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6月21日
テントウムシの幼虫がこのワンショットの中に、4匹は見えます。
白い矢印を4本書きこんでおきました。その先にいます。
で、赤い下向きの矢印の先はなんだろう?
幼虫のような気もするのですが、糸のようなものが見える気もする。とすれば脱け殻かもしれません。撮影の場では気づいていませんでしたから、そこを分かりやすく撮る配慮はできませんでした。現場で意識していたのは2匹です。
さて、読売新聞と朝日新聞ですっごく面白い記事を読みましたのでご紹介します。
昆虫にも頼れる「おばあちゃん」分泌液で敵撃退
(2010年6月21日 読売新聞)
繁殖期を終えたアブラムシのメスが自分を犠牲にして、外敵から巣を守ることを東京大学博士課程の植松圭吾さんらが発見した。
人間やクジラなどでは、メスが子育てを終えた後も長生きして血縁者に尽くす「おばあちゃん効果」が知られているが、昆虫で確認されたのは世界で初めて。
植松さんらは、常緑樹のイスノキに巣を作る「ヨシノミヤアブラムシ」を観察。テントウムシの幼虫などに襲われた時、成虫が腹の穴から白い分泌液を出し、体ごと敵に張り付いて行動の自由を奪うことを突き止めた。捨て身の行動をした成虫は、ほぼすべてが繁殖を終えたメス。繁殖後は卵の代わりに防衛用の分泌液で腹部を満たすように変化することも分かった。
人間の場合、「おばあちゃん」が長生きし、知識や経験を伝えることが進化上有利に働いたという説が提唱されている。アブラムシおばあちゃん 孫守る:天敵の口、我が身でふさぐ
(2010/6/29 朝日新聞)
アブラムシの世界にも、孫を守るおばあちゃん?――。子を産み終えたアブラムシのメスが、テントウムシから子孫を守る「捨て身の行動」をとることを、東京大大学院博士課程3年の植松圭吾さんらが見つけた。実験では、テントウムシの幼虫の口にくっついて、子孫を食べないように邪魔していた。
このアブラムシは体長約1mmのヨシノミヤアブラムシ。1匹のメスが、植物に「虫こぶ」と呼ばれる巣をつくって、単為生殖で子を産んで、数千匹の同じ遺伝子を持つクローンの集団をつくつ。植松さんらは、ヨシノミヤアブラムシの成虫が腹部から粘液をだして、アブラムシを食べるテントウムシに引っ付いているのを発見した。
テントウムシの幼虫を虫こぶに入れる実験でも、粘液をだして、幼虫の体や口にくっついて動きを邪魔し、巣への侵入を防ごうとしていた。このような行動をとった個体を解剖して調べたところ、ほとんどが子を産み終えた「おばあちゃん」だった。
この結果は、米科学誌カレント・バイオロジー電子版に発表した。
植松さんは「捕食者にくっつく以外の粘液の役割はまだよくわかっていない。他の昆虫でも子を産み終えた後に、他の個体のために防衛や労働を行う種が見つかる可能性がある」と話している。
両方の記事をあわせて読むと、互いに補い合って理解が深まります。
しかしまぁ、すごい行動をするものですね。
孵化直後の幼虫は非常に弱くて死亡率も高いので、その段階を通り抜けさせるために、メスが自分の体を幼虫の餌として与えてしまう、という行動はクモや昆虫で何種類か知られていますが、それとも異なる行動なんですね。生物界って、知れば知るほど不思議が増える。
こういう研究、何かの役に立つわけではないけれど、素晴らしい研究だと思ってしまうのは、身びいきでしょうか。
6月21日
これ実生のツバキの鉢植えです。
何で今さら実生のツバキ?
実(じつ)はこれ、花が紅白の源平咲きというのかな、そういうツバキの実なんです。
種子というものは親株とは遺伝子構成が変化しているので、親株と同じものが出来るわけではありません。同じものがほしければ、挿木でもすればいい。
さて、トランスポゾンの影響か、一つの花が紅白に色づく、あの性質が伝わるものなのかどうか、好奇心で実生で育て始めたのですね。
私の原動力は好奇心。せっかく生きてるんだから面白いことしなくちゃ損ですよね。
面白そうなことを見つけると、無性に手を出したくなる。
もうからない、損なたちです。
でも、楽しいことは請け合います。
お楽しみになりませんか?
6月21日
これ、オモトのつぼみといっていいのかな。花が咲いた、という状態はもうすこし「ほどけた状態」になりますよね。あまり注意して見ていなくて、よくわからないのでした。
実(み)はよく知られていますが、意外と花に注意がいかないなぁ。申し訳ないことだ。
「万年青」とも書くので、引越しの時に新居の玄関に飾ると縁起がいい、というのですよね。
そういう縁起担ぎで、今住んでいるこの家に引っ越してきた30年も前に父が置いたものです。以来、全くの無手入れで現在も頑張って生きています。すごいといえばすごいことです。
私は基本的に、一切の縁起担ぎ、験担ぎをしないという意志を発して生きておりますので、関係ないのですけどね。
これは意志ですから、介入の余地なし。
軽快でいいですよ、何にも囚われる必要がない。
心は晴れやか、です。
私のポータルサイトはアサヒ・コムなんですが、そのトップに今日はadidasの広告が載っています(9:30現在も)。
で、ワールドカップの日本チームの応援なんでしょうね、タイトルに掲げた言葉が載っています。言葉自体は日本語として問題ない。
で、その「英語版」が日本語の下に書いていある。
「IMPOSSIBLE IS NOTHING」
これ、私の読むだけの古い英語感覚からすると、とんでもなく違和感にさいなまれるんですけれど。みなさんはいかがですか?
There's nothing impossible. とか、 Nothing is impossible. くらいなら納得しますが。
詩的な倒置法というのもありかなぁ。
でも、なんだか、目が行くと気分がザラつくんですが。
困惑のあまり、お伺いします。
2010.6.28付 朝日俳壇より
潦(にわたずみ)選つて行く子や梅雨晴間:(日野市)辻梓渕
稲畑汀子 評:ひとしきり降ってやんだ梅雨。道には幾つも水たまりが出来ている。下校の子であろうか。潦をわざと踏んで行く姿を楽しくとらえた。
にわ‐たずみ【潦】ニハタヅミ(ニハは俄か、タヅは夕立のタチ、ミは水の意というが、平安時代には「庭只海」と理解されていたらしい)
①名:雨が降って地上にたまり流れる水。行潦。万葉集7「―いたくな行きそ人の知るべく」
②枕:「川」「ながる」「すまぬ」「行方しらぬ」にかかる。万葉集13「あしひきの山行き野行き―川行き渡り」[広辞苑第五版]
語彙の少ない私。「にわたずみ」という言葉を初めて知りました。
幼い子、小さい子は、雨の日、わざわざ水たまりへ入るんですよね。長靴で、ぱしゃっ。
親の方は水ははねるし、服が汚れそうだし、嫌がるわけですが、子はお構いなし。
次々と水たまりを踏んづけに行く。
雨の日が鬱陶しくなったら、水たまりを避けて歩くようになったら、大人の領域に足を踏み込んだ、ということでしょう。
雨の日が嬉しくてしょうがない年齢というものがありましたね。
2010.6.28付 朝日俳壇より
鷹揚に飛びて熊野の道をしへ:(新宮市)武田夕子
そうなのか、熊野のハンミョウともなると、飛び方も鷹揚なのか。
ミチオシエはハンミョウの別名です。人が歩くと足元からパッと飛びあがってちょっと前へ降りることから、まるで、こっちこっちと教えているようだと「ミチオシエ」の名がついたのでしょう。
「ハンミョウ」はもうずいぶん長いこと見たことがありません。カラフルな虫です。
代わりに、我が家では「トウキョウヒメハンミョウ」が昨日から姿をあらわしました。
地味ですが同じハンミョウ科で毒のない種類です。(ハンミョウも毒はありません)
庭に出ると、せっせと、こっちこっちと飛び回ります。
結構獰猛な顔つきの肉食性昆虫です。
熊野古道を歩いていて、カラフルな方のハンミョウが木漏れ日の中を飛びまわったら、さぞかしきれいでしょうね。
2010.6.28付 朝日俳壇より
燕の子去りて寂しき巣が一つ:(上尾市)中野博夫
長谷川櫂 評:親燕だけが残された燕の巣。子どもを育て終えた人の親の心にも似て。
親燕が巣に残っているとはとても思えませんね。子育てのために、カラスを避けて人の出入りのあるところに巣を作る。子育てが終わる時、親は、早く出て来い、もう飛べる、と周りを飛び回りながら促します。図体だけは親よりでかくなっても、なかなかうまく飛べなくてね。巣立ちは大変です。
で、巣立ってしまったら、あとはそれぞれ野外での生活。巣は要らない。親も子も。
「親燕が残された燕の巣」ではないはずで、巣だけが残っているのでしょう。
命が育つにぎやかさが消え、寂しくなったのです。
「人の親の心」を読み込むのは構わないですが、そこを抑えた方が句は引き立つと思います。
2010.6.28付 朝日俳壇より
惜命の冷やしラムネとなりにけり:(みよし市)稲垣長
長谷川櫂 評:「惜命の」とは炎天下、冷えたラムネにめぐりあって生き返るようというのだ。西行が小夜の中山で詠んだ歌の「命なりけり」に等しい。
ちょっと、というかかなり困惑しています。
この句が投稿されたときに「炎天下」という状況は季節的にどうなのでしょう。
暑かったのでしょう。とにかく。
で、冷たいラムネに生き返るような思いをしたのですね。
「惜命」という言葉は辞書にないのですよね。で、文字通り「いのちをおしむ」ということなのでしょうが、どうも、語感的にピンとこないなぁ。
西行法師の新古今にある「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の「命なりけり」に等しい、といわれても、私としては納得しがたいものがあります。
石田波郷の「七夕竹惜命の文字隠れなし」を引いた方がよいような。
石田の句は結核の療養所でのものでしょう。
ですから「惜命」は文字通り「命を惜しむ」であり、「命をいとおしむ」だと思うのです。
冷たいラムネが胃の腑に落ちて行く。ああ、生きている、「わが命、いと惜し」と読みたいのですが。
2010.6.28付 朝日俳壇より
父の日や父の父をり我も父:(越谷市)伊藤利昭
金子兜太 評:音律を味わう句。
昔、福音館の「かがくのとも」というのを子らと一緒に愛読していました。(実は今も立ち読みしていますが。)
詳しい内容は忘れましたが、自分の親にも親がいて、おじいちゃん・おばあちゃんにも親がいて、またまた続いて親がいて・・・というようなことに気づく内容の本がありました。それはそれで楽しい話ですが、それを「かがくのとも」で扱ったということに、福音館書店の見識を見ました。また衝撃を受けました。
そのようにして、生きものは、そしてヒトもつながりつながっていく。
38億年にわたって一回も切れたことのないつながりです。
一回でも切れればそこでおしまい。
私が今ここに生きているということは、38億年続いてきたということなのです。
父の日も、母の日も、消費を促す商戦の日になっていますが、たまにはそんなことを考えてみるのはどうでしょう?
いいとおもいますよ。
2010.6.28付 朝日俳壇より
半身不随といふといへども更衣:(佐渡市)神蔵武志
颯爽と更衣して臨むこと:(久留米市)小川順子
憂きことを断ち切る決意更衣:(大津市)石川多歌司
「ころもがえ」の句が別々の選者で三句選ばれていました。
どうも私は生活に区切りのない人でして、適当に適時に、暑い時用、寒い時用とだらだらと着ている人です。
ころもがえと共に気分一新、ということは考えたこともない。
でも、こうやって更衣の句を読んでいると、随分精神生活に影響を与えるものらしいですね。
たかが更衣、されど更衣なんですかねぇ。
しまりのない私にはちょっと遠い世界だな。
2010.6.28付 朝日歌壇より
湧き水にもろ手ひたせば指先ゆ身にひびきくる山のはつなつ:(福島市)美原凍子
永田和宏 評:第四句に巧い!と唸った。「指先ゆ」も懇(ねんご)ろな表現である。
しびれるような冷たい水。その冷たさが指先からじーんと体に沁み入ってくる。その感覚が「身にひびきくる」ということですね。
私は第四句より、第三句の「指先ゆ」というところに強い実感を感じました。おみごとですね。
永田氏の評中「懇ろな表現」という言葉遣いが分からなかった。
ねんごろ【懇ろ】(ネモコロの転)
①まごころでするさま。心づかいのこまやかなさま。親切。丁寧。伊勢物語「狩は―にもせで」。「―な言葉」「―にもてなす」[広辞苑第五版]
「心づかいのこまやかなさま」という、これでしょうね。
私自身は使ったことのない表現です。
ところで、少し離れて。
夏の暑いときに、体全体に熱がこもっているような気分の時に、湧き水のような冷たい水を、手首にかけてみてください。
「効く~っ」という気分で冷感が体に走りますよ。とっても気持ちがいい。
お試しください。
2010.6.28付 朝日歌壇より
たたまれてはじまるものはやわらかい傘とタオルとあさがおの花:(高槻市)有田里絵
赤ちゃんの布おむつとかもね。
幼子の服も。
さて、「あさがおの花」について、少し悩んでいます。
つぼみの中できちっとたたまれていた、そこからあの美しい花の開花が始まる、ということでしょうね。多分。
朝開いたあさがおの花がしぼむ=たたまれる、そこから実をならせるという植物の命の営みが始まる、と読むのは深読みし過ぎかな?
2010.6.28付 朝日歌壇より
クロスした腕がTシャツ引きあげる夏の体よたくましくあれ:(綾瀬市)高松紗都子
これは若い男性の特権。
やっぱりねぇ、ヒトは動物ですからね。汗をかき、引きしまった筋肉の体をむき出しにすることは、魅力的なことなんです。
私は脂肪はほとんどない体ですが、じいさんのお腹は、腹筋を締めると「ゾウさんのおでこ」状態。かっこ悪いったらありゃしない。
プールで泳いでいても、かっこよくターンしたつもりでいても、腕や足の皮膚が水の抵抗で波打ってるんだものなぁ。みっともねぇ。
指導員の男性なんかすごいですよ、背中の溝はくっきり、若さってやつが肌を内側から膨らませ張り切っている。
若いってことは、すごいなぁ、と思うことしきりです。
これは若さの特権ですから、誇ってよい。
2010.6.28付 朝日歌壇より
どちらかが呆けにあるらしにこにこと連れそひながら老いが土手ゆく:(東京都)高須敏士
高野公彦 評:どちらかが呆け、というのが哀しい。何かちぐはぐな二人なのだろう。
やばいなぁ。妻と二人であんまりにこにこと連れ立って歩いちゃマズイなぁ。
推測を呼んでいるかもしれない。
多摩川の土手を歩く「かかし」夫婦は少しおごそかな顔をすることにしましょうか。
年をとることもつらいですねぇ。つくづくそう思う。
2010.6.28付 朝日歌壇より
姪っ子が「秘密」と教えた初恋の話知る人数多くあり:(大阪市)浅生有記
そういう話は、「秘密」といいながら、話したくなるものなんですよね。
秘密というものは漏れるためにあるのです。
小椋佳さんの「恋、してしまうもの」を思い出しました。
「恋はするもの されるもの いいえ してしまうもの」
華やいでしまうのでしょう、そういう話をするときは。
(男にはあんまりわからないことなのですがね)
2010.6.28付 朝日歌壇より
吊橋をかすかに揺らし猿のゆく五匹はいよう枇杷の実かかえ:(静岡市)篠原三郎
どうも「枇杷の実かかえ」といわれると、自分の身に跳ね返ってきまして、苦笑い。
やっぱり、わたしら猿なんだ。
今年は我が家のビワがいっぱいなりまして、抱えるように取り込んだのでありました。
吊橋はないですけどね。
猿は枇杷を抱えて帰って、落ち着いてから、口に放り込んでは、もぐもぐ、種をぺっ。多分ね。
同じだなぁ、私の食べ方と。
我が身を振り返らざるを得ない歌でした。
ところで、そろそろ実も終わり。
で、ビワ・ジャムを作りました。
市販品と違って、実にそもそも酸味がありますので、ジャム向き。
適当に砂糖とレモンジュースを加えてジャムにしました。
そのまま食べてもよし、パンにのせてもよし、プレーンヨーグルトと混ぜてフルーツヨーグルトにしてもよし。
最後のところを楽しんでおります。
(猿はジャムは作るまい。)
2010.6.28付 朝日歌壇より
介護から開放するよと夫逝けり思い出しては涙を流す:(浦安市)白石美代子
何も書けません。去年の9月7日付の朝日歌壇にこんな歌が載っておりました。
添えます。
介護保険納め続けて自らは使わず逝きし夫羨し:(浦安市)白石美代子
佐佐木幸綱 評:元気に死んでゆく、死ぬまで元気に生きる。「羨し」に実感がこもる。
「介護」はあったのですね。
2010.6.28付 朝日歌壇より
手のひらは孫を愛しむ道具なり頭撫でたり尻叩いたり:(奈良市)広田頼彦
あはは、ですね。赤ちゃんの湿った乳くさい肌、まだ骨の閉じていない汗ばんだおでこ。たまりません。
子育ての責任は親に任せて、ジジババはひたすら楽しむ。
それだけの年月を重ねてきたのですから当然の権利。
でも、そのうち、じいじの手は硬くて痛い、とか、一人前に言うようになりますよ。
赤ちゃんの成長は速い。
2010.6.28付 朝日歌壇より
落花生播きて鳥追う糸を張る始終を電柱に鴉が見おり:(ひたちなか市)吉澤まつ枝
見ぃたなぁ。
見ぃちゃったぁ。(ニヤ)
という交流でありましょうか。
きっと鴉は何か工夫をして糸を切りますね。ゼッタイ。巣材にしてしまうかも。
落花生の花って好きです。あの黄色が深みがあっていい。
プランターで育てたことがあります。
種を見ると播きたくなる夫婦です。
2010.6.28付 朝日歌壇より
小笠原に鯨を見たく滞在す魬(はまち)養殖のバイトなどして:(所沢市)若山巌
馬場あき子 評:鯨を見にゆくためのアルバイトが魬の養殖であるのが対比的に面白い。
どうも、評がしっくりこなくって。
評では、どこか小笠原ではないところでハマチ養殖のアルバイトをして、お金を貯めてそのお金で小笠原へ行って鯨を見ようとしている、と解釈していませんか?
そうでもないか。
小笠原でハマチ養殖アルバイトをしながら、アルバイトの合間に鯨を見ようとしている、のだと思うんですが。
評でもそう読めるか、かもしれない。
魬という字は知りませんでした。と同時に、パソコンで出せるとも思っていませんでした。
いろんな字が出ますねぇ、最近のパソコンは。
2010.6.28付 朝日歌壇より
若さとは声高きこと少女らのないしょ話が車内に満ちる:(佐倉市)船岡みさ
馬場あき子 評:少女のないしょ話の「声高」を捉えたのが楽しい。
さてもまあ、騒々しいことで。
若くなくても声高な方々もいらっしゃいますが。
動物としての若いヒトの♂は、やはり甲高い華やいだ若いヒトの♀の声に魅かれるのですよ。
あたりまえのこと。
高校あたりの体育祭。普通だったら騒音といえる甲高い女の子の声が、やはり男の子を奮い立たせる。やっぱり、私ら動物だもんな、と納得します。
さて、年をとりましたことです。
今朝、9時頃自分のブログを覗いたら、アクセスカウンターが20万を超えていました。
早朝ご覧になった方がいて、そのあたりで超えたのだと思います。
6月29日に超えました、で間違いはないでしょう。
毎日ご覧頂いている方々のお陰さまです。
これからも大差ない「よしなしごと」を書き連ねて参ります。
どうぞ、のんびりお付き合いくださいますよう。よろしくお願いします。
なお、カウンターは明日にでも非表示にするつもりでおります。
6月20日
以前、六郷用水跡のところにあるハナミズキの実をご紹介したことがあります。
今年は、花の時期に見つけたのですが、近くのドラッグストア(上はマンション)の駐車場に何本もハナミズキがあったのです。
これだと、近づいてじっくり写真が撮れるなぁ、なるべく手入れしないでほしいなぁと思っておりました。
先日行ってみたら、実がなっていましたよ。
上は「一人っ子」
人間「一目」で数が把握できるのは4~5までですね。この写真だと、ちゃんと数えはじめを決めて数えなければいくつ実があるのか分からない。
7つですよね。数え違えてなければ。
また少し間を置いて見に行ってきます。
猫のお母さんも子猫を連れて引っ越すときに、3匹までは勘定できますよ。
いち、に、さん・・・いっぱい、という数感覚は、ヒトもそう変わりゃしないですね。
日本人の「八」は「いっぱい」という意味だと考えるといいです。
「八重桜」「八百万」「八百屋」・・・
ね。
6月20日
ネコハグモの網の張り方がよくわかると思います。
葉をたわませてくぼみを作り、天幕網を張って、中にいます。
植物の葉でなくても、人工物のくぼみでもこういう網を張っていることがあります。
写真右側、何がかかったのでしょうね。
腹の模様からすると、キタヒメヒラタアブかなぁ、という気もしますが、確定はできません。ずいぶん大きな獲物です。暴れて天幕に穴を開けたようですね。
何も食べない日も続き、こんな大きな獲物がかかることもある。自然界で暮らすということは大変なことです。
(ヒトも基本的には飢えた状態が通常だったのですよね。ですから、獲物がとれたときは、その栄養を無駄なく吸収するように体の仕組みができているのです。現代では、その性質があだとなって、空腹時に食べたものが無駄なく体について、肥満という現代病を起こしているのです。ようするに食べなければ太りませんよ~。)
6月20日
オーシャンブルーの葉の上。
みんなで外向きにスクラムを組んでるように見えます。
1匹だけ触角の赤いのがいますが、結構大きい。
葉を透過した緑色の光線での逆光。
ピンボケですが、きれいでしょ。
虫の腹部も透け透けで、緑色。
この2枚、同じなのだということにお気づきですか?
上が反射光、下は透過光。
こちらは雨戸の内側で孵化した連中。
卵から出たばっかりという感じですね。
これだけいっぱい孵化しているのですが、散らばってしまったせいか、それともクモなどに食べられているのか、オーシャンブルーを眺めていてもあまり幼虫の姿は見えません。
葉の裏にいるので見つけにくい、ということもあるでしょうしね。
でも、確かに今年はホウズキカメムシの当たり年ではあります。
え~、サッカーのワールドカップも決勝トーナメントに入ったようですね。
わたくし、サッカーというスポーツに一切興味がないもので、日々、この騒音に不快感を覚えるのみです。
オリンピックだ、なんだかんだと、NHKはテーマソングみたいなのを作って流していますが、私には騒音にしか聞こえません。
で、サッカーそのものの話ではありませんで。
ワールドカップの場合、決勝トーナメントは16チームで行うようですね。
すると、16→8→4→2となって、どのチームも試合数が等しくなるようにしてあるのだと思います。
これがもし、18チームだと、18→9となって、ここで奇数チームが残りますので、1チームだけ試合をしないで次のレベルへ行きますので、ちょっと不公平感が出るかもしれませんね。
さて、引き分けのないというルールで、16チームがトーナメントを行うとき、総試合数は何試合でしょう?(新聞見れば分かりますけれど。)
◆夏の高校野球は49チーム出るそうですが、総試合数は何試合でしょう?
引き分けなし、というルールですから、全試合が終わった時点で、49チーム中48チームが1敗して抜けていき、1チームが残って優勝となります。
48チームが48敗するためには、48試合必要ですね。その48試合目で、48番目の敗北校と1チームの優勝校が生まれるわけです。
トーナメントを「勝ち上がり」ということもありますが、実は「負け落ち」と考えれば、この問題は簡単に解けるのですね。
途中で奇数になるから・・・ということは考えなくていいです。試合数だけならね。
●これは一般化できて、チーム数nでトーナメント行うとき、総試合数はn-1試合になります。
変だと思ったら、3チーム、4チーム、5チームと具体的にやってみてください。納得できます。
理科おじさんの「算数授業」でした。
6月18日
これも分解者の一員ですね。
せっかく生ゴミのコンポストを設置しても、こういうのが発生して気持ち悪い、害虫だとおっしゃっている方もおられますが、いいじゃないですか。
せっせと生ごみを分解してくれているのですよ。
目には見えないバクテリアだけを許容するのかなぁ。で、虫は嫌なんだ。
エコな生活をしたかったら、虫さんたちとも適当な折り合いをつけなくっちゃ。
身勝手と言われても仕方ないですよ。
ところで、このアメリカミズアブ、触角の動かし方が独特で面白くってかわいい。
左右の触角を交互に上下に振るのですね。この動きだけでも、ああアメリカミズアブだな、とわかります。
さらに、複眼を見てください。今回の写真ではあまりはっきりしていませんが、独特の波打った縞模様があるので、確定出来ます。
先ずはちゃんと見ること。見ることから相手を知ることは始まるのです。
お気づきと思いますが、ブログ画面にアクセス・カウンターを表示させました。
味もそっけもない、ただの数字、というやつです。
カウントが20万に近づいたので、表示してみました。
いつ20万に達するか、お楽しみに。
20万を超えたら、また非表示にするつもりです。
ヨロシク。
6月17日
パソコンに向かってニュースサイトを読んでいたら、視野の中を上から下へスーッと動くものが。なんだ?と見れば、天井からクモが降りてきた。クモに、ねぇおじちゃん、といわれてもねぇ。
とりあえず、手近に置いてあるプラスチックケースに入ってもらいました。
アリグモの仲間ですね。
よく見かける「アリグモ」よりほっそりしている。体の模様も少し違うようです。
私の知識では見分けがつきにくいのですが、「ヤサアリグモ」ではないかなぁ。
成体か幼体かでもずいぶん姿が変わるし、決定的なことはいえません。
なんにしても、おまえ屋内性のクモじゃないでしょ、どうしてまぎれこんだのかな、外で暮らしな、と記念写真を撮ってすぐ外へ放しました。
(ひょっとして、記念写真撮ってもらうのが狙いだったりしてね。やったぁ、これでブログに載れるゾ、と喜んでいたりして・・・)
6月16日
ネジバナが咲きはじめました。
これラン科です。
アップにすると、なるほど、ラン科の花だな、というのが分かります。
ねじ‐ばな【捩花】ラン科の多年草。原野・芝生などに自生。高さ10~30センチメートル。根茎は白く肉質。夏に淡紅ないし紅色の小花を多数総状につけ、花序がゆるい螺旋ラセン状を呈するのでこの名がある。モジズリ。綬草。<季語:夏>[広辞苑第五版]
ピンクの花がねじれて並んでいる姿がかわいいですね。
「もじずり」を広辞苑で見ると「しのぶずり」に同じとあります。
しのぶ‐ずり【忍摺・信夫摺】摺込染の一種。昔、陸奥国信夫シノブ郡から産出した忍草の茎・葉などの色素で捩モジれたように文様を布帛に摺りつけたもの。捩摺モジズリともいい、その文様が捩れからまっているからとも、捩れ乱れた文様のある石(もじずりいし)に布をあてて摺ったからともいう。しのぶもじずり。草の捩摺。しのぶ。伊勢物語「この男―の狩衣をなむ着たりける」[広辞苑第五版]
小倉百人一首に「みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに」というのがありますね。
ここでの「しのぶもぢずり」は染め物の方で、花ではありませんね。
いろいろ言葉が入り乱れると、何だかわからなくなりますので、念のために調べてみました。
◆余談:私が百人一首に初めて触れたのは小学校一年生の時。六年生の兄が学校で習ってきて、多少の経験のある母がやろうというので、近くの書店で購入して始めたのでした。私は意味もわからず母や兄への対抗心のみで丸暗記。
「われならなくに」は「わたしのせいではない」というような意味でしょうが、当時の私の理解(誤解)は「私だったら泣いちゃうな」でした。
百人一首は誤解の宝庫です。
6月16日
桐の花までは確認しました。
先日、車で下を通りかかったとき実がなっているようだったので、改めて見に行ってきました。
緑色の実がなっていました。
上の方にはもう褐色になって口を開いた実もあります。
中身が見えませんね。
足元にこういう状態の実が落ちていました。
さて、これは「実」。
種はどうなっちゃたんだろう。細かくて落ちてしまったのだろうか、と検索してみたら、下のサイトに種の写真がありました。
http://spoonful.blog.so-net.ne.jp/2006-01-15
おみごと、という写真が載っております、ご覧ください。
小さな種が何千と詰まっていて、それがこぼれるのだそうですが、羽があるので風に乗って遠くへ飛ぶのだそうです。カエデの実の羽とはまた違う、すごい羽です。
実物を見たいけれど、どうも、無理っぽいですね。チャンスを狙ってはみますが。
「花から種へ」という本を見たら、桐のところに「果実は2年かけて成長する」という記述がありました。
ということは、最初の写真の緑色の実は来年口を開くのですか。
で、拾ってきた実は、去年結実したものなのですか。
今年から来年にかけて更に観察を続けなければならないということですね。
う~む、そうなんだぁ。
6月15日
アシナガキンバエだと思うのですが、なんだかだんだん怪しくなってきた。
腹部の形の違うのや、翅にまだらのあるのや、見かけが似ていても異なるものを同じ名前で認識している気がします。
ゴメンナサイ。
http://plaza.rakuten.co.jp/Wolffia/diary/200908160000/
このブログの筆者は、私なんか足元にも及ばない昆虫に詳しい方です。
興味がおありでしたら御一読ください。
6月15日
ヒメクチナシの花が開きはじめました。
一つ開けばあとはどんどん増えます。
つぼみも背景に写っていますね。
甘い香りに包まれます。
ところで↓
6月21日なのですが。
ヒメクチナシの株の下のあたり。
何やら黒い粒々が落ちていますね。
これ糞です。
まごうかたもなき、オオスカシバの幼虫の糞です。
この糞の大きさは終齢幼虫でしょう。
ちゃんと調べていないので姿を見てはいませんが、いるんだよなぁ。
私も妻も、敢えて徹底的に探索してないのですね。
シーズン初めの幼虫だからなぁ、見逃しちゃえ、という気分があるのですよ。
もう少し季節が進んだら、増えすぎてヒメクチナシの方がだめになってしまわないように多少の「駆除」はするのです。いくら私でも。(株は一つしかないのですし。)
「闘い」の前の、束の間の平穏なのでありました。
6月11日
ヒメグモの巣です。
さて、巣の主はどこにいるでしょう?
「日本のクモ」から引用します。
都市部~山地まで広く生息する普通種。人家、公園の庭木の間、生け垣、雑木林、草原、河原、林道、渓流沿いなどの樹木の枝葉間、草間に下部にシート網を付けた不規則網を張る。その中央部に枯葉を吊るして住居とする。6~7月にかけてメスの網に来る小さなオレンジ色のオスがよく目立つ。・・・
というわけで、写真中央の、小さな物体が住居らしい。
いた!
子グモなんですよ、まだ。でも、立派な自前の「住居」を設けたんですね。
体のサイズにあった、小さな枯葉を吊るしてその中にいます。
なんとかこんなアングルをものしました。
この場所にここまでのところずっといます。
ここで大人になってくれると、ちゃんと見届けられるんですけれど。
どうなりますか、分かりません。
6月11日
キョウチクトウの葉の上。
ダンダラテントウがアブラムシを襲っているところに出くわしました。
ある葉の上のアブラムシが一掃されたとおもうと、また別のところでアブラムシで黄色くなる。
両者しぶといですね。闘っています。
先日、読売新聞にこんな記事がありました。
昆虫にも頼れる「おばあちゃん」分泌液で敵撃退
繁殖期を終えたアブラムシのメスが自分を犠牲にして、外敵から巣を守ることを東京大学博士課程の植松圭吾さんらが発見した。
人間やクジラなどでは、メスが子育てを終えた後も長生きして血縁者に尽くす「おばあちゃん効果」が知られているが、昆虫で確認されたのは世界で初めて。
植松さんらは、常緑樹のイスノキに巣を作る「ヨシノミヤアブラムシ」を観察。テントウムシの幼虫などに襲われた時、成虫が腹の穴から白い分泌液を出し、体ごと敵に張り付いて行動の自由を奪うことを突き止めた。捨て身の行動をした成虫は、ほぼすべてが繁殖を終えたメス。繁殖後は卵の代わりに防衛用の分泌液で腹部を満たすように変化することも分かった。
人間の場合、「おばあちゃん」が長生きし、知識や経験を伝えることが進化上有利に働いたという説が提唱されている。
(2010年6月21日14時40分 読売新聞)
すごいですね。体から粘っこい液を出して敵にくっついてしまって守るんですって。
初耳でした。昆虫たちの知恵はすごい。
6月11日
オオバコの花です。
妻はどういうわけかオオバコが好きで、鉢に集めてきて眺めて楽しんでいます。
花が咲きました。ぼけぼけの写真ですみませんが、面白い花ですね。
真ん中でブラシみたいに立っているのがメシベでしょう。オシベは葯がありますので分かりますね。
おおば‐こ【大葉子・車前】オオバコ科の多年草。アジア各地に広く分布。踏まれても強く、原野・路傍に普通の雑草。葉は根生。
夏、花茎上に白色の小花を穂状につけ、 果サクカを結ぶ。葉は利尿剤・胃薬、種子は生薬の車前子(シヤゼンシ)として利尿・鎮咳剤。また、トウオオバコ、高山性のハクサンオオバコ、帰化植物のヘラオオバコなどの総称。カエルバ。オバコ。オンバコ。<季語:秋> 。「車前草(オオバコ)の花」は<季語:夏> [広辞苑第五版]。
オオバコ科というのがあるんですね。ロゼットが踏みつけに強いので、他の草が踏まれて枯れてしまうような、人間活動の「ふち」のところで繁栄しますね。
ところで、草遊びで「草相撲」をする、相撲草って言いませんでしたか?
私は子供の頃よく、オオバコでスモウしましたよ。
茎を互いにひっかけて、引っ張る。切れた方が負け、という遊び。単純。
ゲーム機なんかおよそ存在しない昔の子どもの遊び。
我ながらのどかな遊びだったなぁ。
結構ムキになったりしましたが。
6月10日
私にだって苦手な昆虫はあるんです。チャドクガはいけません。
ツバキの葉の上です。去年は少なかったのですが、これが今年の一回目の「果たし合い」。
真夏には一時消えますね。真夏を挟んだ前後に現れます。
で、このチャドクガですが、毛が問題。幼虫本体が死んでも、毛が舞って皮膚につくと猛烈にかゆくなります。こすらないように。石けんの泡でそっと流せといいますが、皮膚科にでも行って下さい、その方がいいです。
で、どう対処するか。去年は、風呂用のスプレー泡洗剤をかけて殺してみました。洗剤で包まれると呼吸できなくて死にます。泡で包まれますので、毛が飛びにくくなります。ゆっくり後始末ができます。
今回試みたのは、台所用のキッチン泡ハイター。塩素を発生しますので、虫は暴れるまもなく死にます。毛もやはり飛びません。
この幼虫、見つけても慌てることはないのです。走って逃げたりしませんからね。
必要な道具をきちっと揃え、長袖の服を羽織り、後始末用の袋や火ばさみなども足元に揃えて仕事にかかればよい。
今回は2カ所だけでしたので、すぐ始末は終わりました。ゆっくり安心して後始末も済ませました。
塩素系の洗剤を吹きかけられたツバキの葉がどうなるか心配でしたが、とくに枯れたりはしませんでした。
というわけで、この方法、お勧めできる方法だと思っています。
よろしかったら「追試」して下さい。
(追試というのは、単位取得のために受け直す試験ではなくって、ある実験が報告されたとき、それは再現可能かどうかを試すために他の人が行ってみる実験のことです。)
ご参考までに。ウィキペディアから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E8%A9%A6
2010.6.21付 朝日俳壇より
たんぽぽややつと三歳もう三歳:(松山市)濱田澄子
この「たんぽぽ」は花かなぁ、ふわふわの綿毛のような気もする。
そう、三年って長いようでいて、あっという間で、でも、その濃密な密度は大人の時間を圧倒するものですね。
大人が3年、年齢を加えたからといって、まあ、大して変りもしない。
でも、子は違う。字義どおりに、日々成長し、変化していく。昨日と今日は全然違う。
首も座らない赤ちゃんが、寝返り、ハイハイ、つかまり立ち、あんよ、おしゃべり・・・とぐんぐん成長していく。
この3年間、子が親に与える喜び幸せのおおいさは、何とも表現のしようがないですね。
よく「女の子は三歳までに一生分の親孝行をする」といいますが、別に男の子だっておんなじですよ。
子育てという至福の時間を与えてくれたこと、それは一生分の親孝行を超えています。
親の方が感謝しなければならないですね。子が親を幸せにしてくれるのです。
心得違いの親があらわれるようになってしまった。悲しい。どうして、子が与えてくれるあの至福の時間を味わえなくなってしまったのか。言葉を失います。
人間が劣化してしまったのでしょうか。
2010.6.21付 朝日俳壇より
尾の切れし蜥蜴の憩ふ大葉かな:(安中市)五十嵐和子
長谷川櫂 評:トカゲが一匹。みれば尾がない。それでも気にするふうでないところがおもしろい。
トカゲが自分の尾がないことを気にしたりはしません。
尾を自ら切る=自切せざるをえないような状況から脱出してきたのですから、敢えて擬人化すれば、胸のドキドキが収まるのを待っている、やばかったぁ、でもなんとか助かったなぁ、と呟いている、でしょう。自切直後ならね。
あるいは、自切からは時間が経っているのなら、はやく尾が再生しないかな、と自制しているとでも見ましょうか。
擬人化するにも、対象に踏み込んだ理解を持つべきでしょうね。
作品の「憩う」という言葉の方が、評の言葉なしで、効いていますね。
2010.6.21付 朝日俳壇より
煩悩の足止めて見し濃紫陽花:(蒲郡市)牧原祐三
紫陽花には七変化の名もある。煩悩具足。
紫陽花や姿見せずに子ら走る:(柏市)藤嶋務
大串章 評:紫陽花の向こうを子供たちの声が走って行く。紫陽花の別名は七変化、子供たちの声もさまざま。
両選者とも、「七変化」の別名を示しておられます。俳句を詠むほどの人は充分御存知のことと思いますが。
「煩悩」と「変化」。「声音」と「変化」。そのように読むことを示唆しておられるのでしょう。
私は、そういう風には、感じとっていませんが。
心の内にいろいろなことを抱えながらも、紫陽花のまえに佇んでしばし我を忘れる。
びっしりと茂って向こうも見えない紫陽花の陰を子らが走る。そのくらいの背丈の子ですね。
元気なことだ。そして、紫陽花の向こうに広がる「遊び空間」の広さが感じられます。
敢えて「七変化」を持ち出さなくてもよいように思います。
ところで、余計な心配を一つ。
最近、ランタナというきれいな花が広まっています。我が家にもありますが。
これの別名がまた「七変化」。
使い方を誤ると、あるいは解釈の仕方を誤ると、すれ違いが発生すると思いますよ。
2010.6.21付 朝日俳壇より
みどり児の大地に立てる夏来る:(岡山市)田辺文枝
いいでうすねぇ。歩けるようになったんだ。すごい。ついこの間までハイハイだったのが、つかまり立ち、そして歩く。すごい変化スピードですよね。大人はさして変わりもしないのに。
本人も「視野」が変わり広くなるたびに嬉しくってね。最高ですね。
夏に向かって立ち、歩くようになるタイミングだと、来ているものが薄く軽くなってきて、軽やかに歩きますね。
逆に冬に向かって歩きはじめの時が来ると、着物が少々重くってね。春が待ち遠しくなります。
夏なんだ。歩くんだ。すごいなあ。
2010.6.21付 朝日俳壇より
怯みなく手に乗り来たり雨蛙:(芦屋市)田中節夫
青緑色の小さいカエルがぴょんと手に乗ってくるのは楽しい。感触がくすぐったい。
小さいけれど、堂々としていかにも一人前の顔をしているのがおかしい。
このあたりでは見られないなぁ。ヒキガエルはそれなりによく見かけます。
一度、ウシガエルが家の前を歩いていて、焦ったことがあります。
迫力ありますよ。多摩川あたりから来たんですかねぇ。ウシガエルのオタマジャクシはダイナミックにでかいですよ~。
そいうえば、我が家にはアオダイショウがどこかにいるんだっけ。カエルにはきつい環境だな。
2010.6.21付 朝日俳壇より
柿若葉やはり濡れてはをらざりし:(玉野市)勝村博
大串章 評:近づいてみると、案の定濡れてはいない。そう見えたのは光のせいだったのだ。
{稲畑汀子氏も選んでおられます}
「光のせい」というべきか。
葉の表面がクチクラで滑らかになっており、そこに反射してまるで濡れているかの如き輝きだったのでしょうから、「若葉のつややかさ」を「濡れる」ということばで描いて見せた、というべきか、とも思います。
ツバキやサザンカも「濡れては」おりませんが輝いています。
2010.6.21付 朝日俳壇より
先程のうらみをはらし蚊を仕留む:(枚方市)石橋玲子
稲畑汀子 評:蚊に刺されたときの悔しさ何としてもはらしたい作者。うまく仕留めた手に血の跡が想像される。
すごいですね。うらみはらさでおくものか、ですね。
年取ったら私、鈍感になった。若い頃ほどかゆくない。体の反応がいい加減になってきたんでしょうね。血の跡もつくでしょうけれど、体を覆う粉がプリントされますよね。あれ、不思議。
タイルの上でたたいてついた蚊の粉の跡が、長いこと残っていたりする。
蚊の口の先端には「刃」があってのこぎりみたいになっていて、頭を前後に振動させて、ヒトの皮膚を切り開くんですよ。すごいですね。で、血がかたまっては吸えないから、血液を凝固させない性質をもった唾液を注入するんですね。その唾液にヒトの体が反応して「かゆみ」を生じるわけです。ただ、十分に吸血すると、注入した唾液のかなりの部分を回収して飛び去るという話もあって、十分に吸血させたほうがかゆくないのだ、という説もありますね。
ホントかなぁ。私だって、見たらすぐ叩いてしまいますね。
2010.6.21付 朝日俳壇より
蜂出入りして膨らんでゆく羽音:(静岡市)松村史基
稲畑汀子 評:蜂が巣を作ろうと出入りしている場所がある。膨らんでゆく羽音に恐怖心が描けている。様々な場所に思いがけず作る蜂の巣に早く気づいた作者の安堵。
「安堵」しないでください。アシナガバチならまだしも、スズメバチなら役所に連絡して取り除かなくっちゃ。アシナガバチだって、人の通らない所ならまあ放置してもいいけれど、通行の人がある場所なら、やはり除去しなくっちゃ。
ミツバチということはないんでしょ。
短詩だから仕方ないのですが、対象が明確でないとどうも落ち着かない「散文的」かかしです。
2010.6.21付 朝日歌壇より
らんちゆうの尾鰭と紛ふ夏衣逆光に透け肢体あらはに:(名古屋市)木村久子
まあ、この頃の若い女の子ときたら、見てる方が恥ずかしいくらいだわ、と思うということは、跳ね返って、私も年をとったわねぇとイコールになるわけで。
失礼しましたゴメンナサイ、消え去ります。
じいさんの場合は、にやっとするか、ぷんぷんするかですが。
女性の場合は、この際私もやってみようかな、と同じスタイルを真似してしまいそうなパワーがあるのがスゴイ(コワイ)、と感じる爺かかしです。
2010.6.21付 朝日歌壇より
初めての訪仏前の我すでにグーグルアースで観光を終えぬ:(三鷹市)坂本永吉
そうなんですか。グーグルアースって全然使ったことないからなぁ。そういう観光がありうるのか。「あしはゆかねども」の「くえびこ」たるワタクシ、グーグルアースで「あめのしたのこと ことごとくしれる」者になれるかなぁ。
グーグルには検索でお世話になってはいるものの、どうもなじみ切れないものがある。いや、グーグルにではなく、ネット文化になじんでいないのでしょうね。古い人間でございますから。
2010.6.21付 朝日歌壇より
四、五軒は同じ地名の向こう岸かくも昔は暴れ川なり:(焼津市)増田謙一郎
佐佐木幸綱 評:何十年、何百年単位でのたうつように川の流れが移動していたのだ。生きている川をクローズアップした。
私、東急多摩川線の沼部駅の近くに住んでおりますが、「沼部」という地名からお分かりのように、このあたりは「山の手」ではなく、かつての多摩川の河川敷です。低いんです。
多摩川も暴れ川だったのです。
川というものは、必ず暴れるもの。暴れてもある範囲内にとどめておくことができるというのが「治水」。
多摩川を挟んだ向こう側の神奈川県側には、「下沼部」という地名があります。
川は生きもの。絶えず姿を変えるもの、なのです。
◆なんだか、テレビドラマで「同窓会」ですか?主役が沼部に住むという設定だったのですって?東京ど田舎というイメージだったらしいですね。まぁ、そんなものかな。撮影は多摩川駅の方だったらしいですよ。笑ってしまった。
2010.6.21付 朝日歌壇より
「視神経だいぶやられていますねェ」問診十秒清算子細:(蒲郡市)古田明夫
患者と医者という付き合いのなかで、このくらいに噛み砕いた方が分かりやすいだろうな、という判断なのだと了解します。
診察には時間をかけない癖に、請求だけはきちっとするんだから、という笑いを含んで。
でももし、このお医者さんの診断が本当に「視神経」という診断なら、別のお医者さんに変わった方がいいな。
年をとれば誰しも視覚が衰えます。角膜が濁り、水晶体も濁り、横から光がさすと眩しくなり、黄色と白が区別しにくくなり・・・もちろん老眼は進むし。
でもね、問診十秒で「視神経」の衰えは診られませんからね。
私が元理科教師ということを知っているかかりつけの3歳ほど年上の医者は、隠さず全部話してくれます。こいつは自分の肉体の状態が自分で分かっているからな、ということです。
そういう付き合いを開発なさいませ。
2010.6.21付 朝日歌壇より
野ネズミの子どもに出会う登山道五糎未満の身がまえ見たり:(鳥取県)長谷川和子
ネズミというのは、基本的にかわいいからなぁ。
子ネズミはかわいい。
そいつが、ヒトを見かけて、ピクッと身構えた。これはかわいいですね。
自力で生きる、一人前。
頑張ってね。
◆余計なことを。
「糎」は、センチメートル。「米」はメートル。「厘」は100分の1です。
「粍」なら、ミリメートル。「毛」は1000分の1。
じゃあ「粁」は? 「千」「米」ですからキロメートル。
すごい造語法ですよね。先人の知恵に感心します。
ついでに(ウンチク)
「平米」は「へいべい」=平方米
では「立米」は何と読むでしょう?
正解は「りゅうべい」=立方米です。
この読みにくい部分。マウスの左ボタンを押しながらドラッグして下さい。反転して読めるようになります。
2010.6.21付 朝日歌壇より
テレビ見て酒くらいおり禅堂でひたすら坐りし夜もありしに:(三原市)岡田独甫
この歌を読む時は「酒くらいおり」でいったん切った方が良いのではないかな。
禅堂でひたすら坐って修業に励んだ夜もあったのに、と切らないとまずいのではないでしょうか。
人間らしくて、結構なことです。(原始)仏教的には、まずいでしょうけど。
テレビにも、酒にも、心奪われず執着せず、自在に距離を変えることができればよろしいのではないですか。
悟り、悟り、と悟りに執着するのもまた煩悩・苦。
生老病死。生きたい、老いたくない、病を得たくない、死にたくない。これらが普通の意味での執着ですが。
「死にたい」と執着するのもまた執着。激しい苦を生みます。
生きるも死ぬも、生命38億年の流れのままに、自然に、受け入れられればよいのですが。
この流れの中にあることを「生きる」というのでしょう。
2010.6.21付 朝日歌壇より
憎まれず愛されもせずハナムグリ牡丹の香に酔うひとりがいいと:(岐阜県)棚橋久子
馬場あき子 評:ごく普通の虫の生態が結句で生きた。作者の日常感が重なるようだ。
「ひとりがいい」という独白に共感します。
ところで、野暮な理科かかし。香に酔っているというよりは、美酒に酔いしれているのです。花の蜜のね。
◆ところで今日。午前中に朝日歌壇・俳壇の中の気になる歌・句を入力して、昼、食事。
昼のニュースなど見て、さて恒例「昼のお散歩」と道へ出たら。
あまりの偶然に思わずため息が出ましたね。
お前、これからハナムグリの歌の記事を私が書くって察知して出てきただろ。すっげぇやっちゃなぁ。と。
シロテンハナムグリです。落ちたビワの実に頭を突っ込んで果汁を吸っています。
少しは発酵してきてアルコールっ気があるかもしれません。
まさに美酒に酔うハナムグリなのでした。
私、ハナムグリ愛してます。
2010.6.21付 朝日歌壇より
学校に山羊を預ける人のいて児等に見せたり山羊のお産を:(前橋市)荻原葉月
馬場あき子 評:旅に出るので学校に山羊を預けたのだろうか。都会ではないゆとりがみえる第一首。山羊のお産の見学も楽しい。
何というかなぁ。選者は動物の出産って知ってるのかなぁ。
小学生が山羊のお産に立ち会うといことの、真剣さに思い至ってないのではないか。
能天気というべきか。「お産の見学も楽しい」とはね。
お産を見ることを、「楽しい」とは表現しないでしょ。
その厳粛さに打たれ、無事赤ちゃんが生まれますようにと息をのんで見つめる。
緊張の時間。
とてつもない教育力の瞬間。
事前のていねいな世話や交流があってこそやっと達成できる生涯忘れられないような瞬間ですよ。
ただ出産シーンだけ見せたら、泣きだしたり拒絶してしまう子だって出かねない。
ですから、山羊を貸して下さる農家の方がいらっしゃって、学校の先生方と綿密な打ち合わせを重ねながら、場合によっては獣医の指導や援助も受けながら、食事や排せつや、みんな世話しながら、出産に至るんです。その過程がなければならない。
ちょっと旅行しますので預かって下さいといわれて、預かったら出産してしまった、なんていうことは絶対にないと思いますよ。
生まれた仔山羊の羊膜を母親がなめとる。胎盤は母親が食べてしまう。仔山羊は必死になって立とうとする。
とてつもなく心揺さぶられる出来事です。
あまりにものんきな評にあきれております。
2010.6.21付 朝日歌壇より
両の手で鍵盤押さえるように独占したいあなたの心:(神戸市)野中智永子
これいい。何にも言い添えることなし。そのままでいい。
成就しますように。
2010.6.21付 朝日歌壇より
学生に混じって食べるのもいいと昼過ぎの学食の賑わい:(奈良市)杉田菜穂
先週、杉田さんが俳人デビューした話を書きました。
さっそく歌壇に投稿です。うれしいな。イメージ喚起力の強い歌を詠む方なんです。
なんとなく、学生気分が抜けないような、学生とも間違われるような、でも講師として一段別の視線をもちながら。自分が賑わいに参加するわけではないのだけれど、その賑わいがなつかしいような。
微妙なバランスを歌っていらっしゃいます。
ところで、最近の学生は、一人で学食で昼飯を食べることができないんですって?
友達がいないように見られたら「おしまいだ」みたいな感覚を持つらしい。
繊細というか、情けないというか。
団塊の世代の学生時代は、がつがつと、激しい食事をしましたよ。一人だろうがなんだろうが関係ない、早飯食いも芸の内、とか呟きながら、他人のおかずまで狙ったりしてね。
じいさんになったけど、野生の生存能力は高いんだぞ、オレたちは。
2010.6.21付 朝日歌壇より
存在を知らせるごとくときおりにピーと鳴り出す父の補聴器:(浜松市)桜井雅子
永田和宏 評:耳が遠く存在感が希薄な父が、時おり補聴器の音で自己主張する。
補聴器というものの特性を知らないものですから、どういうことなのかが分からないのです。
使用中に時々ピーと鳴ってしまうのだとしたら、まずいですよね。装着者の耳が大変だ。
補聴器の感度調整かなにかがあって、感度をあげようとするとハウリングを起こしてピーと鳴るのかな。
家族の会話に取り残された父上が自分も参加したい聞き取りたいと、補聴器の感度をあげようとしてハウリングを起こす、ということですか?
情景が把握できていません。
父上は何かの都合で今ここにいない。外していった補聴器が、自己主張するかのごとくに鳴ってしまった、ということはないのですか?
2010.6.21付 朝日歌壇より
ひっそりと四半世紀を幾何学の本に挟まる君の似顔絵:(鎌倉市)大西久美子
永田和宏 評:四半世紀を過ぎて尚若い君の似顔絵。甘酸っぱい思慕の幾何学。
かつて思いを寄せた人の似顔絵ですね。さて、描いたのは誰?自分自身かな?
つまらない幾何の勉強の合間に、ふと彼の似顔絵を描いてみた。それがそのままその本に挟まっていて、何げなく開いた時はらりと落ちて、タイムスリップしたようにあの頃のことが心に出現してしまった。そんな自分の心の働きへの驚きでもあるのではないでしょうか。
6月9日
今年はホウズキカメムシの当たり年。
中央少し下の卵を見てください。眼が透けて見えています。雪兎みたいでかわいい。
孵化直後はこんな赤い色をしています。
しばらくすると、脚は黒っぽくなり、腹部も薄く緑がかった暗い色になります。
頭部のあたりがなんだかくっきりしない。何か飾りのようなものがついているように思えます。
少し暗いのですが、ある程度分かりました。
白っぽいぎざぎざしたもので覆われているのですね。
脚の関節部もトゲトゲのようです。
実効的に「痛い」のかなコレ。
触って興奮させたくはないので触ってみませんでした。こんな小さな幼虫にうっかり触ったら潰してしまう。
全部が大人になれるわけではない。精一杯生きてほしい。
今日は夏至です。
細かくいうと、6月21日23時44分に太陽黄経が90度になります。
「一年中で一番昼間の時間が長い日」と、気象情報番組などでは言っています。
これは理科年表2010年版からつくった表です。
「分」までの単位ですと、6月19,20,21日は昼の長さが同じですね。
むしろ、「太陽が一番高くなる日」というようないい方、理解の仕方の方がより良いのではないかなぁ。
春分・秋分の日には、真東から太陽が出て真西に沈む。
夏至では日の出・入りが一年で一番北側になり、南中高度が最も高い。
冬至では日の出・入りが一年で一番南側になり、南中高度が最も低い。
あるいは、春分の日を角度の原点にとると、90度回って夏至、さらに90度回って秋分、さらに90度回って冬至、さらに90度回ると一周して春分に戻る、という公転の概念を使う。
そんなふうに、多様なとらえ方を紹介した方がよいと思うんですけれどね。
「今日の話題」なので、急に思い立って表を作ってみました。
あんまり面白い話にはなりませんでしたね。残念だ。
なにかもっと面白い「思考のアングル」はないかなぁ。
ミネラル・フェア土産
なんだろう?
袋を見れば分かります。
「アンモナイト・キャンディ」です。
うむ~。
袋の両側下の何か「生えている」ものは?
ウミユリでしょうね、きっと。植物ではありません、ウニやヒトデと近縁の棘皮動物です。
しばらく拝んでおりましたが
遂に封を切って、家族みんなで「一億五千万年のロマンの味」を味わってみました。
一種の金太郎飴のようなものですね。どこを切ってもアンモナイト、と。
いやあ、今回のミネラル・フェア土産、ずいぶん楽しめます。
私は余談の好きな教師でした。授業中に「私はすぐ余談になるからなぁ」と笑ったら、ある生徒が「いやぁ、先生の授業は余談が命」と返してくれたりして、嬉しかったなぁ、高校生は大人です。
「先生ってさぁ、いっつもにこにこして、なんか授業に仕掛けをもってくるんだよねぇ、楽しそうだぁ」と楽しんでくれた生徒もおりました。
よい生徒に恵まれたことです。幸せな教師でした。
教師が楽しんでなくって、生徒が楽しいわけないですよね。
ミネラル・フェア土産
「サハラ砂漠の砂:採集地 モロッコ・カサブランカ南東約350km。エルフード北方約30km地点」とラベルに印刷してありました。
サハラの赤い砂、ですねぇ。
拡大するとこんな感じ。
こんな砂の上にひっくり返ってみたいものですね。
(実際には、私は砂が苦手で、砂の上は歩けないので、無理ですが。高校生のまだ元気な頃に行った鳥取砂丘でも立ち往生してしまったものなぁ。今なんか一歩も進めやしない。)
ところで、黒い粒がありますね。
ひょっとして・・・
強力磁石の黒猫君再登場。
やったぁ!やっぱり砂鉄がある!
一緒に見ていた娘が今度は、幼い頃に砂鉄取りをずいぶんやったねぇ、と思い出モード。
この砂鉄、磁性のある酸化鉄です。金属鉄ではないはず。地球上の、生物がつくりだした「酸素環境」の中では、鉄は金属ではいられない。赤さびには磁性がありませんが、黒さびには磁性があるんですね。
これも、化学の授業だなぁ。
宇宙から来る金属鉄の隕鉄は酸素のない空間にいましたから金属でいられたのですね。
地球上では鉄は錆びる。それは「生物的」なことでもあるのです。
ミネラル・フェアのお土産ですが。
これ何をやっているのでしょう?
黒猫は、鉄・ネオジム磁石という強力な磁石です。
その黒猫がガラス容器の壁にくっついて落ちませんね。
中の隕鉄とくっついているのですね。
これ、授業に使えるなぁ。
ずいぶん前ですが、理科の業者から私費で隕鉄を買いました。
公費で買うと、当然それは東京都の財産だし、学校を異動するときには置いていかなければならないので、「私の教材」として使い続けたかったからです。
地球の鉄だろうと、宇宙から来た鉄だろうと、鉄という物質であることに変わりはないはずですね。ならば必ず磁石にくっつくはずだ。
といって、くっつけて見せると、当たり前なのですが、「お~っ」と驚きを呼びます。
鉄は星の中で通常の核融合過程でつくられる最後の元素です。
それ以上の重い元素は、超新星爆発の過程でつくられます。
地球に金があり、ウランがある、ということは、地球を作っている材料が、かつて超新星爆発のなかで生み出されて、宇宙を漂い、今ここにあるということなのですね。
地球は太陽と一緒に同じガス雲の中からできたのですから、太陽にも同じ元素があります。
宇宙初代の星は、水素とヘリウムでほとんどできていて、それ以外の元素はありませんでした。その星たちが寿命を終えるときに、内部に作り持っていた元素を爆発によって宇宙にばらまいたのですね。そのばらまかれた元素がまた集合して星を作り・・・ということが繰り返されて、私たちの太陽は約50億年前に誕生しました。地球も一緒に。
私たちは宇宙を循環する物質から生まれて、今、地球上を循環しているのです。
私たちの体を作っている元素、その実体としての原子は、星の中で生まれたのですよ。
そんな話へと授業を発展させながら、元素の話ができます。この隕鉄ひとつ、授業に持って行くことで。
私の化学の授業は、「毎時間必ず一つ『もの』をもって行こう!」とスローガンを作って作り上げていった授業です。そのひとつの『もの』として、隕鉄は大きく働いてくらましたっけ。
一挙に、いろいろな思いが浮かび上がってくる「隕石のかけら」なのでした。
ミネラル・フェアのお土産。
ラベルに印刷されているように、隕石のかけらです。
ぶつかり合って生じた粉でしょうか、容器の内面に付着しているので、鮮明には写りませんね。
説明書。「約5000年前に地球に衝突した鉄/ニッケル小惑星のかけら」だそうです。
日本語版。
こんなかけらを見ていると、この間地球に帰還した「はやぶさ」のことが思い起こされますね。
この隕石は大部分が空気中で燃え尽きたのでしょうが、ごく一部がこうやってかけらとして姿をとどめた。
きっときれいな流れ星だったことでしょう。
ところで、人間の歴史に、「鉄器時代」というのがありますが、人間が最初に使った鉄は隕鉄だったと思われます。
銅の融点が約1000度ですので、硫化銅から銅への還元は、密閉性のよい炉の中で可能だと考えられますが、鉄の融点は約1500度ですから、炉だけではだめなんです。「ふいご」という技術がなければ還元できません。
日本の「たたら製鉄」では、「たたら」というふいごを足で踏んで送風し、炉の中を1500度くらいに保って還元したのです。「たたらを踏む」という言葉は、足踏みふいごの「たたら」から来ています。
ところが、隕鉄はもともと金属の鉄なので、その加工は1500度まで行かなくても出来るんですね。現在の日本の刀鍛冶の仕事を見れば分かります。ふいごは使っていますが、鉄の加工には1500度は必要ない。
こういう隕石を眺めていると、すぐ「これは授業に使える」という感覚になる。もう退職して長くなってきたのに、いまだに「教師眼」が抜けませんね。とくに理科教師というのは好奇心旺盛なものでして、旅行に行っても、どこへ行っても、「授業に使える」と思うと何でも仕入れてきてしまう。正直、相当な私費をつぎ込んだことでした。笑われそう。日常生活が常に授業準備になっている、という状態を、分かってもらえるかなぁ。そうやって常に授業を変えていく、新しくしていく、それが教師なんですがね。ですから、30年教師やって、同じ授業なんて繰り返したことないですよ。毎年変わっていくのが授業。授業は生き物なんです。
やめましょう。もう繰り言になる。
6月7日
娘がミネラル・フェアに行ってきたようです。
昔から行きたいと思うのですが、行けばゼッタイ衝動買いしたくなることが分かっていまして、行かずにおりました。
上の写真は御存知アンモナイト。
化石を手にして眺めていると、億年という単位の時間の中をくぐりぬけてきたその時間の長さに心揺さぶられます。
アンモナイトもオウムガイも一応「頭足類」ですよね。遠い親戚といっていいのかな。タコとも親戚。不思議ですね。
これはマンモスの骨。
ずしっと持ちおもりのする化石です。
きれいにカットして、薄い酸で腐食とかすれば、おそらく骨の構造が見えると思いますよ。
こいういパッケージに入っていました。
マンモスの絶滅の原因は分かりませんが、人類の「食欲」というのも原因として皆無ではない。人間って恐ろしい生き物ですねぇ。
化石眺めているのは好きだなぁ。
6月7日
アシナガバチがヒルザキツキミソウの花の中に頭を突っ込んでいました。
ふ~ん、アシナガバチも花の蜜を吸うのか、と見ていましたら
花から飛び出して来て、線路の柵の横棒にとまりました。
ここで、コアシナガバチと判明。
ところが、動きが変なのですね。口のあたりをコンクリートにすりつけるようにして後ずさりするのです。後ろへ下がるというのはちょっと珍しい動き。
よくわからないのですが、何か虫を捕まえて肉団子にしようとしているのかもしれません。
大きな獲物ではありません。
この後すぐ飛び去っていきました。何かを抱えて、という感じではありませんでした。
小さな獲物で、うまく団子にはならなかったのかもしれないですね。
6月7日
春先まで、小さくて色も褐色がかっていて、こんな小さなままでおしまいかな、鉢植えではこのへんで限界かな、と思っておりました。
暖かくなってきたら、色が緑色になるは、大きくなってくるは、え~まだ成長中だったんだぁ。
固まっていたのにほぐせるんですね。
ずいぶん長い時間をかけて成長しています。今年あたりは最終的なまつぼっくり=まつかさになるのかなぁ。種が成熟してかさが開くのが最終的な姿ですよね。
裸子植物の生き方は、被子植物とはずいぶん違うようです。じっくり眺めていなければいけないと、覚悟を決めました。
ところで、「まつかさ」よりも、「まつぼっくり」か「まつぽっくり」かの方がかわいいかな、と思って使ってきました。「ぽっくり」という下駄がありますでしょ。
ふと、「ぽ(po)」なのか「ぼ(bo)」なのか、どっちだろう?と広辞苑を引いてびっくり。
まつ‐ぼくり【松陰嚢】
(ボクリはフグリの転か) 「まつかさ」の別称。「まつぼっくり」とも。[広辞苑第五版]
とほほ。
金子兜太先生あたりが喜びそうな気がしてきたぞ。
6月7日
前の記事でキマダラセセリに出会ったのは庭の中。
何とか翅を開いた姿を撮影できて、飛び去ったあと、私の昼の散歩は今度は外へ出ます。
袋小路になった道の縁にそって回っていくんですね。のんびりのんびり。
線路の柵のところに植えてあるゼニアオイのところまできたら、ナント、キマダラセセリが花の蜜を吸っている!
さっきの個体ですね、ゼッタイ。
こちらは、大きく回って歩いてきましたが、このチョウの方は多分飛び立ってから生垣の木の葉の間を抜けてまっすぐこのあたりへ来たのではないかな。直線距離は短いのです、ここまで。
しぼみかかった花ですが、口吻を伸ばして蜜を吸っていますね。
花の外からでも蜜のたまりに届くんですね。
こんなアングルで今回の出会いは終わり。
なんだか笑っているみたいな顔に写りました。
よい姿を撮らせてくれましたことよ。
なかなかここまでのショットが撮れるのは珍しい。
嬉しかったですね。
ありがとう!
6月7日
また、チョウに誘惑されてしまいました。
先日は、クロアゲハのダイナミックな舞いに魅了されましたが、今回は静かなお誘い。
ナンテンの葉の上に見慣れぬチョウがいました。セセリチョウだということはすぐ分かりましたが、常連のイチモンジセセリではない。
3~4m離れたところで気づいて、そろりそろりと接近。
接近中、このチョウ、翅を開いて美しい模様をこちらに見せていました。
ところが、接写できる距離まで来たら、すっと、翅を閉じちゃった。
外側のまだら模様しか見せてくれない。なんというセセリチョウだったかな、マダラなんとか、というんじゃなかったかな、とその場では名前を思い出せないまま。
主観的には5分くらい、客観的にはおそらく1~2分くらい、このまんま。
こういうときって視線を外せないんです。瞬きはしますけれどね。
昆虫を見ていて、何かの拍子にふっと視線をずらして、戻すともういない、どこへ行ったか追跡できないということがよくあるのです。
視線を外さなければ、飛んだり移動しても追跡していくことができるんですけれど。
昆虫との出会いは全くの一期一会そのものなんです。
物を落としてもそのまま、後で拾おう、今はこの虫!なんです。
さぁ、このセセリチョウの魅力に誘惑されて、もう一回翅を開いたところを見たい、と粘っていました。
やっと翅を開いてくれました。
きれいですねぇ。黄金のチョウといったら褒めすぎかな。
セセリ独特のふわふわ感もいっぱい。
ありがとう!と呟きながら写真を撮ったら、間もなく飛び去りました。
まったく、チョウに翻弄された気分でした。
かわいくって楽しくて嬉しいけれど。
今日のブログ書きは終わりにしようと、久しぶりにひょいとアクセス解析をのぞいたら、アクセス数が197733になっていました。
この一カ月間の、日平均アクセス数が約200ですので、ひょっとすると6月中に20万に達するかもしれません。ぎりぎりでしょうね。まあ、7月に入ってから、というのが妥当なところだろうな。
20万に達したら、お知らせします。
6月5日
スイカズラを見て、そうこの近くでツバメが子育てしてたっけ、と行ってみました。
上の写真じっくり見てください。親が戻ってきてヒナに餌を与えた瞬間です。
一瞬で親は飛び去ります。
ヒナは、まだかなぁ、と待ちます。
来ました。
この瞬間もっとも大きく口を開けたヒナが、最も空腹だろう、というのは基本的には間違っていない。親は、大きな口に餌を放り込みます。
ただね、何らかの理由で体調が落ちて口が開けられないと、ますます餌がもらえなくなって体力が落ちて育てなくなる、という悪循環にも陥りやすいとはいえます。
たくさん溜めてきて、巣でゆっくり順番に給餌するタイプだと、そのリスクは少しは減るかもしれません。それでも、親の嘴をつっつく活動の激しいやつが一杯もらえるという方よりは生じますけれどね。
ツバメの給餌は一瞬。この子たちの食欲を満たすにはどれだけ飛び回るのか。気が遠くなりそうですね。でも、親はめげない。
ウンチ、いっぱい。
ウンチは汚くなんかない。元気の印。
元気に育ってるよ~という元気印。
これを嫌って、巣を壊しちゃう愚かなヒトもいて、悲しいなぁ。
命が育つ、そのどこが汚いのか、っ。
赤ちゃんを育てたことがあれば分かります。
赤ちゃんがいいウンチをすると親はうれしい。
げりピーなんかしちゃうと、心配で心配で。
まぁ、いいうんちねぇ、くちゃいくちゃい、とかいいながら、うれしくって元気が出るんです。
ツバメもヒトも動物。
いいウンチこそ元気な成長のあかし。
そのくらい、心のゆとりを持ちましょうよね。
ぎすぎすしたのはきらいだ。
6月5日
近くの都立高校の体育祭の音楽が聞こえてきました。
以前の同僚が異動してきていると聞いていたので、モンパルに乗って訪ねてみました。
運よく二人の元同僚と会えて、しばらく旧交を温めてきました。
久しぶりに高校生が思いっきり力を出している姿に触れて、懐かしかった。そして、高校生ってこんなに激しかったんだな、と改めて見直しました。冬に小学生とつきあったので、なおさらそういう印象が強かったのでしょう。元気をもらいました。
で、帰り道。
のんびりモンパルを走らせていたら、スイカズラが咲いていました。
ふたつ並んで咲きます。独特のスタイルですね。
「吸う」と甘いのだそうですが、試したことはありません。
それで「吸い葛」だとか。
それより「忍冬」の表記の方が好きだな。
因幡晃さんの「忍冬」って好きでした。いい歌だ。
忍ぶという字は 難しい
心に刃(やいば)を乗せるのね
時々心がいたむのは
刃が暴れるせいなのね
「因幡晃 すいかずら」で検索すると、youtubeで聴けます。
6月5日のクサカゲロウの幼虫の姿。
蛹になった時点でそのことを書いてしまいましたので、時間的には逆転していますが、ご容赦を。
上の写真のような、「腰」をあげた姿がこの幼虫の特徴的な姿です。
野外では体の上にアブラムシの殻を背負ってしまうのでこれがはっきり見えません。体に生えたトゲがそういうときに役立っているのでしょう。
顎がすごいですね。獰猛そうです。
腹側ショット。色は白っぽいです。
頑張って、顔をアップにしてみました。
すごいですね。迫力ですね。
おそらく食べたアブラムシの体液がついているのでしょう、黄色っぽい液滴がついています。
これはアブラムシ・ギャングというか、insect lion とでも言いたくなる風情ですね。
うまく成虫までいければ、そのたおやかな姿もお目にかけられると思います。
6月5日。土曜日は、蒲田の大型書店へ行くのが習慣、雨でない限り。
いつものように行動していました。
東急プラザの書店から、グラン・デュオの書店へ。
グラン・デュオでいつものように上りのエスカレーターに乗ろうとしたら、あれ、下りになってる!?なんで?どうしたんだ?
わからないまま、ぐるっと回って先週までは下りだったエスカレーターの方へ行ったら
向きが変わりました、という看板が立っていた。
なんで?
改修工事とかの都合でエレベーターの向きを変えるというようなことは経験がある。
客足の流れを変えたいという意向が強く見えるときもある。
でも、今回はわからない。
店の配置などで、エスカレーターの向きを変えることにとくに影響が出そうな感じもないしなぁ。
書店はこの影響でしょう、レジで客を流す向きを反転させていました。支払いを済ませて店を出ると、下りエスカレーターに近いところに出る。
突然の変更に戸惑いました。
もう一回ぐるっと回ってみましたが、なにか特別な理由は見当たらなかった。
わたし的には歩く距離が少し長くなりました。いいですけど。
きっと深謀遠慮があるんだろうな。
わからん。
6月5日
今年はホウズキカメムシも当たり年。
去年オーシャンブルーを初めて植えて咲かせましたが、この植物と相性がいいのかな。
オーシャンブルー周辺でホウズキカメムシがおおにぎわい。
この間も、成虫と卵の写真を掲載しましたが、卵がもうあちこちにいっぱいです。
6月14日
オーシャンブルーで覆われたダイニングの窓の網戸。
逆光で肉眼で、卵のシルエットが見えました。
こんなところに卵を産んじゃって、いいのかねぇ、ホウズキカメムシのお母さん。
よく見れば、孵化したての幼虫もいました。
網戸の目と比較して下さい。
これだけの接写になると、網戸の厚さも問題で、ピント合わせに苦労します。
網戸の向こうにピントを合わせるのは辛かった。
●「はやぶさ」が帰還して、しばらくなります。今度は「イカロス」が帆の展開に成功したというニュースが入ってきて、これも嬉しい限りです。私たち夫婦の名前も刻まれたプレートが帆の先端部の「おもり」の中に入っており、遠心力で帆を張るときに役だったはずです。これからは、太陽光を受けながら太陽系の旅に出ます。想像力がいたく刺激されます。嬉しいな。
ところで、「イカロス」って単に神話の「イカロス」かと思っていましたらこういう略語でもあるんですね。
Interplanetary Kite-craft Accelerated by Radiation Of the Sun
●さて、気分的に落ち着いてきたところで、「はやぶさ」について、理科おじさんが見るとこんなこともありますよ、という記事を書こうと思います。JAXAのサイトの方が絶対に詳しいのですが、元理科教師の目から、こんなことを考えました、というご報告です。
●「はやぶさ」のイトカワまでの道のり、イトカワからの帰還の道のりについては、JAXAの図をここに引用してしまう手もあるのですが、それはやっぱりまずいかな。で、下のページを読んで下さい。分かりやすい図があります。
http://www.isas.jaxa.jp/j/enterp/missions/hayabusa/scenario.shtml
●では、思いつくままに
◆「はやぶさ」の記録
2003.5.9 打ち上げ
2004.5.19 地球スウィング・バイ
地球に約3700kmまで近づいて、加速しイトカワの軌道に接近
2005.9.12 イトカワ到着
2007.春 イトカワ出発
2010.6.13夜 地球帰還
◆いくつかの計算など
1:太陽を回る地球の公転軌道は約1億5000万kmです。
2π×半径で軌道の長さが出ます。そうすると地球軌道1周は約9億kmです。
地球を離れて人工惑星となった「はやぶさ」はほぼ一周して地球に接近しました。
そこで地球のそばを通過することによって、地球に振り回してもらってエネルギーをもらいました。これがスウィング・バイ。
もちろんエネルギーの保存は成立しているのですから、「はやぶさ」のエネルギーが単独で増加したのではありません。地球はその分のエネルギーを失っています。ただ、地球にとってはあまりにも小さなエネルギーロスですから完全無視できます。
(幼い子の両手をもってくるくる振り回します。体重のあるお父さんは楽々これができます。でも、子が成長すると、そうはいかなくなります。振り回す方も逆に振り回されますね。それと同じことです。)
さて、スウィング・バイでエネルギーをもらうと、軌道が外へ大きくなります。これによってイトカワの軌道へと接近したわけです。
そうして更に1周してイトカワに接近しました。で、地球軌道2周分なら18億kmですが、外側の軌道に移りましたから、約20億kmを旅して、打ち上げから2年でイトカワに到着したわけです。
2:地球軌道半径=1億5000万kmを、地球の直径=6400kmに縮める比で、500mのイトカワを縮めてみましょう。
そうすると、イトカワは2.1cmになります。(計算省略)。
地球の上の、たった2cmの石ころを捜すという仕事と同じことになります。
気の遠くなるような仕事ですね。
「カプセルが見つかった場所は落下予想地点から1キロほどしかずれていなかった。」
という話です。
想像を絶するほどのピンポイントの仕事を達成したということが分かるでしょう。
イトカワを見つけて着陸し、地球上の人間に危険を及ぼさない砂漠の予定地点に、再び同じ程度の正確さで帰ってくる。どちらもとてつもない精度なんですね。
これだけ聞いても、ドキドキします。
3:宇宙速度
「カプセルは分離後、地球の引力で加速され、秒速12キロで大気圏(高度200キロ)に突入する。」
「大気圏突入時、カプセルは最高1万~2万度の空気に包まれる。」
「カプセル表面の材質は、高温と衝撃に強い炭素繊維強化プラスチック(厚さ平均3センチ)。高温になると内層が徐々に溶け、熱を奪いながらガスが発生し、外にもれ出してカプセルを包み込む。その結果、カプセル表面は最高約3000度、内部は50度以下に抑えられる。」
「はやぶさは米シャトルの1.5倍の速度で再突入しており、耐熱材の状況には新型の有人宇宙船を開発している米航空宇宙局(NASA)も興味を示している。」
「一方、米航空宇宙局(NASA)は「はやぶさ」が秒速約12.2キロ(時速約4万4千キロ)で大気圏に再突入する様子の想像図を公表した。本体と分離したカプセルが二つ並んで流れ星のように見えると考えられる。」
「NASAは飛行機で上空1万2千メートルから中継する。宇宙航空研究開発機構とともに小惑星「イトカワ」の砂が入っている可能性のあるカプセルを撮影する。」
「NASA、「はやぶさ」の大気圏突入を観測
米航空宇宙局(NASA)は13日夜、日本の小惑星探査機「はやぶさ」の大気圏への突入を、大型ジェット機で観測する。
試料を収めたカプセルが、大気との摩擦で熱くなり、光を放って落下していく様子から、温度などを推定。将来、火星などへ向かう有人探査船の設計に役立てる。
地球の重力圏を一度離れた探査機が戻って来るのは、2006年に彗星(すいせい)のちりを持ち帰ってきた米国の「スターダスト」に次いで、はやぶさが2機目。突入時の速度は秒速12キロ・メートル以上に達し、低軌道を周回する米スペースシャトルや露宇宙船ソユーズより速い。
このため、カプセルの周囲の空気は1万~2万度になるとみられている。今回の観測で、カプセル底面の断熱材などがどう温度変化をするのか分かれば、火星探査船などの設計に貴重なデータをもたらすという。
(2010年6月11日19時13分 読売新聞)」
↑はやぶさが地球大気圏に突入する時の速さ関係を抜粋してみました。
・突入速度は約12km/s
・この速さは、スペースシャトルやソユーズより速く、約1.5倍である。
こういうことが分かりますね。
そうすると、シャトルやソユーズは約8km/sのようです。
この数字の意味がお分かりでしょうか。
シャトルやソユーズはもちろん、国際宇宙ステーションも含めて、全部「人工衛星」です。
衛星というのは「地球を回る物体」ということです。
地表面で、野球投手が球を投げて約150km/hですね。この速度では地面に落ちます。
投げ出す速度を速くすると、遠くまで飛びます。
どんどん、どんどん速くすると、落ちて落ちて、落ち切れないうちに地球を一周して帰ってくるようになります。
この速さを「第一宇宙速度」といい、計算すると7.9km/sとなります。(計算は難しくないですが省略)
これは地表で投げて、落ちなくなる速度ですので、上空100kmとかいう桁の高さを回る人工衛星の場合はまた少し変わります。
でも、人工衛星ならどれでも約8km/s程度と理解して下さい。
上に引用した記事から、シャトルやソユーズの速さが約8km/sと分かりましたが、こういうことなのですね。
人工衛星が大気に入るときの速さはこのくらいです。
さて、「はやぶさ」は人工衛星ではありません。地球を周回していたのではありませんから。
「はやぶさ」は人工惑星です。太陽を回ったのです。
地球の重力を振り切って、人工惑星になるには、最低でも11.2km/sの速さが必要です。
人工惑星は人工衛星より一段レベルの高い速さをもつのです。
これが「第二宇宙速度」というものです。(第一宇宙速度の(√2)倍になります。)
「はやぶさ」がイトカワへ到着し、仕事をして地球へ帰還してきます。ということは、地球への接近速度も第二宇宙速度なんですね。
最低でも11.2km/sといいました。地球より遠い軌道からの落ちてくるという帰還ですから、もう少し速くなります。で、約12km/s(12.2km/sという数字も出ていますね)で地球へ突入してくるわけです。
第二宇宙速度で地球大気へ突入してくるのを、じっくり観測できるのはまれな機会です。ですから、NASAが強い関心を抱くわけですね。
有人火星探査をした場合の宇宙船の帰還などについての参考データも取れるかもしれないということですね。
・もしこの宇宙速度の計算に興味がおありならリクエストを頂ければ、お示しできます。そう難しいものじゃない。高校物理の範囲で十分解けますよ。
4:さて、速さというと、私達には自動車の「時速」が身近です。そこで、新聞記事では「はやぶさ」の大気圏突入速度を「秒速約12.2キロ(時速約4万4千キロ)」と時速に換算してくれていますが、大きすぎてかえって分かりにくいですね。秒速で感じられるようにしましょう。
日常生活の速さは秒速で「メートル単位」、宇宙の話では秒速で「キロメートル単位」、1000倍の開きがあるということです。
1秒で1m進む=1m/s なら
1時間=3600秒で3600m進みますね。3600m=3.6kmですから
1m/s=3.6km/h なのです。
3600倍して1000で割った、ということです。
m/sの値を3.6倍すれば時速(km/h)になります
12.2km/s=12200m/s これを3.6倍すると 43920≒4万4千km/h ですね。
◆野口さんがロシアのソユーズで国際宇宙ステーションから帰還しましたが、「はやぶさ」は、あの突入速度の1.5倍で大気圏に突入し、燃え尽きました。テレビでご覧になった通りです。
そして、回収されたカプセルの映像もテレビで見ました。実に美しい。なんだか、イメージの中では傷だらけで汚れたカプセルを想像していましたが、機械的な傷も、熱による損傷もない、美しい姿でした。(感動しちゃった。)
ここまでで、百点満点を超えましたよね。これで、小惑星の砂でも入っていたら、百点満点の千点あげちゃう。(元教師らしくないか。)
日本へ持ち帰られるカプセルから、またさらに新しい情報が得られることでしょう。落ち着いて待つことにしましょう。
◆オマケ
宇宙空間での「ランデブー」というのは地上での出来事とは全然違うということを一言。
国際宇宙ステーション(ISS)へ日本の補給船がランデブーして、技術の高さが確証されましたが、あれ、どういう風にご覧になりました?
ISSと同じ軌道に入って、ISSの真後ろについて、それから少し速度をあげて追いつけばいい、と思いませんか?
高速道路でなら、ある自動車の後ろを走っていて、速度をあげれば前の車に追いつきます。
ところが、前を行く宇宙船の後ろに入って、速度をあげようとロケットを噴射しても、追いつけないんですよ!
軌道が上へあがってしまうのですね。
速度をあげようと噴射すると、確かにエネルギーが増えますが、そうすると位置エネルギーが増加してしまうのです。で、軌道が変わってしまうのですね。
地上の感覚で操縦したらダメなんです。
「はやぶさ」がイトカワとランデブー状態に入って、接地、着陸する、というときも同じような状況があるのです。
で、「はやぶさ」は自律的な能力を持ったロボットですから、自分でこの操縦法によって自分をコントロールしたのです。(ここでもトラブルはあったのですが)。
管制室では「はやぶさ」を「支援する」という気持ちが強かったでしょうね。
このあたりにも、「はやぶさ」への感情移入が起こる原因があるのでした。
火星探査ロボットもやはり自律行動ができますので、感情移入しやすいですね。「けなげだ」と思ってしまいます。
書きたい事は尽きないのですが、このあたりで「とめます」。
なんかあったら、また書きます。
朝日歌壇・俳壇欄の下に[風信]という出版お知らせがあります。
6月14日付けで
杉田菜穂句集『夏帽子』が紹介されていました。
<明日からは三十代よ星朧>の3月入選の句で「朝日俳壇」を卒業(?)した作者。中・高・大学時代の句で編んだ第一句集。<東京のさくら吉野のさくらかな>(角川学芸出版・2500円)
私が現在の形で朝日歌壇・俳壇をテキストファイルとして入力しておくようになってからの分について検索してみたら、俳句が9、短歌が12掲載されていました。私自身の意識としては杉田さんの短歌の方に惹かれていました。時々俳句も詠む方だ、短歌から境界をまたぎこえて俳句も詠む方だ、と思っていました。
そうしたら、俳人デビューです。そうなんだぁ、と感慨があります。
[風信]では「朝日俳壇を卒業」と書いていますが、ぜひ投稿を続けてほしい。俳句の方はある意味で「プロ」になってしまったのだとしたら、ぜひ短歌の投稿を続けてほしい。
杉田さんの感性に触発されたい、とそういう思いが強くします。
関心がおありでしたら、下のサイトをご覧ください。
http://www.osaka-cu.ac.jp/news/20100330095249/campus.html
http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=201002000244
現在、杉田さんは同志社の講師をなさっています。
朝日俳壇と歌壇の間のコラム「うたをよむ」に俳人の今井千鶴子さんが書いていられます。
子規と六月の奇麗な風 今井千鶴子(6/14)
今年も六月になった。六月の声を聞くと、テレビのキャスターも行きつけの美容院のお兄さんも、もう六月!半分なんですねェ、とため息交じりに言う。相槌を打ちながら私は地の底に沈んでいくような気分になる。ああ、また雨の季節か。
六月はほんとうに恵まれない月だ。一年十二カ月のうち、祝祭休日のないのは六月だけ。来る日も来る日も雨ばかりのなか、学生は中間テストでしめつけられ、食べ物はすぐいたむ。俳句を作ろうかと歳時記を繰れば、六月の部にはけら・いもり・なめくじ・みみず・ひきがえる・ひる・はえ・くも・げじげじ・ごきぶり・やもり・ぶと・うじ など、陰鬱な生き物の名がずらり。あーあ、そして私は六月の生まれなのである。
後略
けら~うじの間の名前は全部漢字で書かれているのですが、パソコン的には「超メンドクサイ」のでひらがなにさせていただきました。
よほどに苦手でいらっしゃる。笑ってしまった。それぞれに、親しめばそれなりに「いい連中」なんですけどね。
私はどちらかというと乾燥した「ガサゴソ」系が付き合いやすい。湿った「ヌルヌル」系は苦手だけれど、陰鬱とまでは思わない。
上の文の後に正岡子規の<六月を奇麗な風の吹くことよ>を引いて、なぜ、この湿った「忌まわしい」六月の風が「奇麗」なのだろうという展開になりますが、省略。
しかしなぁ。批判するわけではないが(実は批判しているけど)、俳人としてはすこ~し恥ずかし目の独白だったなぁ。命が雨を得て猛烈な勢いで育つ季節のその力を感じ取っていただきたかったなぁ。
植物も動物も、夏の爆発へ向けて、巨大な力を蓄えつつあるんですよ。
まさに、今。
2010.6.14付 朝日俳壇より
眠るかほまだいとけなき猫の母:(群馬県東吾妻町)酒井大岳
長谷川櫂 評:子育てにやつれた母猫。しかし、うとうとすればあどけない子猫の顔。
猫の子育て見ていて「やつれる」というのはあんまり当たらない気がする。
母猫になったけれど、まだ若くて「うとうとすれば、おさなさの残るあどけない顔」くらいでいかがですか。
子猫じゃないよなぁ。
立派な母だもん。
2010.6.14付 朝日俳壇より
蛞蝓の遮二無二走る遅遅として:(秦野市)熊坂淑
金子兜太 評:下五の修辞の逆転ぶりが旨い。
個人的な感想
ナメクジって、きっと「瞬間移動」「テレポーテーション」能力があるんですよね。どこから入ってどう歩いてきたんだ?という場所にいることがある。はぁ?と不審に思いながら、追放!
ナメクジってきっと私相手に「だるまさんがころんだ」というあの遊びをやっているのではないか。
私が見ていないところでは、きっと、すごい速さで走ってるんですよ、ゼッタイ。
で、パッと見ると「どうかした?」という顔でゆっくりになっている。
ふと気づくとさっきいた場所から凄く離れたところにいることってありませんか?ナメクジが。
ゼッタイ、見られてない時に猛スピードで走ってるんだよなぁ。
なっとく。
2010.6.14付 朝日俳壇より
我の主我のみで足る蟇:(東京都)木村史子
金子兜太 評:自分を支えるものは自分一人。構えて動ぜぬ蟇を見よ、と。蟇満足そう。
「蟇」について、「自分を支えるものは自分一人」というのはまことに適切な表現です。
ところで、私のような、昆虫好きの眼には、すべての虫たちは「自分を支えるものは自分一人」という生き方を堂々としています。
徒党を組んで騒々しく騒ぐのはヒトのみでしょう。
ヒトという動物のみが「はしたない」という言葉を発明してしまった。
お釈迦様は「犀の角のようにただ独り歩め」とおっしゃっています。
好きな言葉だな。
2010.6.14付 朝日俳壇より
あぢさゐに香りをつけてみたきかな:(調布市)赤羽啓山
その気持ち、わかります。
きっと「パステルカラーの香り」がしますね。
それってどんな香り?
知りません。
2010.6.14付 朝日俳壇より
大方は種ばかりなる枇杷なれど:(宮城県美里町)鈴木文子
稲畑汀子 評:枇杷の種の大きさを描いて見事な写生。
確かに。むしゃむしゃ食べたい食べざかりの頃、ビワって何でこんなに種ばっかりなんだ?と不満でしたが。
我が家の実生のビワ。40~50個も収穫できまして、これがおいしい。
皮を適当に歯や爪を使って剥き(ナイフを使わないところが私らしい)、かぷっと口に放り込んで果汁を口で絞ると、たっぷりごくごくっと「飲む」ことができるくらいにジューシー。
種やその皮を口の中で仕分けして、プイっと出す。昔思ったほどには種が大きくない。
買ったビワを丁寧に剥いて食べると、種の大きさが強く印象づけられるのでしょう。
パク、ゴク、プイ方式だとそんなに感じないことが分かりました。
お試しあれ。
2010.6.14付 朝日俳壇より
十薬の襟を正して咲きにけり:(東京都)石川理恵
大串章 評:十薬はどくだみとも言い、葉は異臭を放つ。しかし解毒剤にもなり腫れ物にも効くという。作者は十薬の味方(?)である。
私は一般人ですから、「ドクダミ」の方を知っていて、それを「十薬」ということもある、と理解しておりますので、「十薬はどくだみの別称」とお書きになった方がしっくり来ると感じております。
「味方」というのも、妙な言い回しですね。
俳人なら、急激に咲き始めて咲きほこる花を見て、夏の季語として使いたいと思うでしょうし、最近は「ドクダミ茶」も有名なようです。いろいろの方面でドクダミ・ファンの層は厚いと思いますが。
私自身はちょっと、ご遠慮申し上げます。野草、山菜に弱くって。すぐお腹が特急列車になる。敬して遠ざく。ごめんなさい。
白い花びらのようなのは総苞といいます。
真ん中に立っている塔のような部分に、メシベ1個とオシベ3個からなる小さな花が集合しています。虫眼鏡で拡大してみてください。
2010.6.14付 朝日歌壇より
ふるえても右手右足自分なりとうに桜は散ったと言うが:(小山市)内山豊子
右半身まひを起こされましたね。思うようにならないもどかしさ、おつらいでしょう。
一歩ずつ、今日は昨日より一歩長く歩んだ。その積み重ねしかありません。桜を自分の力で見に行けるようになられますように。できます。
ご主人は、あなたを包み込んでいらっしゃる。その姿をほめていらっしゃる。大丈夫ですよ。
2009/06/29
夫が日記読めばくやしきことばかりうそでもいいからほめて逝ってよ:(小山市)内山豊子
2010.6.14付 朝日歌壇より
凛々、蜆、雪、黒、喜喜と全部言う叱りたい猫一匹なのに:(山口市)香西尭子
昔ですね、母親が、二人しかいない息子の名前を呼び違えて、”△△、あ違った、××”とよく両方の名を呼んでましたね。なんでなんだろうなぁ、自分子なのに、と思っておりましたが、自分が年とってみるとよくわかるようになりました。妻もよくやっております。
5匹もいたんじゃ名前を間違う。全員呼んでもらってよかったねぇ、ということでめでたしめでたし。別に本気で叱ろうとしているわけではなし。猫だもん。
2010.6.14付 朝日歌壇より
雨の子は円を書くのが得意だねポツポツポツリ学校の池:(富山市)松田わこ
作者は小学校3年生だと思います。
「円」を勉強したのかな。慣れないとコンパスはうまく使えない。
なのに、雨の子はいっぱい円を描いている、すごいなあ、と素直な感想でしょう。
ところで、かかしは理科おじさん。どうして、雨の子は円を描けるのでしょう?
ポツンと雨の子が水面に当たる。そこを出発点にして、すべての方向に波が広がる。その波の進む速さがどちら向きにも等しいから、波が円になるのですね。
もし、どちらかの向きへの波の速さが違ってしまったら、円にはなりませんね。
「学校の池」はどこも深さが一定なのだと思います。
実は水面の波は水の深さで速さが変わります。浅いと遅く、深いと早い。
ですから、水たまりなどで、水の深さが変わるようなことがあると、波の速さも変わり、その結果、雨の子も円が描けなくなってしまいます。
雨の日、浅い水たまりの縁のあたりを眺めてください。円になれなかった波が見られるかもしれません。
(遠浅の海岸に打ち寄せる波が、海岸線に並行に打ち寄せてくるのは、この、深さによる波の速さの変化のせいなのです。)
2010.6.14付 朝日歌壇より
逃げ出して三日目の朝見つかったカメ吉聞かせて冒険日記:(富山市)松田梨子
胸躍る冒険日記でしょうね。何を見、何を聞いてきたのか。誰に会ったのか、犬?猫?虫?
何食べたの?草?
私も是非聞きたいものです。
きっとカメ吉君は、一皮むけて大人っぽくなったにちがいありません。
2010.6.14付 朝日歌壇より
薫風に白手袋して職員が被爆者名簿の「風通し」をす:(三原市)岡田独甫
一枚をまた一枚が繰られゆく被爆者名簿に初夏の風:(加賀市)敷田千枝子
暑い夏に、熱い熱いと亡くなった被爆者のことを思い、せめて、さわやかな風に当たってもらいたい、という思いもこもります。
そして、今もなお被爆者名簿は厚くなります。
原爆死没者の名「一期一会の思いで」 広島で記帳始まる(2010年6月14日付朝日新聞)
広島で被爆し、昨年8月6日以降に死亡が確認された人の原爆死没者名簿への記帳が14日、広島市役所で始まった。
(中略)
昨年8月5日までの名簿記載者は26万3945人。今月11日現在、新たに2716人の死亡が確認された。同市は8月5日まで記帳の申請を受け付ける。
すべての核兵器が廃絶されますように。
2010.6.14付 朝日歌壇より
高野公彦 選
幾千の牛の鳴き声轟かん鳴き交はし鳴き交はし殺されてゆく:(水戸市)檜山佳与子
高野公彦 評:口蹄疫のために殺処分される場面を思い浮かべ、悲しむ。
永田和宏 選
豚といふ陽気なる奴牛といふ威ある生き物殺されていく:(水戸市)檜山佳与子
永田和宏 評:陽気な奴、威厳のある奴、そんな「生き物」が一斉に殺される不条理。
愛称の牛の名よびて送りだす消毒粉のがらんどう舎に:(長崎市)松尾信太郎
永田和宏 評:「愛称」で呼んでいたものを殺処分へ送り出さねばならぬ無念を思い遣る。
馬場あき子 選
殺処分待つ牛がふと飼い主にいつもの朝のように顔寄す:(行方市)鈴木節子
処分さるる牛大きなる潤み眼に何心無く犢舐むらん:(水戸市)檜山佳与子
馬場あき子 評:問題の口蹄疫にかかわる哀話。投稿歌の多かった中から二首選んだ。
{かかし:「犢」は「こうし」ですね。もちろん「子牛」}
佐佐木幸綱 選
まっ青な五月の雨で匿(かく)しつつ牛も殺して豚もころして:(東近江市)寺下吉則
牛なれば処分するとふ十万頭飼ひ主なれば男泣きする:(福島市)鈴木悦郎
佐佐木幸綱 評:今週は宮崎県の口蹄疫の歌が多くあった。
たくさんの歌が寄せられたようです。
もともと肉牛ですから、殺すために育てたものです。なぜ、殺処分にみんな納得がいかないのか?
それは、「おいしく食べてくれる消費者」がいればこそ、おいしく食べてもらえるようにと労力を注ぎ込んで育て殺して、納得がいくからです。
食べられることもなく、喜んでもらえることもなく、ただ殺さなければならないその「空しさ」に農家の方々は耐えられないのです。
昔、水俣湾で、漁師さんが獲った魚を、ただコンクリート詰めにして廃棄するために買い上げた。食べてももらえない、おいしいと喜んでももらえないのに、金だけは出る、このことの空しさに、漁師さんの心がすさんだのでした。
昔、子育ての頃、子どもらに、おいしいおいしいって食べてもらおうとお百姓さんが心を込めてお米をそだてたんだよ。おいしいおいしいって喜んでもらおうと漁師さんが魚を獲ったんだよ。牛さん、豚さんもおいしいおいしいって食べてもらうように育てたんだよ。感謝しなくっちゃ。
って、言い続けましたっけ。
そのつながりが切れるとき、空しさだけが心をむしばむのです。
今回の口蹄疫のことだけではないはずですね。消費者として食事をするときには、いつも生産者の心を受け取るつもりで頂きましょう。
食材の命を「いただきます」。
生産者の心を「いただきます」
それは、必ず伝わるのです。
食材の命も、生産者の心も、もれなくいただかなくては「もったいない」。
◆ところで追記。上の歌に檜山さんという方が3回登場していらっしゃいます。
実は、もう一首。
佐佐木幸綱 選
打ち上げられなかつたロケット薔薇色の靄に包まれ微睡(まどろ)んでゐる:(水戸市)檜山佳与子
{かかし:「あかつき」などを積んだH2Aロケットの打ち上げが延期された時の情景でしょうね。}
4人の選者全員に、別々の歌が選ばれる、というのも、かなり珍しいことではないかと思います。同じ歌が4人全員に選ばれると、ちょっとした騒ぎになります。
今回のこともまた、評価されるべきことでしょう。
2010.6.14付 朝日歌壇より
かのときは捨て石いまは要石ウチナーンチュは石にはあらず:(新潟市)伊藤敏
高野公彦 評:戦時中は「捨て石」として見捨てられ、現在は「要石」として米軍基地が存続している沖縄。ウチナーンチュ(沖縄人)は石ではない、という怒りを歌う。
佐佐木幸綱 評:沖縄および沖縄の人たちを、その時その時の都合のいいように位置づけてきたわれわれの勝手さを、鋭くクローズアップする。「ウチナーンチュ」は沖縄の人のこと。
いつも言うことなのですが、同義反復はやめましょう。何も新しいことは生まれない。
高野氏の評は作品の歌を繰り返しただけですね。評にはなっていません。
佐佐木氏の評は、「われわれ」に跳ねかえってくるのだということを指摘。言葉は自分に跳ねかえるということを自覚して使わなければなりません。
想像するに「チュ」は「衆」でしょう。
ウチナーンチュは沖縄の衆、ヤマトンチュは大和の衆でしょうね。
沖縄の言葉には古代日本語が生きています。味わいが深い。
6月4日
白山神社の境内の片隅。前にもお目にかけました、白いホタルブクロ。
今回は、下の方を見てください。
ハチが飛んできました。
肉眼で見ている分には、4匹くらいのハチが、あっちの花こっちの花にもぐり込んでは出てくるのが見えるのです。
や、ホタルブクロならぬ「ハチブクロ」だっ、と写真を撮りたいのですが・・・
いや、むずかしい。
上の写真はハチが花に飛び込む直前です
この写真は花にもぐり込むところなんですが、うまくジャスト・ピントにならなかった。
ホタルが入って光るというようなことは本当にあるんだろうか?
ないだろうなぁ。
この「提灯のような花にホタルが入って光ったら面白い」という想像力でつけた名前ですよね。どうでしょう?
6月3日
オニグモの幼体が小さな網を張っていて、獲物がかかったようです。
糸でぐるぐる巻きにしたところですね。
何を捕まえたのか分からないのですが、この写真で獲物の上部のところを見ると、クモの上顎のような気もするのですよね。アリグモか、ハエトリグモの仲間のオスかもしれませんね。確証はありません。印象です。
ところで、このオニグモの幼体、小さいのです。2mm強かな。なのに、やけに鮮明に写るんですね。ギンメッキゴミグモや、ヒメグモ、ジョロウグモなどのクモの同じくらいの大きさの幼体を写真撮影すると、大抵、ぼけたり、ぶれたり。
ところがこのオニグモ、くっきり写ってますね。
写真写りのいいやつです。 photogenic というのでしょうか。
体の表面が細かい毛でおおわれていて、てかった感じに反射しないせいでしょうか。
毎日網を畳んでは張り直すので、同じ場所で定住して成長してくれるとは思えませんが、見られる限り、見続けます。
6月7日
しばらく見なかったのですが、再会。
一回り大きくなっていました。おそらく、これで終齢ですね。
しっぽが立派。
これ肉質で柔らかいので、刺さったりはしませんから怖がらなくて大丈夫です。
スズメガの幼虫たちはみんなこういうしっぽを立てていますよ。
頭巾をかぶったみたいな頭の部分を上から撮った写真。
横から撮るとこんな具合。
側単眼が見えています。
3対の脚が見えていて、そのあたりの皺の寄りぐあいからすると、まだ大きくなりますね。体積を増やす余地が十分にありそうです。おそらく終齢幼虫になりたてのところなのでしょう。
しっぽだけ拡大するとこうなります。
この写真では分かりにくいですけれど、知らない人が見ると、この腹端部が顔に見えるかもしれません。一角獣のような角をもった顔にね。
もう一回、出会います。次の記事へ。
6月3日
クルミの葉にて。
パッと見て、ん?シャクトリムシ?
頭の方を見たのですね。こんな感じのシャクトリムシを見たことがあるような気がする。
でも、右側、「しっぽ」があるぞ。
これはスズメガの仲間の幼虫の「一大」特徴ですね。
まあ、写真だけ撮って終わりにしました。
調べてみると、モンホソバスズメの幼虫のようです。
成虫の写真は下のサイトで見られます。
http://www.jpmoth.org/Sphingidae/Smerinthinae/Ambulyx_schauffelbergeri.html
その後またお目にかかるのですが、写真のサイズの問題で次の記事にします。
やっぱりうるうるしてしまいました。
朝からネットでいろいろ記事や写真を見て回っていました。
新聞にも掲載されていましたが、最後の最後に地球を撮影した写真がありましたね。
あれに参ってしまいました。うるうる。
「はやぶさ」大気圏突入前、地球撮影に挑戦
【ウーメラ(オーストラリア南部)=本間雅江】小惑星探査機「はやぶさ」が日本時間13日午後10時51分に大気圏へ突入する。
その直前、地球の撮影に挑む。大気圏突入で燃え尽きるはやぶさ。「7年ぶりに戻ってきた故郷の姿を最後に撮らせてやりたい」という研究者らの思いは通じるか。
はやぶさは同午前9時には地球から27万6000キロ・メートルの距離に迫る。そこから見る地球は地上から見る月の約5倍の大きさになっているはずだ。
しかし、はやぶさの最後の重要任務は、小惑星の試料を納めた可能性がある内蔵カプセルを機体の前面から地球に向けて放出する作業。それに必要な姿勢を保つため、底面のカメラは地球が見えない方向に向けている。
相次ぐ故障を乗り越えて帰ってきたはやぶさに、その「目」で、もう一度地球を見せたい――。はやぶさ計画を率いる宇宙航空研究開発機構の川口淳一郎教授らが撮影を思い立った。カプセル放出から大気圏突入までの約3時間、残るエンジンなどの力を振り絞ってカメラを地球に向ける。
うまくいけば、放出したカプセルも地球の手前に写るとみられている。カプセルは、はやぶさが大気圏に突入してから約20分後、ウーメラの砂漠に落下する見込みだ。
(2010年6月13日03時02分 読売新聞)
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「はやぶさ」最後の力で撮った故郷
大気圏突入前、はやぶさが最後に撮影した地球(13日午後10時2分)=宇宙機構提供
小惑星探査機「はやぶさ」は大気圏突入の直前、最後の力を振り絞って、数千キロ・メートル離れた地球の写真を送ってきた。
日本時間13日午後10時2分に撮影した白黒写真を送信中の同28分、はやぶさが地球の裏側に入ったため、地上との交信が途絶。写真のデータも途切れたが、地球の姿が奇跡的に写っていた。
はやぶさは同日午後7時51分、機体の前面から地球に向けてカプセルを放出後、底面にあるカメラを地球に向けようと、180度向きを変えた。姿勢制御用のエンジンはすべて故障しており、長距離航行用のイオンエンジンの推進剤を直接噴出して、機体を回転させる離れ業を再び演じた。
(2010年6月14日02時10分 読売新聞)
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技術者たちの思い入れが偲ばれます。
地球を離れて孤独な旅を続けてきた「はやぶさ」に、母なる地球の姿を最後に一目見せてやりたかったのですね。
地球という「場所」への帰還というよりは、地球という星の上での物質や元素や生命の循環過程の中への回帰、という感じが強くします。この循環の中にあることを「生きる」というのではないでしょうか。「はやぶさ」は形は失いましたが、地球に生きていると感じます。
[コトバの記憶]「死というのは、人間にとって、大きな、全体的な「別れ」なのではないか」岸本英夫『死を見つめる心』(6/7 朝日新聞)
本の副題は「ガンとたたかった十年間」。著者は高名な宗教学者だったが、自らは信仰を持たず、天国や浄土があるとは信じられない。がんにかかり、「私にとっては、自分が無になってしまうということは、考えただけでも、身の毛のよだつ思いがする」と告白している。
だが闘病生活を通じて、死の意味をめぐる考察は深まっていく。人間は、長く暮した土地や親しくなった人々と、折に触れて別れ、それでも耐えていく。死はそのような別れの「大仕掛けの、徹底したものではないか」と思い至る。「それは、無の経験というような、実質的なものではないのである」
そこからさらに「きわめて身近にある自分の仕事の中に、意味を発見して、それに打ち込んでゆくことに、人生の本当の幸福がある」と論じていく。死生観と幸福論が溶け合った、とても静かな境地である。講談社文庫。
死んだら無になる、というのは間違っていますよ。私たちは地球の物質とエネルギーの循環の中で、繰り返し生命体の中に現れては消えているのです。
形を取るかどうかなどどうでもよいこと。地球の循環の中に抱かれていることを「生きている」というのです。ですから、38億年も生き続けているのです。
昔、「地球へ」というマンガを読んでいた頃は、地球という場所・星への帰還という読み方をしていましたが、年を経て、地球の循環への帰還、孤独ではない、38億年の生命たちと一緒に循環し続けられるという、包み込まれることへの帰還という感覚を強く抱くようになりました。
「はやぶさ」に刺激されて、気分が上ずっています。落ち着いてからまた考えましょう。
6月8日
今度は、ゼニアオイの葉の上でカメムシが孵化したようで、ぐちゃっとかたまっていました。
この写真ではボケていますが、写真の下の方に注目!
前の記事でご紹介した卵に似ていませんか?
ここから孵化して上へ移動してかたまっているのでしょう。
ふたつきの卵。
同じかなぁ。
これが幼虫なのですが・・・
なんというカメムシの幼虫なのか、よくわからないのです。
アカスジキンカメムシとかアオクサカメムシとか、そんなところかなぁ、とも思うのですが、孵化直後の1齢幼虫の写真は見つからなくて。
しばらく見ていたらわあ~っと解散して散っていきました。
とくに飼育しようとは思いませんでしたので、このあたりで成長してね、とだけ声をかけて見送ったのでした。成虫になったらまた姿を見せてください。
6月2日
大型のアシナガバチ。
いつも見るのはもっと小型のフタモンアシナガバチが多いのです。これが飛んでいてもあまり気にしません。人の行動圏の中で営巣されるとちょっと厄介ですから処分しなければならないでしょうが、普段は何ともない。
ところが、このアシナガバチ、大きいんですね。で、ちょっと緊張。小型のスズメバチかなぁ、とも思いながら撮影。
池に舞い降りて、水面近くの藻に乗っているのですね。水を飲んでいるのでしょうか。腹端部を水につけることもよくあります。
巣に水をかけて蒸発熱で巣を冷やすなどということも聞いていますし、近くでこいつが営巣しているとなると厄介だな、と思いました。
調べてみると、セグロアシナガバチですね。
普通に行動している分には攻撃してくることはないでしょう。でも、巣に近づくとやばいかも。
で、気にしてはいるのですが、その後見かけないし、巣らしきものも今のところないし、多分、私たちや通行人の方が行動する範囲内には棲んでいないと思っています。
6月1日
前の記事のシュロチクは玄関脇にあるのですが、その写真を撮ってさあ家へ入ろうとしたら、表札の下に黒い虫がいました。
あ、コメツキムシだな、と捕まえたら、早速てのひらの中でジャンプします、くすぐったい。
そう暴れるなよ、と言い聞かせながら、2,3枚撮影。
オオナガコメツキでいいと思いますが。
激しくジャンプしますよ。で、そうやって逃げて行ってしまいました。
子どもの頃コメツキムシで遊んだなぁ。そういう思い出を持っているのは現在何歳くらいの世代ですか?
アルミサッシはない。エアコンもない。網戸もあまり普及していない。夏の夜は暑いから窓を開けていると、いろんな虫が灯りに誘われて跳び込んできましたっけ。「灯り」って電球ですよ~。まさかランプではない。で、コメツキムシもよく舞いこんで来て子どもに遊ばれてしまったものなのです。
(いえ、ランプもありましてね、煤掃除は手の小さい子どもがやりやすい、とかおだてられて、私ランプの掃除しました。停電も頻繁にあって、蝋燭もよく使いましたっけね。)
寝るときは必ず蚊帳を吊って寝た世代です。
(蚊帳の出入りの作法ってのがあるんですが、知らないでしょ。)
6月1日
これでシュロチクの花が咲いた、といっていいのだと思います。
緑色で花弁のようなものも見えなくて、普通の花とは姿が違うのですが、おそらくこれが花です。
去年の6月9日にもこのブログでシュロチクの花をご紹介しました。あの時の方が驚きがあって、花の中まで調べたようです。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-2bd6.html
ここにその記事がありますから、お読みください。
6月1日
ササグモが獲物をつかまえました。
獲物はハチでしょうね。胸と腹の間のあたりを第一脚で支えて、顎は頭の後ろあたり食いついているようですね。
このササグモ、メスだと思います。頭胸部に比べて腹部が大きいですよね、これがメスの特徴。
これは6月9日にみかけたササグモですが、体形が違いますでしょ。
腹部に比べて頭胸部が非常に大きい。
また、撮影は出来なかったのですが、触肢の先端が丸まってグローブみたいになっていました。あぁ、これがオスの姿か、と確認しました。
撮影直後、ピョンピョンと跳ねるように、一回10cmくらいの距離を跳んで逃げてしまいました。
メスは、葉の裏にくるっとまわって、その後ジャンプする、という感じで、ちょっと行動の仕方が違うのかな、とも感じました。
6月1日
ブルーサルビアがシソ科だということに気づいてしまったので、そのように見えるように撮ってみました。
いかがでしょう。
ホットリップスなんかと同じ形をしていますね。
「唇形花」というのですね。福岡教育大学のサイトから引用します。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/shisoka.html
花びらは一体化して(合弁花)先が曲がった筒(花筒)になり、先がくちばしのように上下に割れている。正面から見ると左右相称。蜜は花筒の底にたまる。
納得です。
6月1日
昼に庭に出たら、クロアゲハが目の前を舞います。
ここは小池のそば。
あてずっぽうの乱撮り。
キンカンの木へ誘われました。
葉の間を飛び回り、時々産卵行動をします。ふっと葉にとまって、腹を曲げるんですね。
頭の上へ舞い上がったり。
目の前へ来て、羽音が聞こえそうに接近してきたり。
何回かそんなことを繰り返して、飛び去って行きました。
カメラを振りながらの撮影。
私のカメラには普通の手ぶれを軽減する機能に加えて、横に流して動くものを止めて背景を流すという撮影のための、縦方向のみの手ぶれ軽減機能もあります。
でも、そんな設定を変えているようなひまはない。
思いっきりカメラを振り回しながら撮ったのがこの写真。
ダイナミックといっていいのかどうか。
ときどき、こういう蝶の舞いに出会いますね。ドキドキしますね。
チョウに誘惑されているようですよ。
あるいは挑発されているというか。撮れる?撮ってごらん、といわれているような。
大型のチョウは「激しく」「熱い」。
5月31日
ビワが熟してきました。
もう少し熟したら食べようかなと思っていたら。
線路際の雑草を刈り取る仕事に来た人たちが、昼休みのデザートに、この写真に写っている分の実はみんな食べちゃいました。いいですけど。
焦った。自分たちも食べたい。欲かいて、収穫を始めましたよ。奥や上から。
おいしいです。市販品にはあり得ない酸味が爽やか。
後味がいい。甘みと酸味のバランスが絶妙ですね。
このビワも実生です。
市販品を食べて、種をまいてみたのです。
遺伝子構成が親の木とは違っていますから味も違う。酸味が回復したのでしょう。
甘いだけの果物はどこか詰まらないと思いません?
酸味もあって、唾液が出て、食べたあとにすっきり感が残る、というのがいいですよ。
私の子どもの頃の果物はみんな酸っぱかったです。
夏蜜柑の酸っぱさなんて表現できませんが、でも、騒ぎながらいっぱい食べたもんな。
5月31日
ビヨウヤナギのつぼみが膨らんできました。
アリが来ている、つぼみにも蜜があるのかな?と思って撮影したら、もうアブラムシがいたのですね。肉眼的には見えていませんでした。
アリはアブラムシのところに来たのでした。
いっぱいつぼみがふくらんできています。
ふと気づくと
なんだ?植物の側が自分でこういう風にしたのではないと思います。
なにか、昆虫がつぼみの先端をかじった。そこへ中からメシベが伸びてきた、という状況ではないでしょうか。花弁が渦を巻いて納められているのが分かります。
これなんだ?
きれいでしょ。瑠璃色というのかな。
実はこれハエのお尻。
キンバエですかねぇ。ちゃんと確認はできませんでしたが大型のハエの仲間です。
ニクバエではないですね。
5月29日
ツユクサが咲き始めました。
私も以前この花の中を開いて見て、かなりややこしい構造になっていることを書いたことがあります。
大分前のことなので、今回は、詳しいサイトをご紹介しますので、関心がおありでしたら読んでみてください。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/tsuyukusa.html
ご存じかと思いますが、「.ac」は「academy」ですので、これは福岡教育大学のサイトです。
私が直接URLを書くのは、そのサイトの安全性について、ご自分で判断がしやすいようにと考えてのことです。クリックしたらどこへ行くのか分からない、というのは嫌ですよね。で、こうしています。
http://www.geocities.jp/e5377158/08zatuki/tuyukusa/tuyukusa.html
こちらは「松戸の自然」というサイトですが、私が読んでみたサイトです。
5月29日
オオカナダモの花が咲きました。
この花は以前にもご紹介したことがありますが、今回はちょっと気になって、どういう分類群に属しているのかな?とウィキペディアを調べてみました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%80%E3%83%A2
オオカナダモ(大カナダ藻)は、被子植物門の沈水植物のひとつである。学名は Egeria densa であり、トチカガミ科に分類される。
とあって
被子植物門 > 単子葉植物綱 > トチカガミ目 > トチカガミ科 > オオカナダモ属 > オオカナダモ
だそうです。あれ、単子葉植物なんだぁ。知らなかった。
5月から10月ごろには水上に白い花を咲かせる。花は三弁の丸い花びらを持ち、よく目立つ。
雌雄異株であるが、日本では雄株のみが生育している。
なるほどなるほど。雄株なのか。
南アメリカ原産で、生物の実験材料として日本に持ち込まれたものが大繁殖したものである。1940年代に山口県で野生化の記録があり、1970年代に琵琶湖で大繁茂して問題視されるようになった。低温や水質汚濁などの悪条件にも耐えやすく、それゆえ増えやすい。
オオカナダモは、もっとも細胞の観察がしやすい素材の一つである。一般に水草は陸上植物とは異なり、葉の厚みが薄く、そのままスライドグラスに乗せただけで、細胞や葉緑体が観察できる。その中でもオオカナダモは細胞が大きく、観察に適している。また、その時観察できる原形質流動も有名で、光学顕微鏡を使えば容易に流動の様子を見ることができる。そのため中学・高校の理科の実験で利用されることが多い。
そうなんですよね。ムラサキツユクサとオオカナダモは高校生物実験の定番。
私もやりましたっけ。
大学でもお世話になったな。
茎の切り口から光合成でできた酸素が小さな泡になって出るんですね。これをカウントして酸素の発生速度=光合成速度の指標として、光合成の実験をやりましたね。
光の強度と光合成速度の関係、水中の二酸化炭素濃度と光合成速度の関係、だったと思います。教養学部時代の生物実習の一つだったな。
今我が家では、ヤゴやメダカがこのオオカナダモの間を隠れ家にしながら生きています。
さて、今年はどんなトンボが羽化するかなぁ。
5月28日
多摩堤通りでちょうど私の車の直後になったので、信号停止した瞬間にふり向きざまにワンショット。
大田区の「たまちゃんバス」です。
去年の10月から運行されていて、遠くから見かけたり、すれ違ったりしたことはあるのですが、シャッターチャンスがありませんでした。
武蔵新田、矢口の渡し、下丸子あたりを循環運行しています。
35分間隔で、1日15便という、ローカルなバスです。
東急バスが運行していて、普通の路線バスより小さいですね。
車体の横には別のイラストがあるのですが、それを撮るチャンスはまだありません。
ご存知かと思いますが、かつて丸子橋のあたりに現れたアゴヒゲアザラシのタマチャンにちなんだ命名です。
2002年だったようですね。丸子橋のあたりにアゴヒゲアザラシがあらわれて騒ぎになりました。多摩川から別の川へと移動していきました。もちろん、いったん川を下ってまた別の川を上り、をくりかえしたのでしょうが、あらわれ方がまるで「東横線で移動」しているようでおかしかったです。
多摩川駅では今も「タマチャン・パン」という甘いのを売っています。
この由来からすると「たまちゃんバス」は丸子橋のあたりまでは走ってきてほしいなぁ。
全国でアザラシ追っかけが始まったきっかけですね。タマちゃんは。
先駆者なんですよ~。
6月8日
孵化しましたよ~。
気づいたのは11時40分過ぎです。
生まれたては赤っぽいですね。
赤いおめめ。立派な触覚。
腹端から糸を引いているのもいます。ある種の「へその緒」のようなものでしょうか。
卵とつながっていたのでしょう。
午後3時過ぎ。
増えました。色も少し黒ずんで褐色になってきました。
それにしてもやはり立派な触覚ですね。体に比して。
重くないかい。
頭のあたりがなんとなく白くもやもやします。
何かの飾りのようなものがありそうですが、はっきりは見えません。
まだ孵化していない卵の中に幼虫の姿が透けて見えるものがあるようです。じっくりご覧ください。
多分長く飼育することは無理だと思いますので、しばらく屋内で観察してから、放してやることにしましょう。
6月2日
こんなシーンを見かけました。
卵は以前からのものですから、このカメムシが産んだわけではありません。
でも、こうやってオーシャンブルーの上にこのカメムシがやってきているということは、状況的には、この成虫と卵が結びつきますね。
このカメムシはホウズキカメムシです。
「幼虫図鑑」のサイトを調べたら
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/youtyuu/HTMLs/hoozukikamemusi.html
卵の写真がありました。ほぼ間違いないですね。
この卵はホウズキカメムシの卵です。
やっとわかった。
私のこのブログは写真の撮影日と1,2週間のギャップが生じています。楽しい写真が多くてね。ですが、「緊急告知!」があります。
5月27日に「ウドンゲ」として御報告して、すぐ孵化したクサカゲロウの幼虫を飼育してきました。また書きますが、すごい食欲でしてね、6匹くらい生き残っていたのですが、もう全部は飼育しきれないと悲鳴をあげて、2匹を残して、あとは、アブラムシのいそうな場所に分散して放したのが、6月5日(土)でした。
2匹ならアブラムシの供給も大丈夫。そうしたら
6月7日
クサカゲロウが蛹化しました!!!
朝ケースを覗いたら白い「繭」がある!
チョウ目じゃないからなぁ、これを繭といってよいものかどうか分かりませんが、見れば繭。
ケースに接触した側から見ると、内部に幼虫か蛹の姿がぼんやり見えているようです。
幼虫の「雄姿」はまた時間を逆転させて後でお目にかけますが、あの幼虫は肉食性で顎が大きく発達している。あの口から糸を吐いて繭を作ったとは思えないですね。
歩行時に、腹端部を粘着させながら歩いているようでしたから、肛門かあるいはその近くの粘液腺から糸を紡ぎ出したのではないでしょうか。
翌日、6月8日。
もう一匹も蛹化しました!
しかも、どういうことか、先に蛹化したものの隣で繭を作って蛹化しました。
並んでいます。
後ろのスケールは1mm目盛りですから、二つ並んで約1cm。
これで、ひと段落ですね。
蛹の期間がどのくらいか分かりませんが、当分は見続けるだけになりました。
結構忙しかったですよ~。エサの供給は。
実は、これが見たかったんですね。
ウドンゲは知っている。
幼虫も知っている。
成虫も知っている。
蛹を知らない。
見たかったのです、この蛹の時を。
いけるかもしれない、と思ったので今回頑張って飼育してみました。甲斐があった。
ブログの進行に合わせて、幼虫時代のことは書くことにします。
羽化したらご報告します。
5月28日
越冬した蛹たちが順次羽化していったことはすでにお伝えしました。
ナガサキアゲハもいましたね、嬉しかった。
最後に一つ残ったアオスジアゲハの蛹。
死んだという感じでもないのですが、動きがない。
いやもうダメだな、と思っていたら、5月28日、羽化しました。
いやあ、嬉しかった。半年以上も蛹でいたんですよ。
よく頑張ったねぇ。
パタパタしていましたので飛ばそうとしたら、ちょっとの間、妻の手にとまっていました。
カエデの木にとまって、しばらく体を暖めてから飛び去って行きました。
なんだか、こう、体の芯からうれしくって、うきうきしちゃって、たまらなかったです。
よかったなぁ。すごいなぁ。
思いっきり生き抜くがいい!
5月28日
おっ何かいる、と覗いてみれば、アカスジキンカメムシの成虫です。
5月25日付でアカスジキンカメムシの幼虫について書きました。
おそらくあの幼虫が成虫になったのでしょう。
大人になったら顔見せてね、といったのを覚えてくれていたような気がしてしまいます。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-57b7.html
2010年6月6日付の朝日歌壇と俳壇のあいだの「うたをよむ」というコラムに前登志夫さんについて喜多弘樹氏が書いていられました。その最初の部分だけ引用します。
[うたをよむ]前登志夫のおだやかな呪縛:喜多弘樹(歌人)(6/6)
「人間がおもしろくないと、歌もおもしろくないねえ。歌という定型詩は、大きなかなしみや耐えがたい苦しみ、どうしようもない修羅をかかえていて、散文でも表現しきれない人にこそ必要なのだから」・・・
だめだこりゃ、私が短歌や俳句と縁遠い所以を完全にいい当てられた。
「面白味のない人間」だからねぇ、わたし。ひとぎらいむしずき。こりゃいかん。
散文家。修羅なんかかかえてない、能天気な私。さっさと死にたいなぁ、疲れてきたぞ、と、生きることに、こだわりがかなりほどけちゃった私。これでは詩は書けるわけないか。
まるっきりいいあてられてしまいましたことよ。
執着がなくなると、詩はかけません。
詩人って、みんな辛いんだなぁ、偉いものだなぁ、と感心してしまいます。そんなにきばらなくってもいいんじゃない、なんて失礼なことを考えてしまいます。
6月6日付の朝日歌壇・俳壇の下の記事にこんなのがありました。
旧約聖書に登場?ゴキブリ騒動記(6/6)
扁平な体形で、室内を競走車さながらに疾走するゴキブリ。本日はその捕獲に失敗した朝日歌壇のゴキブリ騒動記だ。
発端は、5月17日付の松戸市・東洋さん作<ごきぶりは旧約聖書の中でさえ打たれいるらし我も叩きぬ>。軽妙な歌風を馬場、永田選者が採用した。
掲載後、キリスト教信者の方から問い合わせが。旧約聖書にゴキブリの語を見た覚えがない。邦訳の違いでゴキブリが出るテキストがあるなら知りたいとの趣旨である。
東さんに打ち返す。小説かエッセーで呼んだ記憶がモチーフという。いそぎ手元の聖書をめくる。イナゴ、バッタを発見。だがゴキブリがいない。
聖書協会翻訳部に照会する。「面白い歌で笑ってしまった」と同部の島先克臣主任。「でも何かの誤解。訳語如何によらず聖書にゴキブリは登場しない。協会の公式なコメントです」
私もこの歌について記事を書きました。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ed73.html
聖書は徹底的に読みつくされた書籍ですから、すべての言葉が検索できるはずなのです。おそらく。
結論として、旧約聖書にはゴキブリは登場しないそうです。
なぜ、ゴキブリがこれほどまでに嫌われるのか、納得いかないかかしです。
好きになってくれとはいいませんが、互いに生き物同士、付き合い方っていうものがあるんじゃないですか。
2010.6.6付 朝日俳壇より
遺伝子をのぞきみるかなところてん:(さいたま市)宮内則幸
金子兜太 評:ところてん(食用)で成立。寒天では駄目。
食用じゃないところてん、ってあったっけ。
想像するに、トコロテンの細長く、ぐしゃぐしゃと集まっているさまのなかに、DNAの糸を連想したのではないですか?
当然、寒天ではないのです。むしろ、イトコンニャクやシラタキでもいいのだけれど、その透明感が違うものなぁ。
と私は、思いました。
あるいは、全く別の観点から。
トコロテンのうまさに舌鼓を撃つ自分のなかに、先祖伝来のトコロテン好きの遺伝子でも見ましたか?(あるいは、この季節、親も好んで食ってたよなぁ、とか)
2010.6.6付 朝日俳壇より
とまるとき闇したたらせ黒あげは:(五泉市)森谷泉
金子兜太 評:黒あげはに陶酔。
「とまるとき」という言葉が、少し物足りなくて。
とまるときに闇が滴るようだ、では、少し散文的な気がする。
黒あげは闇したたらせ停まる時間(とき)
とでもして、目の前のクロアゲハの闇を滴らせる姿が、時間を停止させた、というような含みを持たせられないでしょうか。
昆虫と対峙する時の緊張感が表現されていたら昆虫好きの私にはこたえられないのですが。
2010.6.6付 朝日俳壇より
大蜘蛛も蜥蜴も自在吾が厨:(シンガポール)ハルツォーク洋子
金子兜太 評:大仰さに野趣あり。「自在」が旨い。
「蜥蜴」ってひょっとして大きなヤモリのことじゃないですか?
東南アジアのオオヤモリって有名じゃなかったっけ。
「自在」というのは、悠々と「おのずから在る」という、あたりを気にするでもなく、悠然たる姿の表現でしょうね。
人の生活の周りに生きる虫などを求めて、クモもトカゲもやってくる。
共に生きるということでしょう。
日本の生活は「きれいすぎる」。他の生物を一切排除しようというような余裕のなさを感じる。
これじゃあ、生物多様性も何もあったものではない。
2010.6.6付 朝日俳壇より
蛇過る長き一瞬ありにけり:(大牟田市)鹿子生憲二
稲畑汀子 評:蛇が道を横切ったのであろう。道幅一杯の長さを見た恐怖心が描けた。
確かにね、緊張感があって「長き一瞬」だったのでしょうが、「恐怖心」は稲畑氏のものでしょう。作者が同じとは必ずしも思えない。
なかにはひょいと蛇の尾を踏んで、捕まえて振り回したくなる御仁もいるかも。
教師になって2年目。卒業学年の卒業遠足にみんなで行って歩いていたら、向こうからへびをくるくる振り回しながらやってくるおばさんがいまして。なんですか?ときいたら、マムシだよ、と笑っていってしまいました。焼酎にでもつける気だったのでしょうか。すごい人がいるものだ、このあたりはマムシが出るのか、と二つながらにビックリしましたっけ。
2010.6.6付 朝日俳壇より
腰痛は魔女の一撃夕焼空:(調布市)川井政子
ぎっくり腰というのか椎間板ヘルニアというのか、やられましたね。
「魔女の一撃」というのはドイツ語の表現でしたか。
私の腰痛は椎間板ヘルニアではないですが、もう20年も付き合っていますから、「一撃」とはいえなくなりました。
自分で自分の体が怖くなって、尻込みしてしまうのですね。
これがいけない。
頑張りすぎず、かといって、かばいすぎず。
適度に体を使って筋力を維持するしかない。
とはいっても、やっぱり冬はこわいよぉ。
あ、やっちまった。というのが来るからなぁ。
歩くこと自体が腰の負担になる私はどうしましょう。仕方ないから泳いでいますが、こわごわから抜け出せません。
あんまり腰を伸び伸びもせず、でも背中をしゃきっと伸ばして気持ちよく。
美しい夕焼けに染まりましょう。
2010.6.6付 朝日俳壇より
亀の子の一年を経し甲羅かな:(青梅市)市川賢
年を経た亀の甲羅、といえば、年齢を重ねた重々しさを感じますが、そうだよなぁ、出だしは、まず一年から重ねるんですよね。
うむ。立派な甲羅だ。(なんだかまだやわらかそうな雰囲気)。
年を重ねた重みだね。
2010.6.6付 朝日俳壇より
手術して夏をのりきらねばならぬ:(荒尾市)鶴田幾美
年齢を重ねてくると、季節の変化が体にこたえます。
夏は夏で暑さが体をほそらす。消耗が激しいです。
冬は冬で芯まで体が冷える。関節、血圧・・・もつのやら。
まして、病を抱えられたとなれば、なお一層。
秋の透明な空気を存分に吸いましょう。どうか御一緒に。
2010.6.6付 朝日俳壇より
沖縄の夏は怒りにあふれけり:(川崎市)池田功
{長谷川櫂 選}
沖縄の拳のごとき夏の雲:(栃木県壬生町)あらゐひとし
大串章 評:拳のような夏の雲は、いったい何を怒っているのか。米軍普天間飛行場のことであろうか。
かかし評:「いったい何を怒っているのか」とはのどかな評ですな。明白。
2010.6.6付 朝日俳壇より
拾ひたる子猫七匹眼開く:(群馬県吾妻町)酒井せつ子
長谷川櫂 評:「眼開(あ)く」で一句に命の光が宿った。ちょっとした描写が俳句では大事。七つの小さな命にこれからどんな運命が待っているか。
「ちょっとした描写が俳句では大事」それはそうです、あたりまえ。この短い詩形で表現しようというのですから、言わずもがな。
「まなこあく」までの大変さ。ミルクを与え、ウンチをさせるためにお尻をくすぐり、体温を保てるようにくるみ・・・作者の苦労の結実として「まなこがあいた」のです。
七匹かぁ。よい飼い主に貰われてほしいなぁ。
昨今、猫事情がきびしい。どうか穏やかに暮らせますように。
2010.6.6付 朝日歌壇より
園児らの声はつなつに跳ね返り象はゆっくり足を曲げたり:(東京都)吉竹純
馬場あき子 評:園児らの動物園見学だろうか。賑やかな声が跳ねかえるという表現も実感があり、調教師が指示したか下句の動作も巨体の象がみえるようだ。
「跳ねかえるという表現」ととらえられましたか。元気のいい声が飛び交う様を「表現」していると。
象がいる場所は、動物園のコンクリート製の場所。
ひょっとして、実際に声が反響してわんわん響いたのではないですか?
それを目に見える形で「跳ねている」した。声が吸い込まれる場所ではない気がする。
象は知性を持つ。象の目から見た「幼いヒト」というものは、どのように映っているものなのだろうか。
テレビなどで、動物園のイベントを取材して、インタビュアーが幼児に「どうだった?」と聞くと、「かわいかった」と返事が来る。
その「かわいい」という言葉に違和感を感じている私です。
「かわいい」という感情はどのようにして生まれるものなのだろうか。自分と相手の関係をどうとらえたときに「かわいい」といえるのだろうか。
わからなくなっています。
2010.6.6付 朝日歌壇より
暗号のごときかすかな笑みひとつ人混みの中に残されてをり:(埼玉県)大久保千代子
読んでふと、チェシャ・キャットを思い浮かべましたが、ああいう「不条理」ものではないようだ。
多分、親しい人と、人込みの中で行きあった。言葉を交わす間もなく、消え去った。
あの笑みはなんだったのだろう?読み解けない。心が騒ぐ。ということかな。
余韻が残りますね。
2010.6.6付 朝日歌壇より
なおこやらりこちゃんというゴーヤあり吾子は名札を作るのが好き:(高槻市)有田里絵
高野公彦 評:ゴーヤに「なおこ」や「りこちゃん」という名札を付ける子供(四、五歳か)の可愛さ。
これは笑いましたね。そうなんだ。ゴーヤに名札がついているんだ。いいなぁ。
この年齢、世界がすべて「人格」を持っているのでしょうね。
忘れてしまった認識です。
2010.6.6付 朝日歌壇より
コンビニのおにぎりコーナー早々と売切れとなる田植えの季節:(神戸市)内藤三男
永田和宏 評:弁当など作っていられない田植え期の繁忙。しかし他ならぬ農家がお握りを買って済ますという現代風景に違和感を感じたか。
なるほど、米を作る農家が米のお握りを買う、と読むのですね。
私自身は、最初、田植えの場に持って行って、傷みにくくって、腹もちがよくって、お茶なんかと相性が良い、というとやっぱりお握りだろうな。サンドイッチや、脂っこい弁当ではないのだろうな。と、こういうとらえ方をしました。持ち帰るごみも少ないしな、と。
「現代風景に違和感」というのはあまり感じなかったです。
2010.6.6付 朝日歌壇より
はじめての家庭訪問花いけてわたしも母も緊張してる:(横浜市)高橋理沙子
佐佐木幸綱 評:作者は小学一年生。
児童・生徒だった私自身についての家庭訪問はまるっきり記憶にないのです。あったんでしょうねぇ。覚えてない。
教師だった私についての家庭訪問はあります。高校での家庭訪問というのはロクなものではないのですが、せざるを得ないこともありましたねぇ。
「担任」という業務の中には、家庭訪問もあります。いろいろ不時の出来事もあります。
障害者としてやはり衰えの早かった私には、「担任」が務まらなくなりました。
教科と校務分掌だけの教師を長くさせてもらいました。
教師の仕事というものは、果てがないからなぁ。
2010.6.6付 朝日歌壇より
いい人につながっているいい人のいい人だけの輪になる踊り:(館林市)阿部芳夫
私のホームページに引用している詩をご紹介します。
いい人にあえるといいね
いいところにいけるといいね
いいものにふれられるといいね
いいことができたらいいね
いいまいにちだといいね
いい人を好きでいたいね
いい人に好きと言われたいね
いい人にあえるといいね
いいひとたちと生きられたらいいね
ほんとに
そう思うよ
作者不詳朝日新聞1994.1.30付け
「せんせい」という連載に掲載。
小学校で理科支援員をした時も、プリントにして児童に配って音読しました。
このごろはなぁ、「人間が劣化した」とおもえるような事件が多い。
ねがい
からっぽの手は寂しい
手は きっと
つなぎあいたいのだ
そして心は
つなぎあう沢山の手を
想像したいのだ
工藤直子
いい人に出会い、いい人と手を繋ぎたいですね。そういう輪が広がるといいですね。
2010.6.6付 朝日歌壇より
ベビーバスにむっちり詰まる白い足父のメガネにお湯蹴り上げる:(所沢市)菱沼志穂
幸せの光景、ですね。
読んでいて、「父」って誰かな?というところがわかりませんでした。
赤ちゃんの「父」。若い父親が懸命に赤ちゃんをお風呂に入れている。
歌の作者の「父」。孫の入浴をする「じいちゃん」。
さて、どっちかな。
素直に読めば、若いパパの頑張り、だろうなと思っています。
(昔の自分を思い出しています。子の入浴は私がいる限り私がやっていたなぁ。)
2010.6.6付 朝日歌壇より
去年(こぞ)植えし桧苗(ひなえ)は山に馴染めるや松蟬鳴けば和して秀(ほ)揺する:(相模原市)中村健次
佐佐木幸綱 評:これは山の時間、そして木の時間である。
山の時間、木の時間。人の時間とは違って、ゆっくりと流れる時間。
そこまでは納得。
「松蟬」ってなんだぁ?
俳句の季語に「松蟬」があって、初夏らしいですね。で実体は「ハルゼミ」だそうです。
そうかぁ、ハルゼミかぁ。いいないいな、聞いてみたいな。
私の知っているセミは少なくて、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミ、ツクツクホウシ、カナカナゼミくらいです。
ハルゼミは聞いたことがない。
調べてみたら、新潟の方の方言で、チッチゼミのことをマツゼミともいうようですが、これはもう、秋近くのセミですから、今回の歌の松蟬ではないですね。
ハルゼミの生態をよく知りませんが、セミですから、短くても3年やそこらは、幼虫で土の中で生活するのでしょう。
そのことを考えると、上掲の評に、「『セミの時間』である」という一言を付け加えたいですね。(虫好きなものでスミマセン)。
2010.6.6付 朝日歌壇より
読めませんとは決して言わないスキャナーがこれでどうだと文字ぶつけ来る:(町田市)大西亞進
佐佐木幸綱 評:最近は手書き文字もかなり正確に読み取るスキャナーができた。お互いに張り合っている感じが可笑しい。
私はスキャナーを使っていないもので、この感覚は分からないのですが、もう一歩、深読みしてみませんか。
スキャナーでスキャンしているのは「朝日歌壇・俳壇」である、というのはどうですか?
私は気になる歌をキーボードから、手入力していますが、お名前や、歌・句中の難しい字には参ります。IMEパッドにマウスでぐにゃぐにゃな字を書いて認識させています。
スキャナーでは「これでどうだ」と候補の字をあげてくるのですね。正しい字を認識させれば、以降はちゃんと読めるんでしょ。学習して。
パソコンやスキャナーも賢くなったものです。
5月28日
コマルハナバチがツゲの木の周りを飛び回っています。
どうしたのかな?とよくみれば、花が咲いているんですね。
ハチに教えられて花に気づきました。
ふかふかですね。
これはホバリング中。
花に夢中ですね。
地味で小さな花ですが、ハチにとってはおいしい蜜や花粉のある美しい花なのでしょう。
長い時間空中にとどまってくれるので、こういうシーンが撮れました。
アブやスズメガでホバリングを撮ったことはありますが、ハチでは珍しいかな。
嬉しいですね。コロンとした体が実に可愛い。
花の方はというと、これ。去年もお目にかけました。
メシベとオシベが一応あるんですが。
去年は一個しか実はなりませんでした。それもどこかに落っこちて行方不明になりました。
今年はどうなりますやら。
真ん中の幼虫にピントが合っているのですが、他もご覧ください。
右下の方で、卵から出てきて、腹端は固定し、脚を引きぬこうとしているシーンが見えます。
真ん中上では、体が乾いて、体を起こし脚で卵の殻につかまり、腹端を卵の殻から外した幼虫が見えます。
いやあ、すごいものを見てしまった。大興奮です。
ウドンゲ自体は子どものころから知っていましたが、孵化シーンを見たのは初めて。
よいものをみた。
14:03の時点では、大部分の幼虫が孵化し、みんな卵の殻にくっついて体が固まるのを待っているようです。
幼虫の体長は1mm強です。
マクロレンズのお陰ですね。これが記録できたのは。
15:46の時点。
体も固まって、卵からおりたものが約半分。
この日の観察はこれで終了。
帰宅した妻にパソコン画面で一連の写真を見せ、現物を虫眼鏡で観察し、二人で感動の嵐に包まれたのでありました。
この日以降、このクサカゲロウの幼虫と暮らす日々が始まったのです。
この先の話は、またおいおいと。
お楽しみに。
5月27日 13:38~14:03
前の記事の写真を撮ったのは12:53~54でした。
ふと気づいて、見ると上の写真のようになっていました。
わらわらと幼虫たちが孵っている!!
ここからの15分くらいの間に撮った写真を再構成して、おそらくこれが孵化の過程だろう、という順にお目にかけます。
卵の殻を透かして中の幼虫の模様が見えているのでしょう。卵は長円形。
中の幼虫が殻を割ろうとしているのでしょうか。体を曲げているのだと思います。
体が出てきて、腹端で卵にくっついています。
脚は伸ばしっ切り。背中の毛がすごいですね。
体を曲げ、脚を体に引きつけています。体や脚が乾いてきたのでしょう。
なんとまあ、愛らしいこと。
強大な顎だぁ。かわいい。
眼がかわいい。
ぽやぽやの毛がかわいい。
やっぱり赤ちゃんはかわいい。
まったく、ウドンゲだよなぁ。稀なことに遭遇し、観察できました。
5月27日の昼
ハゼノキを何げなく見ていると、お、ウドンゲだ!
肉眼的には(老眼的には)ただのウドンゲ。
ところが、写真に撮ってモニターで見ると、なんだか孵化し始めているのかな?
そのようですね。
どうしようか、外出中の妻に後で、ここにある、と場所を教えればいいか、とも思いましたが、葉を指でちぎって家に持ち帰ってプラスチックケースに入れました。
それを脇に置いて、パソコン画面で拡大してみると
卵に縞模様はあるし、中の幼虫が卵を破ろうちしているのか、形が変わってきているのもある。
いやあ、すごいものを見つけてしまったぞ、とニコニコ。
ところで「ウドンゲの花」はご存じですよね。
うどん‐げ【優曇華】
(優曇は梵語udumbara優曇波羅の略。祥瑞の意)
①クワ科イチジク属の落葉高木。ヒマラヤ山麓・ミャンマー・スリ‐ランカなどに産する。高さ約3メートル。花はイチジクに似た壺状花序を作る。果実は食用。仏教では、3千年に1度花を開き、その花の開く時は金輪王が出現するといい、また如来が世に出現すると伝える。源氏物語若紫「―の花まち得たるここちして」
②(3千年に1度開花すると伝えるところから) 極めて稀なことのたとえ。狂、花子「たまたま会ふこそ―なれ」
③芭蕉バシヨウの花の異称。
④クサカゲロウが夏に卵を草木の枝や古材・器物などにつけたもの。約1.5センチメートルの白い糸状の柄があり、花のように見える。吉兆または凶兆とする。うどんげの花。<季語:夏>[広辞苑第五版]
④の意味です。
当然、吉兆です。
これからしばらく、この話題が登場します。よろしく。
朝日新聞の夕刊に「あるきだす言葉たち」という詩のコーナーがあり、気鋭の詩人の詩が載ります。若い詩人はやはり、きばっているというか、衝撃力をこめるというか、私のような詩を「イメージ」で読む人にはかなり辛い詩が多いようです。まあ、それはそれでいいとしましょう。若い人がじじむさいことやってちゃ時代が動かない。
6月1日には永井祐氏の「六月一日」という題での短歌の連作が載っていました。
鑑賞という点では相互に関連する短歌群ですから、全部載せなければなりませんが、それはちょっと遠慮するとして、一点、理系のおじいさんとしては「註」をつけたくなってしまって。
余計なことです。笑って下さい。
ささってるUSBに白い字でBUFFALO疲れてるバッファロー
私もUSBは多用しているし、古~いパソコンユーザーなので、BUFFALOの製品にもずいぶんお世話になってますが、BUFFALOはアメリカの牛の「バッファロー」ではありません。
昔、能力の低いコンピューターでプリンターに出力するとプリンターが動いている間コンピュータは立ち往生になったのですね。で、コンピューター側はファイルをいっぺんに出力して次の仕事をしたいわけで、その出力されたファイルをいったん外部のメモリーに蓄えてそこからプリンターへ順次データを送るようにしたわけです。
このような外部のメモリーは、一時的に情報を蓄える「バッファー」と呼ばれます。
メルコという会社がこのプリンタバッファ―を「バッファー」にちなんで「バッファロー」という名前の商品として販売したのでした。ヒットして、ついに、社名がバッファローになってしまったのでした。
余計な昔話でした。ごめんなさい。
今朝、こんな記事を見ました。
水の硬さ測る洗濯機
○○は、水の硬さや温度を測って最適な量の洗剤で洗う、高機能の洗濯乾燥機を25日に発売する。・・・
記事を書く記者の「科学レベル」が問われますね。
文系の方で、科学用語というものを嫌う方がいらっしゃいます。なんで当たり前みたいなことをわざわざ難しい言い回しにするのか、と。
日常用語が含む幅広い意味、曖昧さを避けて、意味を限定し、その用語によって相手に伝わる意味を限定するのが科学用語です。詩じゃないんで、同じことばによって発した側と受けた側で意味が異なっていては科学は成立しないのです。
そのために、漢字などを多用して、日常用語から遠ざけて、意味を限定して使うのです。
コミュニケーションには重要なことです。
さて、「水の硬さ」って何だ?
この硬い水を張ったプールに飛び込むと、怪我するのか?
水泳の飛び込みには「柔らかい水」が要るのか?
敢えて、くだらないことを言いました。
「水の硬度を測る洗濯機」が正確な表現です。
水の硬度とは水に溶けているカルシウムやマグネシウムの濃度のことです。
力を加えたときの「硬さ」ではありません。
カルシウムやマグネシウムが多く溶けていると洗剤の泡立ちがよくない、ということで、その濃度を測定して、ちゃんと泡が立つような洗剤量を決める、そういう「洗濯ロボット」のようなものを開発した、という記事ですね。
「硬度」というのが難しい言葉だと思ったのでしょうか。「硬さ」にしてしまったために曖昧さを生じました。
曖昧さを排除する科学に長くなじんできた者にとっては哀しい。
情けない記事だなぁ、というのが私の正直な感想です。
朝日新聞の5月28日付の記事
コクサイ先生、国債PR役:財務省が考案
個人向け国債の宣伝に活用しようと、財務省がイメージキャラクターの「コクサイ先生」を考案した。漢字の「国」をカオに仕立て、「金融知識が豊富で国債の魅力をわかりやすく解説する」という設定。5月末から、新聞広告やテレビCMに登場する予定だ。
これまでは、俳優の松本幸四郎さんや小雪さんといった著名人を起用してきたが、国の借金が膨らむなか、宣伝経費の節約もねらった。・・・
きっとこの財務省のお役人、クレヨンしんちゃんを知らなかったのでしょうね。(私だって知っているということはないのだけれど。)
小さな個人経営の本屋で、昔、幼い男の子が書店主に「こんどのしんちゃん、ウンコくさいんだよ!」と教えていました。書店主も傍で聞えてしまった私も、その時はよくわからなかった。
で、新聞広告に、クレヨンしんちゃんの劇場版の広告を見つけて、ナットク。
「クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望」というのが公開されるところだったのですね。
ストーリーはどうでもいいけど、「自身の名前を3文字目で切って呼ばれることを非常に嫌う」そうです。
幼い男の子などは、ウンチとかオシッコとか叫ぶのが好きでね。大人が嫌がるとますます叫びたがる。
で今回、かかし、思うに、コクサイ先生の姓は「運」ではないか。
「運国債(ウンコクサイ)」先生なのではなかろうか、と想像するわけです。
国債を買って、儲かるかどうかは運次第、借金の負担に負けて、国が国民に「借金棒引き令」でも出して、ただの紙切れになっちゃうかどうかも、運次第。運次第の国債ですよ~、と、教えて下さっているのではないか。
と、そこまで「深読み」しちゃいけないかな。
「コクサイ先生」とは「ウサンクサイ」なぁ。
5月27日
足元の低い位置にいて、オッこんなところに、と撮影。
これ以外のアングルがなくて、これ一枚。
ヒトリガ科 > コケガ亜科 > キシタホソバ
でしょう。
別名「キベリホソバ」とも言うようです。
輪郭のすっきりしたきれいなガですね。
http://www.jpmoth.org/Arctiidae/Lithosiinae/Eilema_aegrota.html
このサイトによりますと、幼虫は「地衣類」を食べるそうです。
5月25日
ウズラカメムシが交尾していました。
線路の柵の中。手を思いっきり伸ばしての撮影。
強い風に揺れる草の上の被写体は難しい。
しゃがむのは辛いので、地面に座り込んで撮りました。
ライブ・ビューという機能もあって、カメラの背面のモニターを見ながらの撮影も可能なのですが、これは一般的な撮影向き。マクロで、対象が小さなものを撮るにはやはりファインダーでフォーカシング・スポットをきちっと被写体に当てなければなりません。腕の先のカメラのファインダーの中に見えるフォーカシング・スポットをなんとかウズラカメムシに当たるようにしてやっと撮りました。
いいわけ先行。
で、ぶれてます。
これが限度。
ウズラカメムシというカメムシ自体、最近知ったものです。
ただ飛来したのではなく、繁殖しているのですね、このあたりで。
節度ある繁殖をして下さい!とまぁ、お願いをして、喜んでいる私です。
イネ科の植物を好むようですよ。
5月25日
桜桃の葉の付け根にある「ぽっち」です。
風の強い日でぶれてしまいましたが、状況はお分かりになると思います。
ハエがとまって、蜜腺をなめているのです。
よくアリが立ち止まって蜜腺を舐めていくのは見かけますが、ハエが舐めているのは初めて見ました。
確かに、蜜が出ているのですね。
なんで?
葉の付け根のこんな所から蜜を出すことにどういうメリットがあるんだろう?
以前、桜の葉の蜜腺をブログに書いたことがあって
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-87f7.html
ここでもやっぱりこういう疑問を書いていました。
で、一応の答えを得ていながら、もう忘れていました。
http://had0.big.ous.ac.jp/thema/nectary/nectary.htm
ここによりますと、アリを呼んでいるのだろうとのことです。
アリを呼んで、寄生者の卵や、幼虫を運び去ってもらうというメリットがあるのだそうです。
そうなんだぁ。
ということは、冒頭の写真のようにハエがやってきて蜜をなめるということは、本来の目的ではないのですね。
まあ、いいさ、ハエは舐めるだけだもんな。葉を齧りはしない。
寄生虫で気を悪くなさった方のために。
カワセミ・バッグ。
カワセミとメジロのピンバッジ。
こっちは目黒自然教育園の鳥グッズ。
ここは、国立科学博物館の附属施設なんですが、ユニークなんですよ。
庭園として管理してはいない。
自然の遷移にまかせているんですね。
虫好きなんかにはたまりませんね。もう、先へ進めないほどです。
http://www.ins.kahaku.go.jp/
科学博物館のサイトですが、ここに「Virtual Garden」へのリンクがあります。
ぜひ、散策を楽しんでください。
ところで、また、上の写真。
これも、また娘からのプレゼントなのでした。
「日々是虫之日」を過ごす父はにこにこしています。
Neodactylodiscus latimeris といいます。
シーラカンスの寄生虫です。
解説です。
実物は1mmですって。
ほとんどすべての動物には寄生者がいるのです。シーラカンスにもいたんだ。
寄生という生き方も動物として非常に古いもののようですね。
で、前の記事でアブラムシに寄生するアブラバチの話を書きましたし、少し前には羽化したアブラバチもお目にかけましたので、いいタイミングかな、とご紹介しました。
寄生とは言い難いかもしれませんが、私たち動物も植物も細胞内に「ミトコンドリア」があります。これは真核細胞の先祖が外部から取り込んで共生し、あるいはさらに遺伝子のかなりの部分を奪って細胞内器官にしたものともいいます。
さらに、一部の細胞は光合成細菌を取り込んで「葉緑体」にして、動物の系統とは分岐していったのですね。
「パラサイトイブ」というSFがヒットしましたから「パラサイト」という言葉も結構知られていると思います。
さて、もう一回冒頭の写真を見てください。
「Meguro Parasitological Museum」とありますね。
目黒寄生虫博物館です。
実はこれ、目黒寄生虫博物館の「寄生虫グッズ」の一つの「Tシャツ」なんですね。
どこかで寄生虫Tシャツ着た初老の男を見かけたら、私かもしれません。よろしく。
どうしたの?
いえ、娘からのバースデー・プレゼント。
夫婦といい、親子といい、かかしさんちは変わってて楽しいですね。
5月22日
我が家のツバキを塀の外から眺めていたら、エッ、アオダイショウじゃん!
視界に入っていたはずなのですが、気づくのが遅れた。
ちょうど私の背丈くらいの高さから、こっちを眺めているのと目があってしまった。
この場を離れたら多分確実に見失いますので、携帯電話で家の中の妻に「ヘビがいるぞォ」と電話。「すぐいく」と妻が駆けつけてきました。
我が家では何年かおきに時々、アオダイショウを見かけてはいるのです。
子どものアオダイショウを妻が捕虫網で捕まえてきたこともあります。色は茶色いし、マムシに擬態した姿にはちょっとドキッとしたこともあります。
今回は、太陽輝く真昼間、目の前です。
実はこの写真、崩彦俳歌倉で先日チラッと載っていますが、経緯は書きませんでしたね。
いい顔つきですねぇ。
首をS字型に曲げていますから、興奮させるとシュッと脅しにくるかもしれない。
おだやかに、おだやかに。
向こうにとってだって、ネズミじゃあるまいし、どでかい生き物と対面してしまったのですから警戒しています。
瞳が丸いですね。
先日白山神社でヤモリと出会った写真では、瞳は縦長でした。
マムシの瞳も縦長ときいております。
だんだん、気づかれないような速さで後退しています。
そっと逃げる気ですね。
妻はと見れば、直角になった塀の別の面に行って、「思ったより長いわねぇ」と言っております。
なんだ?と思って行ってみれば
角をまがったところから覗くと、こんなふう。
腹が見えるのですね。
正確なことは分かりませんが、おそらく2m弱はあるのではないかな。
腹の鱗が真珠色。美しい。
あまり刺激するのはかわいそう、と、そっと引きあげました。
かかしさん夫婦のテリトリーで生活している分には安泰ですが、他所へ行くなよ。騒ぎになって下手すると駆除されちゃうぞ、という恐れあり。
ヒキガエル、ヘビ、ネコ、いろいろ庭を駆け回っていますが、どうなるんでしょうね。
昔は、アオダイショウはネズミを退治してくれるので、大切にしたと言います。
この頃ではどうも、人の側のゆとりがなくなってアオダイショウも生きづらいことでしょう。
ゆっくり静かに生きてください。
2010.5.31付 朝日俳壇より
三つまで数へ春眠へと落ちぬ:(東京都)丹羽ひろ子
稲畑汀子 評:春眠暁を覚えず。一寸横になり三つ数えただけで眠ってしまった。
「春眠暁を覚えず」を「春は眠い季節だ」ととらえて、簡単に寝入ってしまった、という評ですが。違和感あり。
「春眠暁を覚えず」は「覚める」方についての話なのだと感じております。
「暁を覚えず」まで引いてしまうから、違和感になるのではないでしょうか。
冬の冷たい布団に身を固くして潜り込むのとは違って、気温もゆるやかになってきて、体も開けて気持ち良い「春の眠り」。つい心地よく、「墜落するが如くに」眠入ってしまったことよ。
のような気がいたしますが。
赤ちゃんや幼子は、つい今まで活発にあばれていたのが、一瞬にして熟睡に落ち込みますよね。あれ、大人としてはうらやましい。墜落睡眠というのかな。
大人になってから、墜落的な睡眠を経験できるのは、「贅沢」なことですね。うらやましい。
◆私的経験
勤務環境が変わった4月。50代の初め。布団の上に、あ~疲れた、とひっくり返って背を伸ばし、グイと起きあがった。連続動作のつもりだったのですが、時計を見たら30分くらいかなぁ、時間が経過している。体の中には「眠っていた」という感覚が全くない。普通寝ざめの感覚ってありますよね、あれがない。
なんだったんだ?異様な気分になりました。まるっきり心地よくない。不快。意識できないほどの睡眠への墜落と寝ざめ。自分というものが失われてしまうような恐怖のほうが強かった。
あんな経験はその時一回きりです。今でも思い出すと妙な気分です。
2010.5.31付 朝日俳壇より
かしわもち葉つぱの中でねむつてる:(生駒市)鳥山貴弘
金子兜太 評:鳥山氏は少年。柏餅は仲間の少年。
{長谷川櫂氏も選んでおられます}
よくわからないのです。金子氏の評が。
そうなんですか?
としたとき、その「仲間の少年」は布団にくるまっている、ということですか?情景が浮かばなくって。
単純に、柏餅を眺めていたら、餅が布団にくるまって寝ているように見えてきた、でよくはないでしょうか。
わからなくって。
2010.5.31付 朝日俳壇より
子のようにでんぐり返り春の部屋:(松江市)谷敷妙子
開放感を感じますね。気分がよかったのでしょう。
老爺心で余計な事を申し上げますが、あまりでんぐり返しなどを元気よくしない方がよろしくはないか、なぁ。
子どものころと違い、めまいを起こしやすいし、体が硬くて背を打ったり、勢い余って腰打ったり。いてててて、では済まなくなることもございます。(寝たきりになってしまったり)。
部屋が広々と暖かくて気持ちよいのでしたら、大の字寝をお勧めいたします。
2010.5.31付 朝日俳壇より
蜘蛛の囲に腹立て一人笑へりき:(大和高田市)布谷充啓
蜘蛛の囲を払ひて悔いの残りけり:(野田市)塩野谷慎吾
眼鏡に蜘蛛の巣がプリントされてしまって笑ったことはありますね。きれいだった。
クモの網の位置が邪魔な場合は、気づいてさえいれば、クモ本体の位置を確認してから、網を部分的に壊します。修復することもあれば、移動することもある。
クモさんの都合を訊いてみましょう。
ところで、「蜘蛛の囲」は夏の季語ということになっているようですが、立夏を過ぎていますから、俳句的には構わないのですが、大田区南部の私の家としては、網を張るタイプのクモたちはまだ小さくて、大型の網を張るところまでは成長しておりません。
夏とはいえ、秋も近い晩夏ならば、雄大なクモも見られることでしょう。(去年は、セミがオニグモの網にかかったのを見ましたっけ。)
この言葉、暑さ、熱気にふさわしいのではないか、というのがこの地に暮らしていての感想です。
2010.5.31付 朝日歌壇より
この世から俺が消えても頼れよとある朝あなたはわらって言った:(高槻市)門田照子
永田和宏 評:夫は亡くなったのか。だとしたら、その口調の明るさは無情に悲しい。
2008/08/04
ひいふうみい螢の数を数えてるあなたのいない二百夜ののち
こういう歌も作者から投稿されておりました。
2010.5.31付 朝日歌壇より
ビニールをついばむ雀、やめなさい。君には医者がいないじゃないか:(東京都)無京水彦
この歌、面白いスタイルですね。納得してしまう。
死んで打ち上げられたウミガメの胃から、ビニールやプラスチックのペレットなど、「ヒトの悪業」がたくさん出てくるといいます。
ヒトがつくった変なもの食べちゃダメだよ。
2010.5.31付 朝日歌壇より
かみつかれ動きのとまるメダカの子おのが命をヤゴに引き継ぐ:(浦安市)島戸一臣
イトトンボのヤゴの話を書いた時に、我が家の池では、ヤゴの餌としてメダカを飼っている、と書いたと思います。
どちらに視点があるかですね。
作者はメダカの方に感情を移入している。
私の場合だと、ヤゴに感情を移入しがちですから、おいしそうなメダカ、ヤゴを食べるなよ、となってしまいます。
小さな池の小さな生態系ですが、それなりにバランスはとれます。
命というのはここの生物のものであると同時に、生態系全体のものでもあるのです。
2010.5.31付 朝日歌壇より
増えていく薬のmgに脅えつつ壊れゆく心を遠くで見ており:(大阪市)浅生有記
認知症?親?配偶者?
余計なことを一言。「mg」は「ミリグラム」。質量の単位です。1000分の1グラムが「1mg」です。
2010.5.31付 朝日歌壇より
研ぎたての刃はやわらかに玉葱の真白をぬけて淡き透明:(京都市)八重樫妙子
高野公彦 評:研ぎ上げた刃の美しさと鋭さ。
玉葱を切るにはサクッと抵抗感もなく。
刃に指で触れれば研ぎたて独特の「ひっかかり感」。
一瞬、ためいきのでるような瞬間でしょう。
◆思い出。
昔、包丁をよく研ぎました。やりすぎましてね。薄く鋭く、研ぎ過ぎた。
あんたねぇ、こんな研ぎ方したらトマトの皮で刃がめくれちゃうじゃないの、と叱られた。
あんまり薄くしてはいけないんですね、包丁は。以来研ぎ方を変えましたが。
製図器も研ぐんですよ。油砥石というものでね。凝りましたねぇ。メス、ハサミ、肥後の守、安い鉛筆削りの片羽の替刃、なんでも研いでみた。
思春期のひと駒。結構、暗いでしょ。
2010.5.31付 朝日歌壇より
再婚をしてもいいよと妻に言う もう苦労したくないよと笑う:(岡山市)小林道夫
高野公彦 評:注に「癌再発」とある。さりげない会話に深い悲しみがひそむ。
永田和宏 評:自らの癌の再発、その文脈の中で読めば、お互いの軽口の応酬はまったく別の切実さをもって迫ってこよう。
これは、両選者の評で言い尽くされていますね。
年月を共に重ねた夫婦、というものです。
2009/01/19
癌の手術控え髪切り帰り来ぬ冬陽いっぱい死ぬなよ死ぬな
2009/02/16
病期ⅢAスタンプ押され外に出る胃の腑病院に残したるまま
2010/04/05
ひそやかに位牌伴う船旅と海に入りゆく夕陽見て言う
2010.5.31付 朝日歌壇より
夜の底を風に転げる空き缶の音がいつしか私となる:(福島市)美原凍子
高野公彦 評:闇の底を転げ回る空き缶の音を聞いているうち、心が空き缶と共にさまよう。人生の寂寥感がにじみ出てくる歌。
「心が空き缶と共にさまよう」だけではないのではないかなぁ。
作者自身の人生が、思いもかけぬ方向へ、転変してきた。
それを思って、自分と空き缶の音を重ねて感じておられるのではないでしょうか。
2010.5.31付 朝日歌壇より
その人の一言だけで私が変わる体育館の中吹く風さやか:(東京都)小椋洋子
空気が張り詰めているのだと思います。心が高鳴っているのだと思います。
体育館の中って風の少ない空間ですよね。「さやか」の意味がわからないまま、ドキドキと読ませてもらいました。
張りつめて動きのなかった空気のなかに、すっと一吹き、風が吹き抜けていきましたか?
どのように変わられましたか?
2010.5.31付 朝日歌壇より
サル鳴きの真似する子らに尻向けて木に手ながザルぶら下がる午後:(東京都)
子らは善意なんです。動物や虫などと、ファンタジックにつながりあえると思っている。だから、大声で読んでみたり、音を立てて注意を引こうとしたりします。
これが、正直、犬猫以外の動物では通用しない。(いや、猫も幼い子は苦手だな、何されるかわからないから。)
虫さんも善意で接すれば遊んでくれると思ったり。
まぁ、仕方ないか、そうやってだんだんと学ぶのですからね。
相手を興奮させない。あたりの環境のようになってとけ込んで静かに接する。
そういう接し方を学ぶには、それなりに相手に負担もかけなきゃならないな。
サルはね、ある意味では、仲間だから。あいつらうるさい、とか思ってこっちを無視するすべも知っているでしょう。
サル山などにいくと、あまりに人間的で、辛くなります。
私らサルだものなぁ。
2010.5.31付 朝日歌壇より
砂浜がもっと広くて白かった頃には亀の卵食べたよ:(浜松市)桑原元義
いえ、歌の鑑賞ではありませんで、スミマセン。
個人的な話。
私の母の実家は海のそば。白神山地が海に迫るところなんですが、昔、銅の鉱山があって、精錬所があったのですね。そこから出る廃棄物が真っ黒な塊で。その塊が波で砕けて、この鉱山の周辺の海岸は黒い砂浜なんです。砂粒も粗くて払えばぱらぱら落ちる、かけらですので尖っていて皮膚に軽く刺さる、そういう砂でした。
小学校1年生。海の絵を描いたところ、私は浜を真っ黒に塗った。で、先生がビックリして、母を呼び、心理的に何か抱えているものがあるのではないか、などとおっしゃったらしい。
母は慌てて、実家から黒い砂を送ってもらい、学校へ見せに行ったそうです。この子は砂浜と言えばこの黒い砂の浜しか知らないのです、と。
よく笑いながら聞かされたものです。
実際、私が白砂青松というのをしたのはずっと後のこと。砂って白いんだぁ、粒が細かくてべたべた貼り着いて気持ち悪いものなんだなぁ、と思ったのでした。
時を経て、母が亡くなった時、母の実家の黒い砂が私の手元にありましたので、母の遺骨のごく一部を黒い砂と共に三浦半島の海岸へ流してもらいました。私は動けるたちではないので、孫全員が一緒に出かけて行って、海へ灰をまいてきてくれたのでした。
心が広々としました。母は狭い暗い墓の石の下なんかに閉じこめられてはいない。
地球に遍在となった。
すべての海はつながっています。
母は地球にあまねく解き放たれた、と感じて心が軽くなりました。
2010.5.31付 朝日歌壇より
抱卵の番のトキはたまご捨つ野にただならぬ決断がある:(浜松市)松井惠
馬場あき子 評:下句がすごい。
それは人の思い入れ。
無精卵を捨てるのは鳥の普通の行動。
何にせよ、日本のトキは既に絶滅しました。
今、騒いでいるのは中国からきたトキ。
私に言わせれば騒ぎ過ぎ。お米のブランドにしてみたり。
そういう騒ぎ方が生物の多様性を損なうんです、っ!
もし、多少繁殖ができるようになったとしても、遺伝子の多様性が少ない。
「種」としての生命力はそうそう回復できるものではない。
ヒトの生き方を見直さなければ何も始まらないでしょう。
ヒトに百年の未来はありますか?
2010.5.31付 朝日歌壇より
司会者が無常を巧みに語るのを葬儀の前に袈裟つけて聞く:(三原市)岡田独甫
馬場あき子 評:作者は僧侶だが、司会者の雄弁に「おや」と聞き入っている様子がこれまた面白い。
ここもまた、「雄弁」ととることはない、と思うのですが。
結婚式の司会じゃあるまいし、それなりにしっとりと司会するのではないですか。
岡田氏はひょうひょうたる和尚さん、と歌から推察しております。ですから、きっと参会者の心に柔らかく沁み入るお話をなさることでしょう。
でも、一般的に言って、日本の職業僧侶の法話などというものはほとんど聞くには値しない。
むしろ、職業として人の死や遺族の悲しみに常に接し続けている「葬儀屋さん」の方が、人の命の無常について深く心得ているのではないかとも思えます。
失礼しました。
2010.5.31付 朝日歌壇より
ゲルマンの婿と地酒を酌み交す三晩泊まりて孫連れ帰る:(長野県)沓掛喜久男
馬場あき子 評:ドイツ人と結婚した娘一家が泊まりに来た場面。三日三晩の多少異常な食卓が想像されて楽しい。
「異常」という表現はないと思うなぁ。何が?
人の取り合わせは全く素直なことだし。
食事?和食を供して地酒を飲んだのでしょ、異常じゃないですよ。
言葉の問題などあって、娘さんが通訳してくれながらの三晩。
いや、けっこう疲れたな、いい奴だった。
ですよね。
多彩で賑やかな食卓だったと想像します。
◆毎週のようにプールで泳いでいると、フランス人のお父さんと日本人のお母さんと人形みたいな女の子、とか、結構、国際的な親子と会うんですよ。
フランス語や英語や日本語が更衣室でごちゃ混ぜに聞こえてきて楽しいものです。子は相手によって全く自然に言語を使い分けていますしね。これがバイリンガルというものか、と感心しながら聞いております。
5月22日
分からないものを見てしまった。
写真の上にマウスカーソルを持ってくると、写真のファイル名が出ませんか?
「 0522_6kamemusi_ 」となっていますでしょ。
実はてっきり、カメムシの仲間だと思ったのです。でも、変だしなぁ、というのでファイル名に「?」をつけたいのですが、半角で「?」をつけてしまうとOSのルール違反になるのでつけられないのですね。で、「 ? 」の代わりに「 _ 」を付けてあるのです。私は古い人なので「アンダー・スコア under score 」とよんでいる記号です。「?」キーの隣にあるはずです。C言語を知っている方はきっとなじみのある記号だと思います。
さて、今回アップロードするにあたり、もう一回ぼんやりじっくり眺めていたら、グンバイムシかもしれないなぁ、と思いなおして検索してみました。
いましたいました。ヤブガラシグンバイでした。
名前からするときっとヤブガラシによくいるのでしょうね。
でも、アワダチソウグンバイをいつもヒマワリで見ていましたから、名前にこだわることもないでしょう。
5月27日
またもや、ヤブガラシではない場所で、見かけました。
触覚が両方ともちゃんとしています。
小さい虫に深入りするとぬけられなくなりますねぇ。
分かりやすい連中との付き合いでいいやぁ。普通種で毎日挨拶を交わすような虫が好きですねぇ、気楽でいい。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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