襷(たすき)
2010.2.7付 朝日歌壇より
一年一区生命の襷(たすき)つなぎ来て今年七十八区走る:(東京都)北條忠政
高野公彦 評:人生を駅伝になぞらえて自分を励ましているのだろう。
ユニークなたとえを発見されました。納得です。
◆私は、障害者なものですから、こんなことも思います。
「思考・思想の身体規定性」
両手のない障害者にとって、「抱きしめる」という言葉がはらむ概念は、両手のある人の概念と同じでありうるだろうか。
てのひらに愛するものの体温を感じることはない。
左足が不自由な私にとって、「走る」という概念は欠如している。身体が自らの力で「高速で移動する」という経験はない。
おそらくは「座る」「立ち上がる」という言葉で何げなく表現してしまうものも、健常者と完全に重なりあうことはない。
突き詰めれば、言葉によって成立しているつもりのコミュニケーションは、すべて誤解の上に成立しているのではないか。健常者同士でも。
私には自分の人生を駅伝にたとえることはできないようです。そのたとえを理解することはできるつもりですが。
人生とは、とぼとぼと、つえをつきながら、一歩ずつ、歩むもののようです。
◆理数系の学習で「たすきがけ」というものがあります。
A B
C D
4つの項があるときに、A×D、C×Bこういう掛け算をすることを「たすきがけ」というのですが、いかんせん、生徒はもう、「たすき」を知らない。背中から見ると「×」になっているなんて姿を見たことがない。「対角線掛け算」とでもいわなければならなくなったようですね。
◆ある高校で、体育祭で応援団が活動していました。あるとき、男女何人かが紐を持って、理科準備室にやって来て、たすきのかけ方を教えてほしいというのですね。
紐の一端を「口にくわえる」
右手で紐をもち、前から左わきの下を通して背中へ行き、右片を一回りして、後ろから右脇の下を通って紐を前へ。口にくわえていた一端と結ぶ。
キリッとね。
キリリっとした若者が出来上がりましたよ。
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