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2010年2月 3日 (水)

立春

2010.2.1付 恋する大人の短歌教室より
応募作
立春はあなたの二十三回忌米寿のわたしを迎えに来てね:茨城 久保志津

 今週の木曜日は、もう立春。暦の上での春が到来するわけですが、よくしたもので、この頃から春の気配がちらほら感じられるようになりますよね。心楽しい季節の始まりです。しかし作者にとっては、立春は哀しみの日でもあります。最愛の人の命日なのですから。しかも、今年は二十三回忌。米寿を迎えた作者は、来世から迎えに来てほしいと詠います。哀切な内容ですが、「立春」と「米寿」の二語のめでたさと、結句の間投助詞「ね」のかわいらしさとで、明るい一首になりました。明るさの背後にしみじみとした哀しみがあり、その奥に深い愛情が存在するという三層構造が、実に魅力的です。
 直すところは特にありませんが、別の案を考えてみましょう。第一句の助詞ですが、立春が命日だということが、係助詞「は」だと既知の事実、格助詞「が」だと新鮮な話題、といった感じになります。後者だと、立春が主語の立場を強く主張しますね。第三句の後に一字空きを入れるのも、ひとつの手です。(石井辰彦)

添削後
立春があなたの二十三回忌 米寿のわたしを迎えに来てね
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 どうしても何か直さなければ「短歌教室」にならないとお考えのようです。
添削の不要な、完成度の高い作品はそのまま掲載されたらよろしいのに。

「『が』だと新鮮な話題、といった感じ」と書いておられます。

「立春があなたの命日だなんて、なんというめぐりあわせでしょう。春が兆す嬉しい日のはずなのに」といった感じかなぁ。「新鮮」ですって?。そんなこと、今、気づいたわけじゃなし。かえって弾んだような語感が生まれて、響きがおかしくなりますよ。やめた方がいいと私は思います。

「春が兆す立春は嬉しいけれど、あなたの命日なのよね、不思議なものよね」と「毎年のことだけど、いまさらながらに(=既知の事実)」と慨嘆が含まれます。その方がいいと思いますよ。

短歌教室は添削教室とイコールではないでしょう。鑑賞し、そのまま掲載してほめるのも「人を育てる」仕事になるのではないですか?
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 ところで石井氏は、「もう立春。暦の上での春が到来するわけですが、よくしたもので、この頃から春の気配がちらほら感じられるようになりますよね」と書いておられます。
 この書き方から推察するに、「立春」とは、旧暦、太陰暦に属するものだ、だから新暦では1カ月ほど遅いところに相当する。こうお考えのように見受けられます。

 七夕は普通新暦の7月7日に行うようになりましたが、このころは、梅雨が明けていない頃。星を見るのは苦しい頃です。
 旧暦7月7日なら、今年の場合新暦8月16日ですので、星空も美しい頃です。立秋も過ぎていますから「秋」なのです。
 旧盆とか、中秋の名月とか、「ひと月遅れ」という感じで、「立春」もとらえておられるのではないかな。
そうすると、3月初めが本当の「春が立つ」で季節が合う、とか感じているのではないでしょうか?
「よくしたもので」というのは、本当はまだまだ冬なのに、多少は春めいてくる、という表現でしょう。

 私はこのブログで何度も書いていますが、二十四節気というのは太陽の運行を示すもので、旧暦は月に基づいていて季節が暦とずれるので、それを太陽の運行に合わせて季節がずれないようにする「太陽のこよみ」なんですよ、と言い続けています。
ですから、太陽暦と、二十四節気とはずれないんです!
また、少し前にも書きましたように、日照量が一番減る冬至からすでに太陽は45度進み、日本中どこでも立春の頃には、平年気温の谷底を脱して、少しずつ気温が上がり始めるのです。
まさに「暦通りに」季節は胎動を始めたのです。

歌人・俳人の方々は季節感には敏感なはず。
もう少し、暦の仕組みにも敏感になって欲しいものですね。

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