転んだって
◆2010年5月24日付の朝日新聞朝刊に「転んだって起きあがればいい」という記事がありました。
パラリンピック大会でスキーのコーチや監督を務めた新井さんという方のお話しです。
・・・
カーブでよろける○○君に大声で叫んだ。
「大丈夫! 1度くらい転んだってへっちゃらだから」
転んだって起きあがればいい――。それは、これまで選手たちが教えてくれたことでもある。
・・・
そう、この言葉は、おそらく多くの途中障害者の方にとっては強い励ましになるでしょう。
なんで自分が、なんで今、と悩むはずです。
障害者になってしまった、もう今までのようなことはできなくなってしまったのだ。私の人生は挫折してしまったのだ。と。
一度転んだからってそれがなんだ!転んだら起きあがればいい。
そうなんだ、起きあがればいいんだ、という意志をかきたててくれる言葉だと思います。
パラリンピックを見ていると、そういう感覚がひしひしと伝わってきます。
すごいです、確かに。
何ができて、何ができないのか。それは探りださなければなりません。
何もできなくなってしまったわけではないのですから。
ただね「障害者になったって、なんでもできるんだ」みたいに励ましてはほしくないのですね。
だってできないことはできないのですから。あたりまえのことでしょ。
できなくなってしまったことは確かにある。でもすべてを失ったわけではない。何が自分にはできるのか、甘えることなく限界に挑む、できることとできないことの境い目を探しに行く、これは大事なことです。
さて、私も下肢障害者。大分年齢を重ねてものの見方が多面的になってきています。
そして、そもそもがへそ曲がりな男。
「転んだって起きあがればいい」なんて頑張らなくっていいよ。それって、起きあがった状態を「よし」とする価値観に支えられているんでしょ。起きあがった状態という比喩は「健常者の価値」ではないのですか?
やはりどこかで、健常を価値と見て、障害を低く見ていませんか?
「転んだら寝転がってていいよ。そこからの視線でものを見るとどう見えるのかな?そこから空を見るとどんなふうに見えるのかな?」と問いかけたい。きっと素晴らしいものが見えるよ。だって、いつだって空が見えるんだから。
「せっかく障害者になれたのだから」、健常者の「競う」という価値観に縛られなくったっていいじゃないですか。のびのび。解放されていいものですよ。「競う」などということには大した価値なんてないのですから。頑張らない、競わない、あるがままにあればいい。
パラリンピックでいえば、出場者全員が金メダルでいいのではないですか?なんで競っているのですか?と問いたいのです。
人生の出だしで「転んじゃった」私ですからこんなことがいえるのかもしれません。
「立ち上がることはないよ」「転がったまま世界を見る目を養いましょうよ」とね。
それはすばらしいことなんです。気づいてほしいことです。
◆ところで、この記事の中に
ストック1本で健常者の大会に出場する片腕の少年。幼い頃、祖父の運転するコンバインに左腕を巻き込まれた。
「パラリンピックを目指しませんか」。そう話すと両親は首を振った。「障害者と認めたら、祖父に負い目を与えてしまう」。
こんな記述があるのですね。孫を自分のせいで事故にあわせてしまったという負い目はもちろんわかります。でも、「障害者と認めたら」というところに引っかかってしまうんですね。
やはりこの感覚は、障害者を一段低く見る視線のあらわれですね。
私は満1歳の直前にポリオに罹患しました。
父はどうも、障害者ということに引け目を感じるタイプで、なにか特別なことが起ったら奇跡的に治るんじゃないか、というような幻想を長く捨てられずにいたようです。
母はそんなことを考えていたら、この子は人生を誤る、とシビアに考えていたようです。もし障害者でなかったらなどという幻想に甘えてはいけない、現実から目をそらさず直視して、真っすぐ生きてほしい、という感性の人でした。
私が持っている障害者手帳は7歳の夏に取得したものです。小学校1年生ですね。
自分が障害者であることをきちんと認識して生きていけ、という「後押しポン」だったように思います。強い人でした。
健常者といい、障害者といい、何が違うんですか?
それぞれがいろいろの能力を持つ「人間」じゃないですか。
なぜ「分け隔てる」必要があるんですか?
分け隔てているのは誰ですか?
通常には健常者と言われる側の人たちが分け隔てているのではありませんか?
「障害」(という概念)を持っているのは健常者の側でしょ。
果たしてどちらが「障害者」なんですか?
いろいろな人間がいて、みんなそれぞれ違っていて、それでいい、のではありませんか?
健常者の中に潜む「障害」というバリアを低くして下さい。
それが「合理的配慮」というものです。
差別と言う「言葉」で議論し始めるとややこしい。
生きやすくなるよう、互いに配慮しましょうよ。
でも、少しだけ余力の多い健常者の側がたくさん配慮すべきですよね。
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いつも障害についてのお話を、そうそう、と思いながら読ませていただいています。
程度の差があって、いろんな人がいろんな障害を持っていて、外から分からない場合もあります。
誰もがそれぞれの良い状態で暮らせる社会であって欲しいですね。
特別暮らしにくい状況にある場合には、それが少しでも楽になるような仕組みは絶対必要ですが、なにより全ての人の心のあり方ですね。
私は競争は好きではありませんが、競争が好きな人っていますね。
それが励みになる人がかなりの数いらっしゃるんだなと感じます。
みんなそれぞれ、自分にとって大事なことが違うんですね。
投稿: | 2010年5月26日 (水) 18時34分
円満な人格とはいいがたい私のことですから、かなり挑発的な言い方をします。
「先駆者とは過激なものである」なんて粋がっても、先駆者でも何でもないのですけれど。
言葉に込めた衝撃力で生徒に思索を惹き起したい、という教師としてのスタイルからぬけられないのでしょう。
お読みいただいてありがとうございます。これからも、勝手をほざきますので、笑ってください。
投稿: かかし | 2010年5月27日 (木) 09時57分
すみません、コメント私です。
いつも自動的に入るのでうっかりして、違うPCから書いたら名前が入らないまま送信されてました。失礼しました。
かかしさんとは好む物や考え方感じ方がかなり近いので、気持ちよく読ませて頂いてます。
これからも楽しみにしていますので、よろしく。
投稿: 花と虫 | 2010年5月27日 (木) 16時13分