を遥かに超える対象物と懸命に向き合い、必死に考える。静かなる格闘。勝つか負けるか、命懸けの勝負だ。こうして知識は勝ち取られてゆく。そして、そこには勝者だけが味わえる無上の喜びが存在する。
いちかわ・かめじろう 1975年生まれ。歌舞伎俳優。(8月11日付東京本社夕刊beから)
私もね、高校生の頃です。毎週のように博物館・美術館に通っていました。解説が聴ける機器の貸し出しなどが始まった頃ですね。一切借りたことはありません。
創造者として世界を産み出す「熱」が自分にはない、ということを自覚していました。
ならば、せめて、鑑賞者としての自分を高めたい、せめて、一流半の鑑賞者くらいにはなりたい、と思ったのです。そして、このブログ記事の上の方で書いた、作品は「作品それ自体として鑑賞されるべきだ」「作者の名前も年齢も性別も、あるいは詞書があったとしてそれも、あるいは選者の評があったとしてそれも、一切抜きにして、鑑賞者は作品と向かい合い、作品のみを通して、作者の表現内容とぶつかり合い、切り結ぶべきだ」という主張は、実は高校生の頃に私が到達したポジションなのです。以来、そのように芸術を鑑賞してきました。
裸の私が、一切の介在情報なしに、作品とのみ向き合う、作品のみを通して作者と切り結ぶ、というスタイルはそのころに確立したものなのです。(作品につけられる題名でさえ、まずは知らずに向き合いたいと思いますよ。極端でしょ)
絵画も、音楽も、詩も・・・すべてそのようにして鑑賞したいと思います。
市川さんの文章を読んで、うれしかったですね。
「青い」ですか?もっとこなれなくちゃいけませんか?
「かど」が取れて「丸くなる」ことを拒否したいのですが、変ですか?
わたくし、青年期の続きをやっております。生まれて以来の私は一続きに今に至っております。
私は、一貫して生きたい。