視線
2010.2.1付 朝日歌壇より
どの程度やるんだろうという子等の視線浴びつつ授業始める:(豊橋市)鈴木昌宏
子の年齢はどのくらいなのか、どういうシチュエーションなのか、いまひとつ読み切れません。
新年度ではない。
異動でもない。
臨時に講師を引き受けたか。
教育実習?
若い人なら、この視線に自分を見極めようと迫ってくる圧力を感じているかもしれない。
ベテランなら、この視線が楽しくって仕方ない。
教師冥利というのは、子らと自分の視線が絡み合って、「授業」を紡ぎだしてゆく、その時間の流れにあるのです。
これ、病みつき。
◆ところで、わたくし、かかしの「理科支援員」今週で終了しました。
5年、6年。どんな人が来るのかな?という視線をいっぱい浴びて、たのしかったですよぉ。
こういう立場は、食事に例えれば「レストランの味」。おいしい!と思うんですが、毎日続けて食べられるものではない。濃すぎる。
担任の授業は、「家庭の味」。薄味でつまんないようでいて、結局、大事な栄養はみんなそこから得るのです。
よく授業名人に来てもらって、授業の技法を研修する、なんていうのが、はやりのようですけれど、あれはマユツバ。
やるんなら、1年間続けておやりなさいって。そういうなかで、本当の授業の味が出てくるんです。レストランの味を出前したって、誰でも「おいしい」とはいうけれど、それだけのもの。
私も、レストランの味を出前してきました。喜んではもらえましたけどね。
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