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2010年2月 5日 (金)

哀しい

2010.2.1付 朝日歌壇より
我が身より重症の人を見る吾が目なんて卑しいなんて哀しい:(京都市)歌代房江
 永田和宏 評:歌いにくい微妙な心理をあからさまに歌った。卑しいと哀しいにこもごも思いが深い。

病院に行くと妙なことが起こります。なんだか、病気の重さ比べをなさっているような。私の方が重い、ということが「偉い」ことだったり。

この歌はそういうシーンではありませんね。もっと深刻。
「差別」ということの根幹ともかかわるものでしょう。
私は左足が不自由な身体障害者ですが、自分の中に「差別感覚」があることを否定できません。自分が、小中高大と健常者の中でもまれながら育ち学んできたことを、よかった、と思ってしまいます。
他の障害の方を、理解しきれてはいません。
差別されるものは差別しない、というのはうそです。

病者は病者を理解し、差別しない、というのもおそらくうそです。
逆に、同病だからといって、相互によく理解できるとも思っていません。うそでしょう。
たまたま同じ病であるから、そのことだけで互いに理解しあえるなんてうそでしょう。
病気を抜きにした、人間としての生き方の根本からでないと、理解なんて成立しないでしょう。
「患者会」のようなものを全然信用していません。
「障害者の会」も息苦しい。

朝日新聞の読者投稿欄「声」に中学生が投書していました。
小学校のいじめの時に、先生が「いじめられている人よりも、いじめている人の方が可哀想なんだよ。心に病気を持っている。いじめている間、つらいと思う」とおっしゃったのだそうです。

私も幼い頃、周囲の人が差別語をかけてきたり、歩き方を真似する人がいたりすると、母親が、「お前は足が悪いだけ。あの人たちは心が病気で、かわいそうなんだよ」と教えてくれました。幼い頃はその言葉は有難かったのですが、やがて思春期。
高校生くらいですか、「障害があるからこそ」という逆転へ向けて成長していた頃、かなぁ。
この考え方には実は「差別が入っている」と思ってしまいました。
病気や障害を低く見る視線を「反射」させただけのように思えます。決して、差別をなくす表現ではない。
以来、こういう言い方はしなくなりました。でも、私の中に差別感情があることは確かなんです。

差別って、心の中に何層にも重なりあってあるのです。
それを自覚することからしか何も始まらないのです。

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