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2010.2.22付 朝日俳壇より
鶯餅二つ並べば二人めく:(船橋市)笈川夜白
人間のパターン認識って本当に不思議なものなんですよね。
円のなかに点が二つあれば「顔」に見える。
物が二つ並ぶと「カップル」「連れ添う二人」に見える。
自動的にそう認識する自分の心。それをまた、妙に客観視する自分自身。
幼い子どもが、「ままごと」遊びなどするときの、「見立て」もその原型として実に面白いものです。人間の認識能力の仕組みを垣間見る「窓」です。
自分自身を観察してみませんか?面白いですよ。
2010.2.22付 朝日俳壇より
箱の中小さき靴も春を待つ:(佐賀市)吉田キミ子
かわいいですね。は~るよこい、は~やくこい、あ~るきはじめたみいちゃんが♪でしたか。
昔、友人に赤ちゃんが生まれたりすると、妻がよく「靴」をつくってプレゼントしていました。
フェルトをパステルカラーに染めて、小さな靴を作るのです。実用品じゃありません。
見ていると「くっく」というしかない可愛らしさに、思わず笑ってしまう、という品物。
歩く前の赤ちゃんに履かせて楽しむものでした。
考えてみれば、2本の足で立ち歩くなんて、奇跡的なことだと思いませんか?
この不安定さ。
でも、ちゃんと歩くんだよなぁ。
初めて2,3歩、あっ歩いたと思うと、ぐんぐん歩き方が上達する。
重たい頭で不安定で、はらはらしますが、ちゃんと歩いて、そのうち走る。
観察して下さい。これは奇跡的なことですから。
2010.2.22付 朝日俳壇より
流し雛流しさつさと帰りけり:(武蔵野市)水野季村
長谷川櫂 評:後ろ髪を引かれながら流されていくお雛さま。だからこそ、さっさと帰るのだ。これが俳句。
どうも、評がよくわからない。「これが俳句」といわれてもなぁ。
流し雛というのは雛祭りの原型でしょ。災厄を祓うために人形(ひとがた)を身代にして川に流す習慣だったのですよね。
今のような、愛着こもる「雛人形」じゃないのですからして。
「後ろ髪を引かれながら流されていくお雛さま」なんですか?
人形(ひとがた)を流し、厄を払い、さようなら・ありがとう、と挨拶を送って帰る。
愛着を持って、川の流れに沿って追いかけていくようなものじゃありますまい?
そこで、「切れる」からこそ、厄払いなのではありませんか?
これが「俳味」なのですか?よくわからない。
2010.2.22付 朝日俳壇より
紅梅の蕾は少し酔うてをり:(相模原市)児島英
長谷川櫂 評:薄紅梅か濃紅梅か、玉のようにふくらんだ莟。酒の香ならぬ花の香をふくいくと漂わせて。
酔芙蓉というのもありますからね。
評の「酒の香ならぬ」という言葉は不要な気がします。ここに文字として表れてしまったために、具体的な「酒の匂い」をイメージせざるを得ない。それはなんだか現実的過ぎて「生臭い」。
「玉のようにふくらんだ莟。馥郁たるかおりに、酔いを含んで。」
くらいの方が、梅の「仙気」にふさわしくないですか?
2010.2.22付 朝日俳壇より
人はみな臍と乳あり福笑:(高岡市)四津三樹夫
金子兜太 評:臍も乳も大いに揺れるのだ。
福笑いの出来に、「大いに揺れる」のですか。なるほど、そう読むのか。
私などは、頭が散文的ですから、考えることが違うんですね。
私たちは哺乳類・有胎盤類だから、すべて「臍」がある。胎盤のある動物仲間の共通点。
ではなぜ、男にも乳があるのか?
それは、男であっても、体の基本設計は女の体だからなのです。
発生の初期、女も男も、同じように出発するんです。ところが、途中でさして遺伝子の多くないY染色体上の「SRY」という遺伝子が働くと、その働きの下流で、基本設計の上に男の体を構築することになるわけです。
で、基本設計には、「乳」があるもので、それを消すこともならず、男にも乳があるということになるのですね。
とまあ、身も蓋もないことを考えていて、「福笑」という言葉に気づくのに遅れたという仕儀なのでした。
更に、しょうもないことが頭をよぎっていて。
私、背中の真ん中に、大きな盛り上がった「ほくろ」があるのですが、これ、乳のなごりというか、変形というか、なのです。
「副乳」といいます。男にもあるんですねぇ。普通ホクロだと思っていらっしゃる方が多いと思いますが、副乳というのもあると知って、自分の体をお調べ下さい。
男性の2%弱にはあるという話ですから。
2010.2.22付 朝日俳壇より
吾が膝にしつぽあづけて春の猫:(広島市)金田美羽
いいですね。重くもないのですが、しっぽが膝を押す「小さな重量感」=「信頼の存在感」。
日向のぬくもりに、主も「春のひと」。
肉球で、ひざをぷにゅっと押されるのも好きだなぁ。
2010.2.22付 朝日俳壇より
春一番茶髪のなびくヘルメット:(新潟市)吉岡喜一郎
「季語」みたいな「拘束性」にこだわることはないのですが、「春一番」には定義があるんですね。現在は。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E4%B8%80%E7%95%AA
春一番は、例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風。主に太平洋側で観測される。春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり、寒さが戻ることが多い。
今年の新潟では
新潟地方気象台は22日、北陸地方に春一番が吹いたと発表した。昨年より9日遅かった。日本海北部の低気圧の影響で、県内には暖かい南寄りの風が吹いた。(毎日新聞 2010年2月23日)
こんな具合です。
冒頭の句では、特に「春一番」を詠んだというよりも、春の兆すなか、走り抜けていくオートバイの「ヘルメットからあふれてなびく髪」に焦点を絞って「風」を読み取ったというべきなのかな、と考えています。
2010.2.22付 朝日俳壇より
石鹸玉(シャボンダマ)顔を伸ばして弾けけり:(大竹市)見上木地草
大串章 評:石鹸玉が細長く伸びて弾けた。「顔を伸ばして」という擬人化がおもしろい。
シャボン玉を吹いていて、自分の顔がうつることはないでしょうが、風景がうつったり、人の顔がうつったりすることはあるでしょう。その形が、シャボン玉の変形に応じて変わる。そういう面白さもよみこまれていませんか?
2010.2.22付 朝日歌壇より
ネコカフェの猫は疲れて東京の夕焼けをみて大あくびせり:(愛媛県)河野けいこ
佐佐木幸綱 評:夕方になって、猫も接客に疲れたのだろう。人間くさい雰囲気が可笑しい。
動物セラピーってありますよね。私あまりああいうの好きではない。
犬ならまあいい。
でも、猫や兎などはちょっとなぁ。
「触れ合い」といいつつ、触れられることのストレスを動物に与えていると思うんですよ。
猫なんか、向こうが膝に乗りたいといってやってきたなら乗せてやればいいだけ。
こちらから抱き上げたりしたらストレスでしょう。
猫がただ歩いているだけでいいなら、容認しますが。
飼い主とのんびり付き合うのが本当は一番です。
ヒトのストレスに付き合わされては、動物はいい迷惑だ、と思ってしまう私です。
これはモンパルではとてもたどり着けない距離がある、大田区内のとある道。
マンション前の、すごく幅の広い一方通行路。住民の生活優先の道ですね。
梅の街路樹。
写真は小さなコンパクトデジカメでの撮影ですので、どうしても「収差」があります。画素数の問題ではなく、レンズの描写性能の違いですね。
上の写真の左端の白梅のあたりまで、車のエンジンのアイドリングでゆっくり進んで行ったら
肉眼に「動き」が入ってきました。
見ればメジロが花の蜜を吸いにきているのです。
道の反対側に車を止めて、運転席からコンパクトデジカメを向けて、ズームを最大にして、あてずっぽうで3枚ほど撮影。
写ってましたよ
下向きの花の蜜を、下から嘴を差し入れて
かなりぼけていますが、メジロの色、目のまわり、など一応とらえられました。
この範囲に絶対いる、という形で撮ったので、パソコン画面上で、丹念に探してしまいました。
もうちょっとシャープなレンズだということなしなんですが・・・。
欲張りすぎですね、即応性の高さを楽しみましょう。
2010.2.22付 朝日歌壇より
髪洗うシャワーに混じり鳴り出だす老耳の奥の東京音頭:(さいたま市)吉田俊治
人は無意味に耐えられないものかもしれません。
いろんな高さの音を含んだ雑音にさらされた時、そこに意味のある音を聴き取ってしまうことがあります。
一番よくあるのは、救急車や消防車のサイレンが聞こえてくる感じ。
インターホンがなっているような感じ。
電話が鳴っているような感じ。
曲名付きで音楽が聞こえてくる感じがしたことは私にはありませんが、わかります。
なんかの拍子で、一日中あるメロディーが頭の中を回り続けている、ということはよくあることで。そんなときに、雑音をきっかけとして、またあのメロディーが回り始めた、ということはあります。
東京音頭などが頭の中で回り始めたら、きっと止まらないでしょうね。想像されます。
2010.2.22付 朝日歌壇より
昇降機は夜の高みより降り来たり他界のけはひをふはり吐き出す:(生駒市)辻岡瑛雄
馬場あき子 評:「夜の高み」と「他界」によってふしぎな雰囲気がかもし出されている。
エレベーターが降りてきて、ドアが開いた瞬間、中に人もおらず、明るいがらんどうの空間。
「この世ではない」世界との接点が開いたような気がする「瞬間」。
ドアの開く瞬間に対するある種の緊張感と、それがほどけた瞬間を言い当てていますね。
エスカレーターが変な「右開けルール」で使いにくくなって、エレベーターを使うことの多くなった私。昔は、加速、減速の変化がはっきり体に伝わってきましたが、このごろは、小さなエレベーターでも、ほとんど感じなくなりましたね。
「他界」ではありませんが、もし、ここで閉じ込められたらどうしよう、という閉所に対する閉塞感はありますね。駅ビルなどで、複数の人が乗り込んだ場合、その閉塞感が一種の「人間関係」を生み出すのでしょうか。エレベーターより他人への思いやりが表現されやすくなります。
一方で、マンションのエレベーターなどでは、その閉塞感が恐怖をもたらすかもしれません。
非日常の空間であることは間違いのないことです。
近くの公園です。モンパルを下りて、少し散策してみました。
地面が結構凸凹で、今の私には少し歩きにくいけれど、子らが遊ぶには「整い過ぎていない」ということが好ましく感じました。あまりにも整備されすぎているというのは、つまらないことだと思ってしまいます。
さて、この梅の木の「姿」を見てください。
幹から低い枝までは、太くがっしりと張っています。
そして、若い枝は天をめざして、上へ上へと伸び、向かっています。
この姿が私は気にいった。
木の生きる力を存分に発揮させるような剪定をなさった、と見える。
初めのが紅梅、こちらは白梅。
どちらも、姿がいい。奔放だ。
見ていると、なんだか生命力が迫ってきて、元気が湧いてくるような気がする。
「梅切らぬばか」ともいいますが、ただ坊主にすればいいというものではない。
木の生命が躍動するような切り方があるのではないでしょうか。
2010.2.22付 朝日歌壇より
やれ嬉し吾子の絵はがき寄生虫博物館より届きたり:(盛岡市)白浜綾子
東京の山手線目黒駅からちょっと歩いて山手通りを越えたところの左手にあります。
正式には「財団法人 目黒寄生虫館」といいます。
それなりに有名な博物館です。
見学後に、うどんやラーメンやスパゲッティが食べられるかどうか、などという下世話な話もあります。
さて、冒頭の歌。
娘が見学に行って、その話を喜んで聞いていた私。そういう、理科人間親子だとすれば、ストレートに「喜んでいる」と受け取ってよいのでしょうが・・・。
もし、そうでないとすると・・・ブラックに読まなければなりませんねぇ。
どっちかなぁ。
寄生虫館の、サナダムシTシャツとか、絵はがきとか、結構、うわさのグッズなんですが。
けっこう難しい歌だなぁ。
関心がおありでしたら寄生虫館のホームページなどご覧ください。(自己責任で!)
http://kiseichu.org/
2010.2.22付 朝日歌壇より
地震(ない)のくれば埋れる身かとも思いつつ大江戸線の深き階段:(東京都)栗原ふじ子
大江戸線の車両は横幅が狭い、天井が低いのです。圧迫感があります。で、地震が来たら埋もれるなぁ、と感じさせるのでしょう。
でも、一応公的には
「日本の地下鉄では最深部を走行しており、耐震性に富み、災害時には救助作業の大動脈として利用されることになっている。そのため、非常用の備蓄倉庫が麻布十番と清澄白河の両駅に設置されている。」
ということなのですが。
それでも、感覚的な圧迫感は拭えませんよね。
大学時代、大学へ行くのに、地上を回っていく通学路線と、地下鉄で比較的真っすぐいける通学路線があって、しばらく、地下鉄で通ったのですが、なんだか、息苦しくって、疲れるようで、視界の開けた、外の空気の流れ込む地上の路線で通うことにしたことがありますね。
地震がきたら助からない、という感じも、もちろんしたし。
地下鉄が苦手な「古い人」です。
地下鉄を降りて、地表へ顔を出すと、自分がどっちを向いているのかわからなくなるんですね。地上の電車なら方向感覚は保てるんですが。
やっぱり、ふるいなぁ。
2010.2.22付 朝日歌壇より
ブレーキを踏むタイミングが少しだけ遅い気がしてわたし疲れる:(春日井市)田中絢子
これはおそらく、ご自分も運転なさる方が、別の方の(多分親しい方の)運転の助手席に乗っている。ブレーキを踏むタイミングが自分より少し遅い、一瞬、助手席にいて自分のブレーキ・タイミングで足に力を込めてしまう。その、微妙な差が疲れる、という歌でしょう。
すごくよくわかります。さして大きな力を出すわけでもなく、微妙なずれなんですけれどね。
気疲れします。
自分のブレーキ・タイミングと同じタイミングでブレーキを踏む人の隣に乗ると、スムーズで気持ちいいですね。ほっとします。
微妙なずれ、ひょっとしたら、それはブレーキのずれだけではないのかもしれない、という暗示も受けてしまうのは読み過ぎかな。
◆ところで、今、騒ぎになっている、トヨタの問題。
あれは、ブレーキが利き始めるまでのタイミングが微妙に遅れるのです。
その一瞬、のめるような、不整脈でもやらかしたような、不安が胸をよぎるのだと思います。
今回の一連のニュースで初めて知りましたが、アクセルペダルはワイヤを引いてはいないのですね。ペダルの踏み込み量を計測してスロットルのコントロールをしている。コンピューターのプログラムで。
プログラムというものが人間が書くものである以上、必ず何かのミスを含む(バグといいます)。これはある意味で必然です。
ワイヤによるコントロールをプログラムが補佐するのならまだしも、プログラムに全部任せるのは、私は怖いな。
銀行やら、電鉄やら、航空関係やら・・・大規模なトラブルが起こったあとでニュースを聞くと、プログラムを更新した時のミス・バグというのがすごく多い気がするのです。
自動車というのは十分に成熟した「機械工学の粋」でした。そこへ、成熟しきっていない電子工学のプログラムが混入する、そういうトラブルがあるのではないかなぁ。
私が今のっている軽自動車にも、電子的な介入があることを感じています。オートマチックのギアのシフトアップが、多分機械的なコントロールを主にしていない。電子的なコントロールが強く介入している。ブレーキにもね。
古い「機械的な自動車」に慣れ親しんだ「体」には、微妙なずれが感じられます。
2010.2.22付 朝日歌壇より
補聴器を外したままで曖昧な世界にいる人時にほほえむ:(三島市)渕野里子
永田和宏 評:補聴器を外した老人の頼りなげな表情を「曖昧な世界にいる」とうまく掬いあげた。曖昧、不安な微笑みであろう。
「意思の交換としてのほほえみ」ではないので「曖昧」ということはわかるのですが、それが「不安」かというと、必ずしもそうは思っていません。
補聴器をつけて外界とつながっていなければならないという束縛から離れて、閉じこもって自足しているという、ある種の「解放感」のなかにいらっしゃるのではないだろうか、などと想像してしまう私です。
意識に浮かぶ想念に、ふとほほえんでいらっしゃる、と。
◆ところで、作品というものは、それぞれ単独で鑑賞されるべきものだと考えていますが・・・
同じ日の朝日歌壇にこんな歌があったのです。
松を摘む瞬時瞬時が過去となり庭師は黒き指持ち帰る:(三島市)渕野里子
佐佐木幸綱 評:松の手入れをする庭師。終日、長い時間をかけて松と取り組んでいたのだ。
この歌の「庭師」と、最初の歌の「曖昧な世界にいる人」が同じ人だったらどうなのでしょう?
庭師の仕事は補聴器なしでいい。補聴器を外して、外界のことなど遮断して、独り丹念に松の手入れをし、時々離れて全体を眺めては仕事の具合を見て、バランスを考え、また、木に接して手入れをする。
そういう中で、ふと、よしよし、というような「ほほえみ」がよぎる。
読み過ぎましたか?
二つ合わさると、意味が変わったりしませんか?
え~、「2並び」をやりましたので、その後の「さわぎ」をご紹介。ご存じの方も多いでしょうけれど。
22年2月22日に2丁目2番地2で… (2010年2月23日)
元号から日付まで「2」が5個並んだ22日、各地でイベントがあった。
東京・青山では、旧制二高(現東北大・仙台市)を昭和22(1947)年に卒業した卒業生の同窓会があった。平均年齢83歳。同級生380人のうち約60人が集まった。
2月22日の同窓会は30年以上続く。在学した3年のうち、はじめの1年半は戦争末期。空腹を抱えたまま軍需工場での作業に従事したり、出征に備えて体を鍛えたりする日々だったという。苦労が多かった分だけ結束は固い。
旧制二高には東北、北海道、旧満州などから優秀な若者が集まった。幹事の菊池さん(83)は「我々にとって『2』は誇りでもあり、とても愛着のある数字」。
福島県二本松市の二本松郵便局は、春の二本松城の桜をイメージした独自発行の記念台紙を販売した。
住所が「二本松市本町2丁目2番地の2」で、局名にも「2」が入る。このため、2が10個並ぶのが売りだ。
150部が1時間半ほどで売り切れた。自らも名前に「2」がつく浅野不二男局長は「夫婦(22)の日ということで、記念に互いに送り合った方もいました」。
2月22日は「おでんの日」ですよ(2010年02月23日)
2月22日は「ふーふーふー」で「おでんの日」。新潟発祥の記念日を広めようと、市民らによる「越乃おでん会」が22日、新潟市中央区万代で販売イベントを開いた。
地鶏のつくね、南蛮エビのしんじょう、がんもどきなど7品セットの新潟オリジナルおでんが222食限定で販売された。寒空の下、湯気に誘われ大勢の人が屋台の前に行列を作った。同市西区の大橋さん(65)は「さっぱりしたいいダシが出ておいしい。体が温まります。まちの活性化におもしろいイベント」とアツアツのおでんを笑顔でほおばっていた。
「おでんの日」は知りませんでしたね。
私も含めて、こういう記念日、日本人は好きですね。日本語の構造のせいですかね。
英語じゃぁこうはいかないでしょう。
次はどんな騒ぎがいつ来るんでしょうね。
2010.2.22付 朝日歌壇より
終電の近きホームに自死ふせぐ蒼き照明冷たく射(さ)せり:(横浜市)大須賀理佳
少し解説が必要かな、と思いまして
青色LEDで心を落ち着けて JR山手線、自殺防ぐ狙い
(2009年9月16日)
JR東日本東京支社は15日、山手線全29駅のホームに青色LED(発光ダイオード)照明を導入すると発表した。青色は人の心を落ち着かせるとされ、増える飛び込み自殺を防ぐ狙いだ。全線での導入は全国的にも珍しい。
・・・
青色LED照明は、JR西日本が06年12月に阪和線などの踏切、首都圏の私鉄でも、京急電鉄が08年2月に弘明寺駅(横浜市南区)のホームに設置するなどしている。青色が人間の心理に与える科学的効果は専門家の間で意見が分かれるものの、全国の鉄道各社で導入が広がっていた。
・・・
山手線では、内外回りとも列車が入り込むホーム進入口に青色LED照明をつける。現在までに東京、新橋、有楽町などの7駅で設置しており、10月末までに完了する。支社は今後、中央線にも青色LED照明を導入する予定で、効果があれば拡大していく方針だ。
こういう布石があるのです。
私自身は青色LEDに心を落ち着かせる効果があるとはまるっきり思っていないのですけれどね。自動車で、青色LEDをつけた車がたまにいますが、あれを見ると、イライラするんですね。すごく視覚を妨害する。どこから出ているんだかよくわからないような変な光で、必ず視線をそらして行き違うことにしています。迷惑なライトだと思っているものですから。
心を落ち着かせるので犯罪防止にも効果があるとか言われて、公園の照明に使おうとかいう話もありましたね。
今のところ、効果があった、という話は聞いておりません。
さもありなん、と思ってしまいます。
人の心は複雑です。照明一つで変わるようなら世話ないでしょう。
眉に唾をつけています。
2010.2.22付 朝日歌壇より
冬を生きる小鳥の嘴(はし)か金柑に小さき穴あり一つに三つ四つ:(埼玉県)堀口幸夫
我が家では、金柑に穴があいている、というレベルではありません。熟したものから順にどんどん食い散らかされて、たくさん落ちています。
ヒトも負けじと一生懸命摘み取って食べています。
競争です。
おいしいものなぁ。
この季節、赤や黄色の色のついた実は端から食べられていますね。(ナンテン、タマサンゴ、イヌホウズキ・・・など・・・)
ま、生きるもの同士。元気でね。
2010.2.22付 朝日歌壇より
海水を吸いて吐き出すあさり棲み三河の湾(うみ)は浄(きよ)められゆく:(名古屋市)諏訪兼位
高野公彦 評:作者注によれば、アサリ一個で一時間に一リットルの海水を濾過し浄化できるという。
良き海苔の育つところにアサリ数多棲みて浄むる三河の湾に:(名古屋市)諏訪兼位
馬場あき子選
諏訪先生、意気軒昂。諏訪先生は地質学の大家でしてね、科学者なんです。
岩波科学ライブラリー 136 「科学を短歌に読む」(2007.10.5刊)という本も出しておられます。
ですから、単純にアサリが水を浄化する、すごいなぁ、というだけではなく、そのデータまでご存知の上で、なお、清らかな海をみておられる。
読む側もそれを知って読みこむと歌の奥行きが深くなります。
{アサリを買ってきて、塩水に入れて砂を吐かせるとおもしろいでしょ。2本の管があって、1本が入水管、もう1本が出水管なんですよ。ぴゅっぴゅっと水を噴き出して、あたりがびしょぬれになりますよね。あれを海中でもやっているのです。そうして、海水の中のプランクトンを濾しわけて食べているわけです。}
2010.2.22付 朝日歌壇より
0歳は食べられぬから節分の豆を一粒ママに足します:(高槻市)有田里絵
0歳児言葉の存在知らずとも音の3要素駆使してしゃべる:(東京都)黒河内葉子
水平が垂直となるみどり児の「ひとり座り」が出来た今日から:(東京都)飯田聖子
なんだかもう、ただ、にこにこ、にこにこ。良い気分。
年の数だけ豆を食べなくっちゃね。(60粒以上も食べたら、胃の中で膨らみそう。夫婦二人で120粒超えてるものなぁ。満腹満腹。)
「音の3要素」というのは「音の大小」「音の高低」「音色」のことです。
「音楽の3要素」というと、「メロディー」「ハーモニー」「リズム」ですね。
言葉にはなっていないけれど、声の大きさを変え、高い声低い声を使い分け、音色をコントロールする。なるほど。いっぱいおしゃべりができるんだぁ。すごいですね。
私自身の赤ん坊の時の写真というのが古ぼけたアルバムにありまして。
椅子に座布団を立て、そこに私が「立てかけて」あるんですね。まだ座れない頃のもの。
そこで、我が子の時に同じ構図の写真を撮りましたっけ。
座布団に「立てかけ」ておくんですね。やがて、ゆっくりと倒れてしまうんですが、なんともいえない凝縮した時間でしたね。
赤ちゃんは、座れた、寝返りが打てた、つかまり立ちが出来た・・・などと、新しいことが出来るようになるたびに、視界が大きく変化して、それがたまらなく楽しいのです。
見える世界が変わるんですもの。そりゃすごい。
私たち大人だって、科学や文学で新しい視点を獲得したらうれしいでしょう。
赤ちゃんには日々が「新しい」。
楽しいですね。
◆最近出たばかりの本ですが
島 泰三著「孫の力」誰もしたことのない観察の記録
中公新書2039、2010.1.25発行
島さんはサルの生態研究などで有名な方です。ひたすら観察する、そこから意味を汲みとる、という研究の大家です。その方が自分のお孫さんを観察したのですから、これはもう、すごい、の一言。爺馬鹿の書でもあるんですが、それで済む本ではない。人間性の根幹に迫る観察をなさっています。
いろいろ引用したい事ばかりなのですが、今回は一つだけ。
人が心を作るには、相手がいる。ただ空を見ているだけでは、心はできない。生きた同じ心を持った相手が必要だ。その相手との関係の中で、相手の信号を読み取ろうとする心の通わせあいの中で、心は作られる。
動くものに関心を引かれるからといって、テレビに子守をさせてはいけません。
電車の中で、赤ちゃんがいろいろ声を出し、声を掛けているのに、親同士の話に熱中したり、携帯に夢中になったり。これはいけません。話しかけられたら、応じること。これが大事。言葉がしゃべれないうちは言葉なんかかけても無駄だなんて思わないでください。
教師をやってきて、人間同士の関係性というものが確立していない生徒も数多くいました。そういう子はきっと、人間関係が怖いんですよ。だから無用に強がったりする。
「人が心を作るには、相手がいる」のです。
これ、目黒区のとある電柱の広告。耳鼻咽喉科の医院の広告なんですが。
このマークを見ていると、きっとこのお医者さんは「耳」が専門なんじゃないか、と思ってしまうのです。
この「くるくる」、カタツムリみたいですよね。
耳の中には、音をスペクトル分解して聴神経につたえる「蝸牛」という器官があるのです。
「うずまき管」ともいいますね。
http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec19/ch217/ch217b.html?qt=%E3%81%8B%20%E3%81%8E%E3%82%85%E3%81%86%20%E3%81%8B%20%E3%81%8E%E3%82%85%E3%81%86%20&alt=sh
ここは、メルクマニュアル家庭版というサイトですが、便利なサイトです。上のページには耳の中の構造のよい図がありますので見てください。
「蝸牛」そっくりでしょ、電柱広告の絵。
本職は耳なんじゃないかなぁ。
こういうマークご存じでしたか?
環状七号線を走っていたら、信号で停止した時に右隣にコンテナを積んだトラックが止まったのですね。見ればコンなマークがあって。腰にいつも携帯しているコンパクトデジカメで一枚。
私は初めて見ました。
http://www.mlit.go.jp/tetudo/ecorailmark/ecorailmark.html
国土交通省のページですが、ここに「エコレール マーク」のことが解説されています。
「エコレールマーク」は、鉄道貨物輸送を活用し、地球環境問題に積極的に取り組んでいる商品・企業であることを表示するマークです。
とありました。
このページから、背景とか概要とかいろいろ説明が読めます。関心がおありでしたらどうぞ。
私の家のすぐ近くを新幹線が走っていますが、一緒にJR貨物と横須賀線も走っています。昔は貨物列車がたくさん走りましたが、今はその線路を横須賀線が走っているので、貨物は夜中ですね。その貨物のコンテナにコンなマークが入っているとは知りませんでした。
我が家には、普通のお宅にはない「春のお知らせ」があることに気づきました。
ご近所の保育園の「お散歩隊」。冬の間御無沙汰でしたが、先週から、お散歩隊再開。
家の前の袋小路が安全で暖かくて、幼い子をしばらく安心して走りまわらせるのによいのです。高いところを新幹線が走ればワァーっと興奮し、多摩川線の電車に一生懸命手を振ると、運転士さんもちらっと見てくれたり。「交流」があるんです。
お散歩隊が来るようになったというのは、暖かくて、のびのびできるようになったから。
春のお知らせなんですね。にぎやかで嬉しいお知らせです。
お散歩隊の頭越し、線路向こうの家の白梅。
梅の季節は終わりに近づいていますが、まだ当分は楽しめるでしょう。桃、桜、杏などがこれから続いてきます。(実は杏がよくわからない。あれがそうかなぁ、という花はありますが、自分では見分けられないのです。情けないなぁ。)
先日、久しぶりにモンパルで外出してみました。
「かかしさんのお散歩」は、保育園の「お散歩隊」ほど、賑やか華やかではないのですが、後ほど、また梅見の成果などご報告したいと思っています。
2010.2.22付 恋する大人の短歌教室 より
{応募作}
読み物は恋の指南書したことは全て逆とはままならぬかな:(千葉)ベルジェス直子
ハウツー物の本に読み耽る人を、通勤電車などでよく見掛けます。しかしああいう読書、本当に役立つのでしょうか。何にせよ人生は教科書通りにゆくほど簡単じゃない、などと茶々を入れたくなりますよね。作者は、せっかく恋の指南書を読んでおいたのに、実際に恋をする段になったら書いてあったのと逆のことばかりしてしまった、と嘆いています。もちろんこの恋、めでたく成就したに違いありません。ほのかに皮肉の利いた、微笑ましい一首です。
ただ、もう少し推敲してもよいでしょうね。たとえば第一句、「読み物」だけでは意味が明確ではありません。愛読書だったことをはっきり表現しておきましょう。第五句の「ままならぬかな」も、取って付けたような安易な結論に見えますし、どうもいささかぎごちない。「本の逆とは」と言いさし、感に打たれた気持ちを余韻として残してみました。音数が減少する分は、逆接の助詞や一人称の代名詞などを補って調整してあります。
{添削後}
愛読の恋の指南書 でもわたしがしたことは全て本の逆とは
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なんといいますか、もうこの連載おやめになったらいかがなものでしょうか。
完璧に「散文」にしてしまわれましたね。添削なさった後のものは、これでは短歌とはいえないように思います。リズムもなければ、余韻もない。感嘆も嘆息も、「嘆」もない。
読むとするでは大違い、と原作ではおっしゃっているのであって、「愛読書」だなんて一言も言っていないでしょ。恋愛指南書が愛読書じゃぁ、読書レベルが疑われる、ってぇもんだ。
読んで納めた「頭の中のこと」通りにはいかないもの、ままならないものなんだなぁ。と「嘆」息があるでしょう、原作には。添削後にはそれがない。「とは」といってはみたものの、それこそ「取って付けた」ような修辞。嘆きにはなっていませんね。
どうして「ままならぬかな」が取って付けた安易な結論なんですか?了解不能ですね。
完全な散文にしてしまった責任は大きいですよ。
応募作そのままの方が圧倒的によい歌だと私は思います。
私のような逆らいごと好きが書くと。はすっぱにね、七五調でね(都々逸風に)
「恋の指南書 頭におさめ 私がしたこと 全て逆」
(くだきすぎですけれど。)
「恋」は一人ではできません。相手との関係性の中にしか「恋」は存在しえないのです。
小椋佳さんの作詞・作曲になる「夢芝居」。名作ですね。
「男と女 あやつりつられ」
「糸引き引かれ」
「稽古不足を幕は待たない」
「心の鏡 のぞきのぞかれ」
「対のあげはの誘い誘われ」
「恋はいつでも初舞台」
「ままならぬ」もの、それが恋の本質なんじゃないですか?
全くもって、異議あり!です。
「1」が10並んだのを以前に載せましたので、もういいやとも思ったのですが。
ニャン・ニャン・ニャン。「猫の日」ですからね。猫に敬意を払って「2並び」の記念写真を撮りました。招き猫はU君のおみやげ。もう中3だなぁ。小学校の4,5,6年と理科おじさんを一緒にやった「友人」です。
猫の日というのは、1987年に制定されたそうですから、歴史があります。
午後10時なら「22時」ということで、もう一つ「2」が増えるのですが、よい子(爺)は早く寝る。そんな時間には白河夜船です。
◆2月18日付けの朝日新聞の読者投稿欄「声」には
「22年2月22日22時22分22秒」と題する投稿が載り
2「人間関係」2「ニコ」2「ニコ」2「ニッコリ」2「日本中」2「に」2+2=4、2+2=4「幸せ」2「降らそう」
こう読んでいました。
なお、「4」が二つで「幸せ」は、1月16日付けの天声人語で
四という数は死につながると嫌われやすいが、二つ並べば幸せ(四合わせ)と読める。先人の知恵はありがたく、大抵の忌み事には逃げ道があるものだ。運気がどうであれ、今日を生き延びねばならない。
こう書かれていたことを踏んだものです。
{「さいわい」は「先祝い」で、将来のこと、「しあわせ」は「仕合せ」で、今のこと、と聞いたことがあります。}
◆こんな記事もありましたよ。
2は白鳥、並んでスワン吸わん? 毎月22日は禁煙の日:2010年2月20日
毎月22日は禁煙の日――。日本癌(がん)学会など12の医・歯科系学会でつくる「禁煙推進学術ネットワーク」は19日、今月22日に和暦で「2」が五つ並ぶのを機に、こんな記念日を設けると発表した。「2」の形が、左を向いた白鳥(英語でスワン)に似ていることから、「22」を「吸わん・吸わん」にかけたという。
(後略)
ちょっとなぁ。でも、今日などは「スワン」が10羽もならんだのですから、効果絶大かな?
◆電車の入場券もあったようです。
★京急電鉄は「ニコニコ記念入場券」を22日に発売する。年月日に2が並ぶ日にちなみ、駅と通信販売で2222セット限定で売り出す。
★「平成22年2月22日」と2が並んだ22日、東急電鉄は2が5つ並んだ記念入場券を発売した。
10枚セットで一部900円のこの記念入場券を求めて、東京の東急東横線・渋谷駅には、午前5時の発売開始前から徹夜で並ぶ人の姿も見られた。記念すべきシリアルナンバー222の入場券を購入した男性は「もう売り切れているんじゃないかとあきらめていたんですけれど、こんなにいい番号に巡りあえるとは思いませんでした」と話した。
この記念入場券は3000部限定で、発売から約2時間後の午前7時17分に完売した。
◆とまあ、猫の日騒動の顛末。他にもありそうですね。
私としては、あくまで、拡大版「猫の日」と捉えております。
これはアナログ時計の前。気温が表示されています。うまいこと22℃になりました。
東京は午後から日が差し、暖か。2階の部屋のドアを開けておいて22℃。ドアを閉めると、23℃くらいまで上がって着こんだ状態では暑いくらいになります。もちろん、暖房なしでの話ですよ。
シーサーもU君のおみやげ。
{デジタルもアナログも、どちらも電波時計です。受信マークが点灯していますので、正しい時刻を表示しています。}
さて真打登場!
いい顔してますねぇ。チャコちゃん。
猫というのは、どことなく哲学的な風貌を漂わせますね。
外猫なんですがきれいでしょ。ふっくらして。美猫ですねぇ。
猫の日遊びでした。
2010.2.10付 朝日新聞記事より
「生きもの感覚」あふれる受賞の言葉 俳人・金子兜太氏
1月26日に都内のホテルであった第51回毎日芸術賞の贈呈式で、特別賞に選ばれた俳人で朝日俳壇選者の金子兜太さんがあいさつした。90歳の俳人がハレの場で口にした言葉は、ふるさと秩父の「生きもの感覚」にあふれていた。
「授賞の講評にある句『男根は落鮎(おちあゆ)のごと垂れにけり』は、自分のことを書いたのであります」と金子さん。張りのある声でこう続けた。
「落鮎という言葉を使うのには多少の苦労がありました。秩父には里人の言葉として、男性のものを表すのに4通りの言い方があります。老年期が非常にユニークで『ぎゅうない』というんですね。私の考えでは、ぎゅうっと握ったら無くなっちゃうということだと」
会場は大笑い。金子さんの話は止まらない。「でも、句でぎゅうないにしなかったのは、私のにはまだ落鮎程度の実体感がある、と。そのことを申し添えたい」
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私ごときが、言い添えることなんかあるわけないですよね。
深~く、味読してください。
それだけです。
2010.2.15付 朝日俳壇より
雪しづり地球自転の振り落とし:(熊谷市)河端不三子
恥じ多きブログです。「しずる」という言葉を知りませんでした。無知蒙昧。なっさけね。
しず・る【垂る】シヅル:自四・下二:木の枝などから雪が落ちる。為忠百首「朝まだき松の上葉ウワハの雪は見ん日かげさしこば―・れもぞする」[広辞苑第五版]
「したたる」はしっていますが、「しずる」は知りませんでした。
地球の自転に雪がしづり落とされた、という内容でしょうか。
理系人間としては納得はしていませんが、詩のイメージとしては了解できます。
(かつてSFにありましたが、ある時、地球が突然自転を止めたら、地上のものは慣性によって振り飛ばされるでしょうね。でも、回っている限り、その回転の振動などはないのです。モーターじゃないから。)
地球自転の速度って、赤道上で考えて
4万km/24時間 → 約460m/s なんですよ。とんでもないスピードでしょ。
2010.2.15付 朝日俳壇より
密林も虎も去りゆく野焼かな:(高知市)竹本一光
金子兜太 評:徒に森林を焼き払う者たちを憎む句。
これは焼き畑農業のことを言っていると思います。
焼き畑農業に限らず、実は農業というものは自然破壊なのだということを意識しているでしょうか。
植生の多様性を破壊して、単一作物をつくるという行為が、自然破壊でなくてなんでしょう?
「野焼き」のシーンにも深い疑問を感じています。
植物のカリウム分が土に戻されて翌年の実りをもたらすのでしょう。
でも、昆虫ファンとしては、すごく悲しい。
カマキリの卵なんかどうなりましたか?
越冬中のテントウムシなんかどうなりましたか?
ヒトの身勝手、と私には映るのです。
日髙敏隆さんの「世界を、こんなふうに見てごらん」という本がつい最近出版されました。
集英社から。2010.1.31発行。です。
まるで詩集のような始まり方にひきこまれ、読みはじめて見ればその内容の激しさ深さにうたれました。
・人間が一度自然に手を入れてしまうと完全にはもとに戻らない。
・人間はここまで破壊的なのかという印象を持つ。
・自然はすごいというより、人間がすさまじいと思う。これから我々人間はそういう自覚を持つ方がいいのではないか。
・ああ、これは手つかずの自然だなんて、うっかり思ってはいけない。人間が入ったらもはやそこは自然ではないのだから。
・人間がいかに破壊的かという見方に立てば、簡単に「自然を守りましょう」なんていえなくなる。
・どこかの環境に手をつけない形で人間が入るなど、もしできるといわれてもほんとうかと疑ったほうがよい。人間は自然を破壊するものだ。そうはっきり認識しておくほうが、よっぽど自然を守ることにつながる。守っているといいながら破壊している人間がたくさんいるのだから。
ひどく悲観的な部分を引用してしまいました。でも、真実だと思います。
単純に、「徒に森林を焼き払う者たちを憎む」とだけいって済ませられはしないのです。私も人間だから。私も自然の破壊者なのです。
2010.2.15付 朝日俳壇より
里芋といふ極上の土食らふ:(養父市)足立威宏
金子兜太 評:まさに「極上の土」の味なのだ、と里芋の大好きな私は膝を打った。<農>の深さということも思う。
里芋に「つちくささ」を感じて、少々苦手にしている私も膝を打ちました。
そうか、あれを「土食らふ」と表現するのか、と、全くもって納得です。
海の魚なら、生臭さなど全く感じない私。「臭みを消す」とかいって、ショウガを用いるなど、素材に対して失礼だ、素材の味を味わいなさい、という私。
でも実は、川魚のアユの苔臭さがちょっぴり苦手。
得手不得手。いろいろあります。
2010.2.15付 朝日俳壇より
冱(い)て空や大気崩るゝ音あらん:(浜田市)田中由紀子
「冱(い)てる」という表記を知りませんでした。「凍てる」しか知りませんでした。
きっと、パリーン、というのか、シャリーンというのか、キラキラキラっとした音のイメージでしょうね。
なんだか、幼い頃に呼んだ「雪の女王」の、鏡が割れるシーンにイメージした音、を思い浮かべます。かけらがカイの目と心に刺さり、ゲルダが訪ねていく、というあのイメージが私の中に呼び起されました。
2010.2.15付 朝日俳壇より
被爆楠触れたる幹の暖かし:(長崎市)濱口星火 {稲畑汀子 選}
寒禽は被爆の楠に塒(ねぐら)持ち:(長崎市)濱口星火 {金子兜太 選}
被爆楠は、あたたかい、のですね。人の手のひらにも、にわとりにも。
私の家のそばのオニグルミの木は、夏も冬も、触るとびくっとするくらいに冷たいです。
他の木にはあまりそういう経験がありません。
ひょっとして、被爆楠が与えてくれる「ぬくもり」とは、心へのぬくもりであり、鳥への風よけ、霜よけのぬくもり、でしょうか。
2010.2.15付 朝日俳壇より
除雪にも除雪の美学雪に住む:(札幌市)前田豊作
稲畑汀子 評:雪深い地に住んでいると、日々除雪におわれる。ただ除雪するのであってもそこには美学があるという面白い発見。
私自身は東京での雪しか経験がありませんし、腰を痛めて以来、雪掻きなど一切手を出しませんから、何も言う資格はないのですが。
ちょっとした配慮で、歩行者がとても歩きやすくなる、とか
除けた雪がきれいに積み上がっていて、邪魔にならないとか
自分の家の前だけに固執しないで、すこし広めに除けておくとか
いろいろあるのではないでしょうか。
面白い発見、というよりは、人の生き方の表現がそこにある、という深い読みなのではないでしょうか。
2010.2.15付 朝日俳壇より
一瞬の予感に凍る夜の電話:(蓑面市)井上浩一郎
稲畑汀子 評:夜の電話というのは緊急を要する時がある。呼び出しの音に一瞬、不安を誘われる。凍るという季題に読者の想像が広がる。
「凍る」が季語だとは知りませんでした。ごく普通の言葉でしょ。
冷蔵庫とか普及した現代に、「凍る」を冬の季語にしておく必要はないような気もいたします。
そして、この句の「予感に凍る」は、一瞬心が凍り、体が凍り、予感が頭をよぎって行ったということですから、具体的な「氷が張る『凍る』」である必要は全くない。
寒い季節とて、年長者には辛い。そういう冬の時期の夜の電話、という意味をもたせてはいます。
でもねぇ、これが季語である必然性を私は全然感じていません。
2010.2.15付 朝日俳壇より
わが齢雪女にはもうなれず:(嬉野市)秋山和江
いえいえ。
2010.2.15付 朝日俳壇より
モナリザにやらせてみたき毛糸編:(弘前市)千葉新一
何を編んでもらいますか。マフラー?
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」って、16世紀初めの作品ですよね。
500年間編み物続けたら、いったい、どんな長さになっているのでしょうね。
そういう発想は初めてですが、なんだか、納得してしまうなぁ。
2010.2.15付 朝日俳壇より
風花や亡き人の舞ふ能舞台:(北九州市)武田晴行
きれいですね。まったく、一幅の画、ですね。
陽射しの中を舞う風花。
風に吹かれて、斜めに、一気に降りしきる。
そのなかの能舞台。
亡き人の、端然たる立ち姿が浮かぶ。
夢が舞う。想いが舞う。
ズームを引くと、ただ、視界はただ白くかすむのみ。
2010.2.15付 朝日俳壇より
風花や猿ばりばりと葱を食ふ:(横浜市)猪狩鳳保
今年も動物園でチンパンジーに風邪予防のために、葱を与えているのでしょう。
あれは不思議な光景ですね。
私がこのことを知ったのは、前回の冬。2008~2009年に新聞紙上をにぎわせました。
2009年01月08日(木)付 朝日新聞より
■おいしい良薬 チンパンジーが風邪予防
福岡市動物園のチンパンジーは、今冬から風邪予防に毎朝ネギを食べている。4匹のうち3匹はすっかり大好物に。1.5キロをあっという間に平らげるようになった。
これまで毎年冬になると、鼻水を垂らすなど風邪の症状に悩まされ、子ども用の風邪薬を使っていた。困った飼育員が多摩動物公園(東京都日野市)での取り組みを知り、与え始めた。
多摩動物公園では04年冬からチンパンジーに長ネギを与えている。「ネギを食べると風邪をひかない」という人間の伝承療法を参考にしたのがきっかけで、風邪引きはめっきり減ったという。今はハチミツ漬けのキンカンも与えている。
人間と同様、アリシンという成分が効くとみられ、福岡のチンパンジーたちも今のところ元気いっぱい。いつもはオスがたくさん取って食べるが、発情すると、メスの気を引こうと譲る場面もあるという。
これです。
毎日新聞 2009年1月29日 では多摩動物公園の方。
多摩動物公園:チンパンジー、長ネギ食べて風邪知らず
多摩動物公園(東京都日野市)は、風邪を予防するためチンパンジーに長ネギを食べさせている。この冬も園内の21頭は風邪と無縁で、来園者に元気な姿を見せている。
チンパンジーは寒さに弱く、風邪をひくと鼻水やくしゃみ、せきなど人間と同じ症状が出る。市販の風邪薬を与えていたが、飼育担当者が04年、寝室に戻る時に与えるエサに週1回長ネギ1本を加えると、風邪をひかなくなったという。
飼育担当の高原由妃さんは「今年も鼻水を出していた子はすぐに治った。推定53歳のミミーも元気です」。
この後、3月には「豊橋市の豊橋総合動植物公園」でも長ネギを与えている、という記事がありました。
今回、私の個人データベースを検索したら、もっと古く、2006年の毎日新聞に、もうこのことが報じられていました。
毎日新聞 2006年1月25日 東京夕刊
・・・
同園(多摩動物公園)がチンパンジーに長ネギを食べさせ始めたのは1年前の冬のこと。毎年、チンパンジーの間では風邪が大流行し、鼻水やら発熱やら大変だったのだ。治療には子供用の風邪薬を飲ませていた。人に効くものは、チンパンジーにも効くのである。
「それならネギも……」とひらめいた飼育係が試しに長ネギを生で与えたところ、チンパンジーはみんなでムシャムシャ丸かじり。昨冬は数匹が風邪をひいただけで、症状も軽かった。
今冬はまだ1匹も風邪をひいていないという。長ネギは週2回、1匹につき1~2本を与えている。人間と同じでネギ嫌いもいるらしく、よく残すメスも1匹いるそうだ。
それにしても、長ネギを生で丸かじりするなんて、辛くないんだろうか。同園の石田飼育課長は「チンパンジーは本来、もっと酸味や苦み、えぐみがきつい野生の植物を食べているから、長ネギの辛さなど何ともないはずです」と言う。
・・・
このアリイン、つぶされると「アリイナーゼ」という酵素の働きで「アリシン」という成分に変わる。ネギを切ると目に染みるのも、生でかじると辛いのもアリシンのせいだ。「抜群の殺菌効果がある。風邪のウイルスの増殖を抑える効果を発揮します」
・・・
記者も早速、生のネギを丸かじりしてみた。辛い。涙が出た。無理だ。人間らしく、摂取する方法はないものか。
・・・
どうだ、チンパンジー。人間は「生で丸かじり」は無理だけれど、料理でここまで工夫できるのだ!
・・・
◆さて、葱は本当に風邪・インフルエンザに効くみたいなんですね。それはある意味でわかる。アリインが有効成分だとか、説明もあるし・・・。
ただ、どうして、チンパンジーにも分かるのか?それがわからない。
ただおいしいだけ?
食べると風邪引かない、という知識を獲得した?いつ?どうやって?
「飼育係が試しに長ネギを生で与えたところ、チンパンジーはみんなでムシャムシャ丸かじり」という状態が生じる理由がわからないんですねぇ。
新しい食習慣を子ザルが発見して、大人ザルが真似をした、というようなことはある。海水でのイモ洗い、はそうでした。
でも、葱は、大人も子どもも並んで食べてましたよ。写真では。
なんで、そんなことがわかるのか。あまりにも不思議です。
考えられることは、風邪によいということより、食べた後、のどや鼻が楽になる、気持ちいい、体がぽかぽかする、といった感覚があって、それを喜んでいるのではないか、というくらいでしょうねぇ。
◆ついでにいうと、犬や猫など、他の哺乳類では葱類は禁忌です!!
赤血球が崩壊して死ぬことがあります。タマネギ、ニンニク、ナガネギどれもだめです。
当然ご存じのことと思いますが、ご注意を。
それにつけても、チンパンジーとヒト。やっぱり、仲間なんですねぇ。
ほとんど違わないんだぁ。
お互い、サルだもんな。
東京の南端に居ります私のところでは、朝、結構雪が降っていました。
8時ころに外へ出てみたらまだ、かなりの降り方。でも、30分くらいぶらぶらしていたら、ほとんどあがってしまいました。ここでは、8時半には雪は終わったといえます。
今10時を過ぎましたが、なんだか少し空が明るくなってきています。
おそらく、予報通り、明るい午後になるのではないでしょうか。
上 見れば虫コ♪
中 見れば綿コ♪
下 見れば雪コ♪
この「雪の下」は、何を隠そう「ユキノシタ」です。
外出の「ねばならぬ」がなければ、雪は見ていて楽しいですね。
暦の上では春なのに、寒かったり雪が降ったり、という言い方を気象情報のときに聞くことがありますが、何をおっしゃいますか、春だからこそ、雪が降るのですよ、東京では。
安定した圧倒的なシベリア高気圧が弱まって来て、日本列島の南岸を低気圧が走っていく。寒気はまだ残っている。これが東京の雪パターンです。
冬が緩み、春が兆しているからこそ、東京に雪が降るのです。
昔、都立高校の教諭だった時代、2月下旬の都立高校の入試というと雪が降ったものです。
入試の朝、雪かきをして受検生を迎えたこともありました。
今年の都立高校入試は2月23日。予報では雪の可能性はないと思います。
全力を尽くしてください。
春の兆しの雪。
とはいえ、足が冷たくて辛い。
左足には筋肉がほとんどないですから、発熱能力がないんですね。
痛いような感覚を覚えます。
冬は苦手です。
2010.2.15付 朝日俳壇より
籾殻に並ぶ見舞ひの寒卵:(東京都)市川廉
懐かしいなぁ。
一つは、卵は栄養があって「精がつく」といって、結構特別な食品だった時代がありますね。
今では想像できないかもしれないけれど。
句としては、そこまでなんですが・・・
個人的な思い出が、ワッと湧きだしてしまった。
それが「籾殻」
子どもの頃、親の親戚からリンゴなど送ってくることがありました。
縄で縛った木箱に籾殻が詰まっていて、その中にリンゴが白い紙にくるまれて入っているのですね。
子ども二人で中身を取り出すんですが、籾殻の中に手を突っ込みますので、後から、かゆいかゆい。でも、籾殻の香りの中から、甘い香りのリンゴを取り出すのはとっても嬉しい仕事でした。
さて、エコなお話し。
リンゴを包んでいた白い紙は、どうなったか? → 「御不浄の落し紙」として利用。
わかります?要するにトイレットペーパーとして再利用なんです。汲み取り便所でした。
新聞紙や、新聞広告の紙も落し紙にしました。印刷のインクでお尻に色がついちゃったりしてね。ちゃんと揉んで使うんですよ。でないと痛いから。
籾殻や縄はどうしたか? → 火鉢の灰にする。
火鉢の灰も長く使っていると、細かくなるしボリュームがなくなって固くなってくる。
で、縄やもみ殻を、きれいに燃やしましてね、新しい灰にして火鉢に入れるんですね。
こういう仕事も私ら子の仕事。
木箱は? → 日曜大工の材料、あるいは、消し炭に利用。
焚き火の時に木箱も燃やすんですけれど、燃え切らないうちに、でも、中まで炭化したところで、水につけて、ジュッと消してしまうんです。これが、火鉢の炭や、炬燵の炭に点火する時の「消し炭」として具合がいいんですね。消し炭をつくるのも子の仕事。
いろいろ、おだてられながら、うまいこと仕事させられてましたねぇ。
2010.2.15付 朝日俳壇より
吾輩は猫であるゆゑ寝正月:(神栖市)田中陶白
長谷川櫂 評:正月も寝てばかりのものぐさ猫を詠む。猫にしては、文学的な弁解をみつけた。
いや、評を読む前は素直に笑っていたのですが、どうも、逆らいたい男というものは仕方のないもので、評を読んだら文句言いたくなってきた。
「ものぐさ猫」?
いえいえ、優雅な猫でしょ。
年末だ、正月だ、と忙しくしている「人というサル」のほうが、動物の在り方としてはおかしいのです。そんなもん、関係ない。日向ぼっこでぬくぬくと。
「吾輩は猫であるゆゑ猫正月」
別の読み方にも踏み込みたくなった。
作者は「私は猫だ」と宣言してしまった。だから、寝正月を決め込んで、ぬくぬくと日向ぼっこを楽しんでいられるのだ。と。
2010.2.15付 朝日歌壇より
本人を証明するもの一つでは足りず二つを求める窓口:(新潟市)山田昭義
教員生活では身分証明書というものを持ったことがありません。
ですから、現役を退いた今も状況は同じですね。
運転免許証と保険証しかないなぁ。「三つ目」をもし求められたらお手上げですね。
私は私なんですが、私が社会的にどんな私か?証明するのは難しい。
社会に貢献したいとか、参加したいとか、そういう欲求の極度に薄い人間ですしね。
人のために役立ちたい、とかいう人を見ると、少々げっそりする私です。
2010.2.15付 朝日歌壇より
背を向けたその瞬間にアンティーク人形たちの視線が刺さる:(沼津市)森田小夜子
前にも書いたことがあると思いますが、私、リアルな人形は苦手なのです。
抽象的な人形が好き。
どうも、ある意味、こわいんですね。視線が。
連想をすっとばして・・・
菅原洋一さんに「アンティック・ドール」という歌がありました。
女性歌手とのデュエットでした。20年くらい前ですか。
不思議ですね、菅原さんという方は「誠実のかたまり」のような方なのに、歌では「あぶなうた」が歌える。特に女性とのデュエットでね。「アマン」なんかもすごかったな。ドキドキものですね。
アンティック・ドールは好きでした。
2010.2.15付 朝日歌壇より
老眼鏡を「読書めがね」と名付けたる眼科医今日も吾が眼を覗く:(奥州市)大松澤武哉
老眼という言葉に全然抵抗感なく来た私です。30代の終わりごろから意識し始めたのでしたでしょうか。
もう近視に乱視そこへ老眼。むちゃくちゃな視覚です。
自動車を運転する時は視力が出るほうの眼鏡を掛けるのですが、なんだか、今どっちの「視覚」で物を見ているんだか、さっぱりわからなくなってきました。
耳も眼も、だんだんおぼろげになってきましたことよ。
2010.2.15付 朝日歌壇より
ひとつ得てふたつ失いひとつ得てみっつ失うそんなこのごろ:(福島市)美原凍子
美原さんの作風としては少しいつもと違いますね。
短歌ですが「俳味」を含んでおられる。
同じ2.15付の天声人語で、「第6回『60歳からの主張』」の川柳部門の作品が紹介されていました。
物忘れ嘆くな頭のダイエット
昔「365歩のマーチ」とかってありましたよね。「一日一歩三日で三歩 三歩進んで二歩さがる」というやつ。もう40年以上前ですか。あれ。
よく自嘲気味に替え歌を歌ったものです。
「一日一歩三日で三歩 三歩進んで「よんぽ」さがる♪」
2010.2.15付 朝日歌壇より
アメリカが戦争しない日は来るか太平洋は今日も紺碧:(日立市)山野いぶき
{馬場あき子氏も選んでおられます}
高野公彦 評:そういえばアメリカは絶えずどこかで戦争をしている。柔らかい風刺の歌。
「柔らかい風刺」ですか?
いえ、鋭く突き刺さる事実の指摘、でしょう。
なんとなく、日本人はアメリカに好感を持ち、明るく、開けた、平等の国のような幻想に浸っていますが、そのアメリカの暗部を見事にえぐっておられます。
2010.2.15付 朝日歌壇より
今日はもう一日何もしないぞと決めて山崎ハコを聞いてる:(神奈川県)中沢洋之
わぁ。いいですね。すごいですね。くらいですね。
中島みゆきもあわせてお聴きください。
もう床にめりこむほどになれます。
個人的には「白い花」が大好きです。
ききたくなっちゃった。
2010.2.15付 恋する大人の短歌教室 より
{応募作}
大人しくデイサービスの車に乘り手を振る夫を愛しと思う:(神奈川)塙 昌子
「デイサービス」という和製英語、日常生活にすっかり定着した感があります。介護の問題が国民的関心事になっている以上、無理もありません。この歌のご主人も、介護を受ける立場にあるようです。本当は嫌でならないのかもしれませんが、素直にデイサービスからの迎えの車に乗り、奥さんに手を振るなんて、実にいじらしい。長年連れ添った奥さんに余計な心配を掛けまいとする、深い愛情のなせる業なのでしょう。奥さんにはそれが分かっていて、いつにも増してご主人を愛しく思ったというわけです。辛い状況を詠いながら、ほのぼのとした夫婦愛を印象づける、好ましい一首です。
手を加えるとしたら、「愛し」でしょうか。文語の終止形を助詞で受けていますが、やや堅苦しい。連用形で直接、動詞につなげたらどうでしょう。漢字が旧字体ですので、仮名遣いも歴史的なものに揃えてみました。「つま」とも読める「夫」は、字余りでも「おっと」と読ませる方が感じが出るでしょうね。(石井辰彦)
{添削後}
大人しくデイサービスの車に乘り手を振る夫(をつと)を愛しく思ふ
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いつものことながら、応募作のままでいいと思います。
あまり想像をたくましくしてもいけませんが、私のイメージは石井氏とは少し違います。
「かつては、激しい人だった。他人の世話になるなどということは断固としてはねつけるような人だった。あの人が、こんなに温和になってしまって。素直になってしまって。
ああ、愛しい。」と、思う。
「思う」の前までで「思い」は完成なんです。ですから、「愛し」と読み切ってしまっていいのでしょう。その時間経過からすべてを含めて、「思う」とまとめていらっしゃる。と私には感じられる。
「愛しく思う」ではないのではないか。
「夫」をどう読むかについては、作者から読者へ、まかされ、つきつけられている、と考えます。
作品は読者によって完成する。どう読むかは、読者にまかされている。だから、短歌を詠んで鑑賞することは「一大事」なのですね。
作者が規定する通りに読めばいいのだったら気楽なんですが。
私には、「ひと」と読んでもいいのではないかとも思われるんです。
「あのひとが・・・」というとき、配偶者を「ひと」と呼びませんか?
可能性として指摘しておきます。
わざわざ古めかしくしたということにたいしては、なんらの感慨を持ちません。無用なことを、と思うだけです。悪しからず。
去年の気温のまとめをまだ載せていませんでした。
これは、小学校に持って行って参考にしてもらおうとつくってプリントアウトしたものです。
いつもと、少し表現が違うんです。
いつもだと、日々の気温の記録と、平年気温を重ねるだけなんですね。
で、日々の記録が平年気温からどれだけずれているかは別のグラフに作っていたのです。
そうすると、そのグラフには、プラスとマイナスが現れるわけです。これ、小学生にはまずいかな、理解しにくいかもしれないな、と思ったわけです。
そこで、少し煩雑なのですが、毎日の激しい変化を移動平均という方法で均したものを一緒に描きこんでしまいました。黒い細い線がそれです。
最高気温の方はそれなりに平年値を上下しています。
最低気温の方はというと、平年値を下回ることがほとんどないのですね。
8月の終わりから9月にかけて、平年値を下回っていました。
最低気温が下がり切らないということですね。
これが地球温暖化のあらわれなのか、それとも、ただこの年の出来事に過ぎなかったのか、は私にはわかりません。
グラフを見て、読みとれることを考えてください。
こちらは、湿度のグラフ。毎日の午後3時の湿度の記録をグラフ化したものです。
こちらには、平年値というものがありませんので、日々の記録と、それを均した値のグラフです。
年末から年始にかけては、30%くらいですね。この時期が一番乾燥した時期のようです。
6月から8月あたり。70%近くになっています。これは「蒸す」という表現そのもの。
辛い季節ですね。
だいたい、こんな傾向が毎年のことのようです。
グラフをにらんで、なにか新しい発見がありましたら教えてください。
これ、とある岩塩輸入業者さんのオフィスのショーケースの中。中は事務所ですが、個人が買うこともできるようになっています。
さて、ゴメンナサイ。
「マイナスイオン放出中!」は、ウソです。まるっきりの大ウソですので、そのようにご了解ください。
電気的な粒子は互いに引き合って、くっついて、電気的に中性になっているのが「安定状態」。
この安定状態から、プラスとマイナスの粒子が分かれて存在するという、不安定な高エネルギー状態になるためには、外部からの何らかのエネルギーの供給が絶対必要です。
自発的に、プラスとマイナスに分かれて、マイナスの粒子が飛び出してくるということは絶対にあり得ません。
もし、百歩譲って、マイナスの粒子が飛び出せば、残ったプラスと引きあうので、次のマイナス粒子はプラスに引きとめられて出にくくなります。さらに頑張って、次のマイナス粒子が飛び出そうとすれば・・・。
絶対に自発的に起こることではないのですね。
もし、もっと譲って、本当にマイナスの粒子が出て行ったとしたら、残った物体はプラスの高電圧に帯電します。やがて、高電圧に耐えきれなくなって、バシッと放電するでしょう。ショーケースの前は危なくって歩けやしない。でも、そういう事故に遭った人のことはついぞ聞いたことがありません。
はい。論理的にいいまして、ウソなのでした。
夏の雷雨。湿った地面が太陽の熱エネルギーで暖められて、猛烈な上昇気流を生じて、そのエネルギーによって、雲の内部で電荷の分離が起こって、それが互いに引き合って放電したり、地面との間で放電するのが「雷」なんですね。電荷の分離には、とてつもないエネルギーが必要だ、というお話です。
◆かつて、新聞広告で
「1立方センチ当たり500万個」「1立方センチに10万個」「100万個/立方メートル以上」というような文字をよく見ました。
多分、「ものすごくいっぱいある」というつもりでデタラメな数字をかいて、素人をびっくりさせようとしたのでしょうが、笑ってしまいますね。
化学屋の目から見れば、この数字は「ないに等しい」と主張しているように理解されるのです。
1モル=6×10の23乗個の窒素・酸素分子が22.4Lの中にあります。
すると、1立方cm中には、何個あるかというと、実に
2700,0000,0000,0000,0000個も酸素・窒素の分子があるんですよ。
2700京個です。
2700京個のなかに500万個あっても、10兆分の2というまばらさ。
ね。ないに等しいでしょ。
現在の地球を1500個くらい集めて、そのそれぞれに60億人がいて、その1500個の地球の中のたった一人、というようなまばらさなんです。
ね。ないに等しいでしょ。
「100万個/立方メートル以上」などときた日には、1立方cmに1個ということになりますので、もう、絶対に「ない」という主張ですね。
大笑いですね。
最近は下火になりまして、ほっとしていますが、こんな広告で一体どれほどの無駄な出費がなされたのかと思うと、ゾッとしますね。
これ、理科室の棚にあった段ボール箱の側面。
「1.4才」ってなんだかお分かりになりますか?
「1歳4カ月」 ではありません。
私自身、この「才」という表示に出くわしたのは2度目。職業によっては日常なんでしょうけれど。
最初に出会ったのは、新聞の折り込み広告。もう、20年も前の話かな。
手押しの一輪車の広告の脇に「才」があったのです。
学校へ持って行って、「これはなんだ?」と騒いでいたら、実家が建築関係だという先生がいらして、「それは立方尺のことです」と教えて下さったんですよ~。
1尺≒30.3cmとして
1立方尺=1才≒27800立方cm
ですね。リットルにすると
1才=27.8Lです。
(ちなみに、リットルを小文字で「l」とかくと、非常に紛らわしいので、最近は「 L 」で書き表すことになっています。)
◆さてそうすると、最初の写真。
1.4才ですから、38.9Lのことですね。
段ボール箱の容積かなにかなのでしょう。
しかしまぁ、理科室で、理科関係の商社が納入した段ボール箱に「才」を見るとは。
驚きましたねぇ。
◆余談
高校の化学で、1モル(=6×10の23乗個)の気体の分子集団は、0℃、1気圧で22.4Lと学びませんでしたか?
22400立方cmの3乗根をとると、28.2cmくらいなんですね。
授業ではよく30cmモノサシを持って行って、大雑把にいって、30cm立方くらいだ、という話をよくしました。
もし、20℃、1気圧だと、1モルの気体は24Lになります。
そうすると1辺が28.8cmの立方体ですね。
30cm立方って、結構いい近似なんです。
今考えるに、「1モルの気体の体積は、ごくごく大雑把にいって、1才だ」というのも面白かったかなぁ。
生徒の好奇心を喚起するのもなかなかに大変なのでした。
発泡スチロールを約30cm立方に切ったものをつくって授業に持ち込んだり、牛乳の1Lパックを4×6=24本、ガムテープでまとめて、教室へ持って行ったり。生徒にある程度の大きさを把握してもらおうと、いろいろやったものです。
試験管1本くらいの水が水蒸気になるとこんな体積になる、といえば、びっくりするでしょ。
正確な数字も大切だけれど、直観的に量を把握しておくのもとっても大事なのです。
◆「才」は尺貫法ですが。
「平米」はご存じですよね。「平方メートル」ですね。
「立米」はご存じですか?「立方メートル」ですね。では、読みは?
「りゅうべい」なのでした。
◆昔、1964年までは、1Lは1気圧で最大密度の温度における純粋な水1kgの体積
=1000.028cm3(立方cm)
と定義されていましたが、現在は1L=1dm3(立方デシメートル)と定義されています。
ついでに「ℓ」という小文字筆記体のエルは現在全く推奨されていません。早いところやめにして、「L」にした方がいいんですけどね、日本の理科教育も。
この写真はサンダーエッグのところで一回お目にかけたものの再掲です。
この内側の話をしましたが、外側はどうなっているのでしょうね?
こうなっています。
これ、メノウ(瑪瑙)ですね。
メノウを販売しているサイトの説明を借ります。
晶洞瑪瑙(水晶) Agate Geode
晶洞は、岩石中に生じた空洞です。一般に、空洞の壁に沿って鉱物が配列し、同心球状の殻が形成されたり、鉱石鉱物の自形の大きな結晶が成長します。
空洞内の鉱物が石英質の場合、皮殻の外部層は玉髄(瑪瑙)質となり、内部に向かって自形の結晶(水晶)が成長し、生成環境によっては中心部まで玉髄(瑪瑙)が充填しています。
石英(Quartz:SiO2)は、造岩鉱物のなかで最も一般的な鉱物です。
石英が、目で見える程度の大きさの自形の結晶となったものが水晶と呼ばれます。石英の微細な結晶が集合し塊状になっているものを玉髄(ぎょくずい:Chalcedony)といい、玉髄なかで、色調が鮮やかなものや縞模様が見える綺麗なものを瑪瑙(めのう:Agate)と呼びます。
晶洞瑪瑙は、産地により様々な特徴を持ちます。
アメリカ合衆国のオレゴン州では、サンダーエッグと呼ばれる晶洞瑪瑙を産出します。サンダーエッグは、球状の石塊の中に放射状(爆裂状)に瑪瑙が入っていることが特徴です。
メキシコのChihauahua州では、レッドホットサンダーエッグ(Mexican Red Hot Thunder Egg)と呼ばれる瑪瑙を産出します。赤色を主体とした暖色系の縞模様の瑪瑙が石塊のなかに爆裂状に入っています。
Coconuts Geodeは、メキシコのChihauahua州に産出し、ココナッツの果実のような白~白青色の瑪瑙が特徴です。
初めの写真ではコロンとしているので、ここから「メノウ板」を切りだすのは無理でしょう。
古物商の店先で安売りしていたメノウ板をお目にかけます。
長い方で6~7cmのものです。
一番外側は岩です。その中に層をなしてメノウが析出したのです。
光にかざして透かして見ると
きれいでしょ。
規則的な縞模様が実に美しい。
このメノウの話は小学校ではしていません。ふと思い出して、おまけのお話しの更におまけとして書きました。
◆思い出話
高校時代に化学部に所属していました。恐竜・昆虫・電気・ラジオ・アマチュア無線などとたどりながら成長してきて、高校に至って、その後の人生の基本になる「化学」に浸り始めたわけです。
化学部で自分一人でやっていた実験。
「リーゼガング現象」といいます。
ゼラチンや寒天、あるいはケイ酸ゲルなのどの中で沈殿反応を行わせるのですね。
ニクロム酸カリウムを溶かして固めたゲルに硝酸銀結晶をのせると、硝酸銀が溶けながらゲル内に拡散していって二クロム酸銀の沈殿ができる。
ヨウ化カリウムを溶かして固めたゲルに、酢酸鉛の結晶をのせる。すると、ヨウ化鉛の美しい黄色の沈殿ができる。(普通、微粉末になるヨウ化鉛が、ゆっくり成長して板状の結晶になるのは見ものです。)
で、ただ沈殿ができるだけじゃないんですね。拡散は一様に起こっているはずなのに、沈殿は周期的な模様を生成する。平面的にやれば同心円状の沈殿ができる。試験管の中で一次元的にやれば、縞模様ができる。
これが美しいんですよ。2年あまり、こればっかりやっていました。
似たような現象で、「ベロウソフ・ジャボチンスキー反応、Belousov-Zhabotinsky reaction)」という周期的な化学反応があるんですが、それよりずっと簡単で楽しいんですね。
定常状態にない「拡散」という現象の中に「構造が現れる」というのは散逸構造というものの一つです。生命現象などの理解にも欠かせない概念です。(生命って定常状態ではないですね。物質とエネルギーの絶え間ない流れの中に生じる「構造」なんですね。)
さて、このリーゼガング現象。なんで思い出したかというと
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%8F%BE%E8%B1%A1
メノウなどの鉱物中にしばしば見られる縞模様は鉱物が熱水から析出する途中でリーゼガング現象が起こったものとされている。
こうなんですね。
光にかざしたメノウの断面に現れている周期的な縞模様。
どうしてこういう周期性が生まれるのか?
不思議ですねぇ。
さて。サンダーエッグは先生にお渡しして回覧していただきましたが
一方、私の方は、そのようにして成長した水晶の方を持って生徒の間を回って、回覧して見せました。
これ小さい方。渋谷の東急ハンズで買ったもの。
こっち、大きい方。70gくらいあります。昔、蒲田駅の通路に山梨の石屋さんが出店を出すことがあって、そこで買いました。
きれいでしょ。
生徒も大喜び。
触りたがったり、値段を聞いたり。
(私がこっちを持って回覧したのは、そういう騒ぎを予想してのことです。いろいろ触らせたりなんだり、落っことす可能性も高いのです。落として割った場合、サンダーエッグより水晶の方が申し訳ない気分になるでしょ。だから、もし落として割っても、私自身がやったことなら誰にも心理的負担が来ないですね。そんなことです)
これが、地中で、強烈な高温の「水晶の溶液」から成長したものだ、というのはふつうあまり考えませんね。
ところが、この地中で行われた、水晶の成長を現在は工業的に行っているのです。
現在、水晶は日常の生活に欠かせないものとなっています。装飾品とかではありません。
クォーツ時計、携帯電話、パソコン、コンピュータ内蔵の機器類すべて・・・です。
時計では、1秒を刻むために水晶発振子が必要です。これはそのまま時計の中心ですね。
パソコンでいうと、「クロック周波数」という言葉を聞いたことはありませんか?
私が今このブログを書いているパソコンは「1.73GHz」で動作しています。
これも、水晶発振子の振動を利用して「1秒間に17億3千万回」もの電気的な振動をつくっているのです。
なんで?
情報をやり取りするのに、勝手放題に送ったり受けたりしたのでは大混乱ですね。基本的なリズムに乗って、情報を送る・情報を受け取る、というタイミングをきちっと守っているのです。
その基本リズムをつくるのに、水晶発振子が必要なのです。
詳しい説明はここでは省きます。水晶を使うとものすごい周波数の規則正しい振動が得られるのだということだけ了解してください。
さて、天然の水晶では不純物が混じったりして、工業的に安定なものができにくいのです。
そこで、「水熱合成法」という方法で人工の水晶をつくっています。
日本水晶デバイス工業会のホームページから引用します。
http://www.qiaj.jp/pages/frame20/page01.html
人工水晶の育成方法
オートクレーブと呼ばれる高温高圧容器を用い、水熱合成法により製造されます。その原理は、地殻内部で天然水晶が成長する過程に似た環境を人工的に再現するもので、非常に短期間に、しかも高歩留で水晶結晶を得ることが出来ます。
オートクレーブは対流制御板により上下2室に分けられます。上部は結晶成長域で種子結晶が取り付けられ、下部は溶解域で、原料である天然水晶(ラスカ)がセットされます。その後、オートクレーブ内自由空間の約80%に希アルカリ溶液(水酸化ナトリウムまたは炭酸ナトリウム)を注入し、蓋をしてヒーターにより加熱します。オートクレーブ上部温度を約300℃、下部温度を約400℃に加熱すると溶液の膨張圧縮作用により、圧力は140MPa程度まで上昇します。
このような高温高圧環境下において、下部の原料はアルカリ溶液に溶解を始めSiO2の飽和溶液となります。この飽和溶液は熱対流により上昇しオートクレーブの温度差により上部成長域で過飽和状態となり種子結晶上に析出・成長を始めます。
その後、溶液はオートクレーブ下部に下降して加熱され、再び原料を溶解して対流により上昇します。このような過程を繰り返すことで人工水晶が連続的に成長します。
「短期間」といっていますが、天然に比べればの話で、おそらく、1カ月とか2カ月とかいう時間のスケールで結晶を育てているのだと思います。
すごいでしょ。この話の「さわり」だけ生徒にはお話ししました。
目の前にある水晶は、地下の高温高圧のもとで、成長したもの。
パソコンや携帯の中の水晶は、それを人の手で真似て育てたもの。
想像力を刺激しますよね。
理科の基本は好奇心。想像力。
楽しんでもらえればいいんです。詳しいことを知りたくなったら、いくらでも深く学ぶことはできるんですから。
これなんでしょう?
まだ元気だった頃、「NHK地球大紀行展」で買ってきたものです。
通称「ライチョウの卵」(Thunder Egg)というのです。面白い名前をつけるものですね。
硬い岩の中の空洞に、石英などを溶かしこんだ熱水が入って、冷えて、結晶が析出し、水が抜けたものです。
熱水といっても、100℃の「熱湯」ではないんですよ。
水は100℃で沸騰する、と教わったものだから、水は100℃にしかならない、と思いこんでいる方がたくさんいらっしゃるのはマズイ事態です。
水が100℃で沸騰するというのには、実は条件があるのです。
水は1気圧のもとでは100℃で沸騰する。
これが正しい言い方です。
富士山の頂上付近でご飯を炊いても、100℃にならないまま沸騰してしまうので、おいしくご飯を炊くことができない、というようなことは知られていると思います。
圧力鍋を調理に使っていらっしゃる方も多いと思います。
ちゃんと取扱説明書を読めば、普通の圧力鍋なら「2気圧、120℃」くらいになるのではないでしょうか。
こういうことを、個別に知っていても、水の沸点は気圧に依存する、という一般化された概念にならないのは、(私も含まれる)理科教育の貧困なんでしょうね。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-f61d.html
ここに、湯たんぽの事故や圧力鍋の事故について書きました。是非お読みください。
生徒にも、こういう事故の話を少ししました。生活の知恵として知っておいてほしいことですからね。
さて、圧力が高いと100℃で沸騰せず、100℃をこえた液体の水ができます。
こういう水は普通の水と違って、とんでもないものを溶かしこむようになります。
前の方でチラッといったように、石英が溶け込んだりするのですね。
石英が溶け込んだ水が冷えてくると、溶けていられなくなった石英が結晶になって出てきます。(生徒は、ホウ酸水溶液を冷やすと溶けていられなくなったホウ酸が細かい結晶として出てくることを実験で見たばかりですから、イメージはつかみやすい。)
穴の内側は大抵メノウです。そのメノウ層からやがて穴の中へ向かって水晶が成長します。
これもサンダーエッグ。最初の写真もこれも、内側に輝くものが見えるのですがおわかりでしょうか?
接写するとこうなります。小さいけれど水晶が成長していますね。
もう少し大きなのもあって、こんなふう。
これらを生徒に回覧しました。
かなり興奮気味に観察してくれました。中には、自宅や知り合いの家に、こういう標本の大きなものを飾っておられるのを知っている生徒もいました。高いんですよ、これの大きいのは。20万円とか30万円とか、教師が小遣いで買えるようなものではありません。
ものには溶ける限度がある。温度が下がって、溶けていられる限度を超えると、結晶になって出てくる、という出来事の、自然界で起きる「ものすごい実例」でした。
食塩といい、ホウ酸といい、実験に使ったのは色がない物質。
無色透明な物質を粉末にすると白い粉末になります。
ガラスを粉にしても白い。
ダイヤモンドフェイクに使う美しい酸化チタンの結晶を粉にすると、ポリ袋に練り込んでも白さを保つ白色顔料になる。油絵の具のチタンホワイトも。
きっと、ダイヤモンドの粉末も白い。保証できますが、やってみたことはない。
色のある物質の結晶を見たらきっと喜ぶだろう、と用意したのが二つ。
これは硫酸銅の結晶です。
この青い色は、銅イオンが水で囲まれている(配位といいます)時に示す色。
結晶の中に水分子も組み込まれているのですね。
直方体を斜めに押しつぶしたような形をしています。
これは、銅の実験をした後に廃液を回収し、硫酸で溶かして放置して作ったのだったと思います。きれいでしょ。
化学が好きになった人というのは、最初のきっかけのところに「美しい色」に感動した、という人も多いので、こんなものを生徒に見せてあげました。
案の定、展覧会スタイルで見てもらったら、ここで立ち止まってしまう生徒が非常に多かったですね。
本当は下のような組み合わせを、全部見て、「溶液」というものを理解するといいのですけれどね。
無色 有色
透明 ① ②
不透明 ③ ④
①は食塩でも、ホウ酸でも、ミョウバンでもいいでしょう。
②は硫酸銅、二クロム酸カリウムなどが非常に美しいのですが、銅やクロムがあるからなぁ、ちゃんとした廃棄設備がないとなぁ。
③は冷水にでんぷんを浮遊させるとか、でんぷん糊でもいいかな。
④は絵の具を水に溶いたらいいでしょう。
こうやって、観察して、「色の有無にかかわらず透明になったもの」を溶液というのだと理解させたいですね。①や②です。
③や④は、不透明なので溶液ではありません。せっけん水も溶液とはいいません。
もうひとつ気になるのは、「無色」と「白」の混同でしょうね。これはなかなか難しいのだと思います。白、灰、黒は「色ではない」のですが、これをちゃんと理解するのはかなり難しいのでしょう。
これは「硫黄の結晶」
硫黄の粉末を見たことがある人は多いのですが、こういう結晶を見たことはないと思います。きれいですね。生徒も、なんだ、ナンダと大騒ぎでした。
「硫黄だよ」というと、「臭いのか?」
いえいえ、全然匂いはない。
世間で「硫黄の匂い」といっているのは、「硫化水素」の匂いでして、硫黄そのものはほとんど匂いません。硫黄の粉末の瓶のふたを開けて鼻を近づけると、二酸化硫黄くさいかんじはしますけれどね。
「硫黄の匂い」という誤解は何とかなくせないものでしょうかねぇ、と元化学教師は真剣に思うのでした。
◆これは、私が食塩水を放置してできた、四角い結晶。
立方体とはいえませんが、結構生徒は驚きます。
これは初めて見せるものではなくて、前にも見せています。ちょうどその時、学校公開で、何人かの保護者の方にもお見せしました。
そうしたら、冷蔵庫のなかで醤油を自然乾燥させたら大きな結晶ができた、というお手紙と実物を見せていただきました。濃縮中に醤油の色も取り込まれたために、少し茶色っぽい結晶でしたが、一辺が1cm近くある大きな結晶で、素晴らしいものでした。
これも生徒に見てもらいました。びっくりです。
冷蔵庫の中は温度が安定していて湿度も低いので、ゆっくり水を蒸発させて大きな結晶を作るには良い環境なのです。ただし、「ゆっくり」ですが。
◆生徒に見せた実物は上の写真のものでしたが、私の手元に、顕微鏡写真がありますので、お目にかけましょう。
これは100倍で見た塩の結晶の表面。階段状になっていますね。
これが、結晶の面に目に見える階段になることが実は多いのです。こういう状態の結晶を「骸晶」といいます。なかなか完全に平らな面をつくるのは難しいことです。
これは150倍。上の写真よりもっと狭い範囲の拡大です。
階段状になる前の、微細な凹凸が見えています。
◆昔「SINRA」という科学雑誌がありました。この雑誌に「原寸博覧会」という連載がありました。
1996年1月号の「原寸博覧会」は、塩の結晶。このページのカラーコピーを担任の先生に授業で使って下さい、とお渡ししましたので、きっと生徒に見せていただけたことでしょう。
どんな写真かというと、一辺が9cmもある食塩の結晶の実物大写真が載っているのです。
写真は、ここでは載せられませんが、内容をかいつまんでご紹介します。
高純度の食塩をルツボで800℃を超えるところまで熱して、融解させます。塩化ナトリウムの融点は801℃ですので、水に「溶解」するというのと違って、熱で「融解」するのですね。
ここに小さな種結晶をつるして、ゆっくりゆっくり、徐々に温度を下げていきます。そうすると、種結晶の周りに大きな結晶が成長していくのです。十分に冷えたところで、結晶の劈開面(へきかいめん)にそってカットするのですね。
私自身の高校化学での授業の教材として使っていたものですが、今頃、また役に立つとは思っていませんでした。よかった、よかった。
ところで、食塩が融解した液体、というものをご覧になったことがありますか?
私の授業では、何度か生徒にもやらせています。ビックリしますよ。
普通に試験管に底から2~3cmの深さまで食塩を入れます。
スタンドに試験管を斜めに固定します。
バーナーの比較的弱い火で、試験管を底から始めて口まで熱くします。水が水滴にならないように。
そうしたら、バーナーの火を試験管の底に当てて、強くします。はじめのうち、含んでいた水分でパチパチ弾けますが、無視。どんどん熱します。
しばらくしたら、可能な限りの強熱にします。
試験管のガラスが柔らかくなって少し「垂れる」感じになりますが、構いません。
やがて、試験管の内面が濡れたようになって、融解が始まります。いったん融解が始まれば後は結構速い。全部が熔けてしまったら、軽く揺らすとちゃぷちゃぷしますよ。透明な液体がちゃぷちゃぷしていて、これが食塩だとは信じられないほどです。
しばらく楽しんだら、火を止めて放冷しますが、室温まで冷やしてしまうと、中身が取り出しにくい。なにせ、試験管が変形してしまっていますから。
熟練の技で、まだかなり熱いうちに、ビーカーの中に入れた水にいれて、ひずみで試験管を割ってしまいましょう。
危ないから気をつけろよと声をかけて、ピンセットで中身の塩を拾い出します。
いや、かなり危険ですが、高校生ならやらせられる。とてもエキサイティングな経験になります。
これは、渋谷の「たばこと塩の博物館」で入手した天日塩です。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/WelcomeJ.html
これはこの博物館のページのトップです。ここから、いろいろな塩の知識が得られますので、利用して下さい。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/sio/world/tenpien.html
このページによりますと
海水などの塩水から作られる塩のうち、乾燥した気候を利用して天日蒸発だけで結晶させた塩を天日塩(てんぴえん)といいます。
天日塩田:
メキシコ(ゲレロネグロ)
メキシコから日本へ輸出される天日塩は、すべてこのゲレロネグロ塩田で作られます。約50,000haの塩田の広さは、東京都23区とほぼ同じです。
こうありました。ということは、冒頭の写真の塩も、このゲレロネグロ塩田の塩ですね。
詳しい話はしませんが、輸入天日塩を日本の海水で溶かして、もう一回煮詰めて塩をつくっているものもあります。
日本の水族館では目の前の海の水を飼育用に使えないという話を聞いたことがあります。汚くって。今はどうなったかなぁ。
そういう海水で溶かして煮詰めても、何にもならないという気もしますが・・・。
http://www.nagaishiweb.com/koujou/koujou-enden.html
このサイトによりますと
塩の作り方は、
1.ポンプで海水を塩水池に入れる。(写真1.)
2.約2年をかけて、傾斜と風の流れだけで、13に区切られた塩水池に海水を順番に移動させる。(写真2.3.4.)
3.海水を結晶池に移し、約6~8ヶ月かけて塩を沈殿させ、上澄み液を取り除き、塩を採取する。さらに上澄み液を同じ期間をかけて沈殿させる。これを3度繰り返す。(写真5.6.7.8.)
4.洗浄する。(写真9.)
とありました。ずいぶん時間をかけるのですね。
これは、天日塩を研磨したものです。非常に透明で美しいものです。やはり「たばこと塩の博物館」で入手しました。
肉眼で見る限り「ただ透明である」だけなんですが、実は、赤外線に対しても透明なのですね。
化学の方で、赤外線分光(IR = infra red)という分光法がありまして、その際に、試料を挟むプリズムというか、板というか、に使うことがあります。
私自身は有機化学系の出身ですから、有機物の赤外分光は日常のことでした。その際は臭化カリウムの結晶を使うことが多かったのを覚えています。
(肉眼で見える可視光以外にも、光の透過性がどうなっているかで「透明」「不透明」という言葉を使います。例えば、普通のガラスは「紫外線に対してかなり不透明」なので、ガラス越しの太陽光で日焼けすることはあまりありません。電車などで、窓ガラス越しの日光さえ嫌って、席を変わったり、ブラインドを下ろしてしまう方がよくいますが、あれは「やりすぎなんだがなぁ」と内心でつぶやくかかしさんです。)
今回は、天日塩について。
生徒は、「氷砂糖見たいだ」「こんなに透明なのか」と、驚いていました。
小学校の理科支援員の仕事は終了しました。
2009年は6年生、2010年に入ってからは5年生の実験のお手伝いをしました。
5年生では、「ものの溶け方」ということで、食塩やホウ酸を使って実験しました。
溶けて見えなくなっても存在している、という質量保存の概念。
見えなくなっていても、加熱して水を蒸発させると溶けていたものが残って出てくるということ。
溶かす水の量が2倍になれば溶ける量も2倍になる、温度が上がるとたくさん溶けるようになる、室温での飽和溶液を氷水で冷やすととけきれなくなってでてくる、などの溶解度の基本概念の習得、などの実験でした。
最後の時間に、20分くらい頂いて、「おまけのお話し」をさせてもらいました。
その「おまけのお話し」をこれから何回かに分けて、ここでご紹介しましょう。
第1回は「岩塩」です。
5年生の教科書には、ボリビアの「ウユニ湖」が写真入りで載っていました。
最近TVなどでも紹介されたようですね。
そこの塩はさすがに私は持っていません。
代わりに「岩塩」をいくつか持っています。
これは、商品としては「ヒマラヤ岩塩」として売られていたものですが、原産国はパキスタンです。
岩塩は大昔の海が閉じ込められてできたものですから、ある意味で「海の化石」みたいなものともいえます。ヒマラヤから貝の化石が産出して、大昔、ヒマラヤは海だったことがわかる、というのは有名な話ですね。
上の写真のものは、少しピンクっぽいというか、薄い茶色というかです。これは塩化ナトリウム以外に含まれる物質のせいですね。
これは「アンデスの岩塩」といって売っていました。原産国はボリビア。
「アンデスの麓」でとれたと書いてありました。
ピンクっぽい岩塩です。
これは原産国不明です。以前に勤務していた学校で改築時に大量の試薬類を廃棄した時に、もったいないから、と手元に残したものです。
色合いが全然違います。
こんな岩塩を並べておいて「展覧会」形式で生徒に見せました。けっこう喜んでくれました。
渋谷に「たばこと塩の博物館」というJTの博物館があるのですが、生徒たちは少し前にNHKかな、社会科見学に行ったときに、この博物館があることを知っていました。
そこで、お話としては、この博物館に、巨大な岩塩の標本があることもちょっぴり、付け加えておきました。みごたえがあります。夏休みにでも家族と行くチャンスがあったら見てほしいものです。
クロスジホソサジヨコバイです。冬のこんな季節に姿を見せるんでしたっけ?
ビヨウヤナギの葉の上で見かけました。1月31日。
パッと見、どっちが頭ですか?
一瞬左側に視線が行きますよね。
こっちは翅の先端部の模様。
本当の頭部は右。
クモとかに襲われた時に、一瞬の違いで逃げられることってあるんでしょうね。
そういう擬態です。
「クロスジ」の両側が赤いので、これはメスです。
小学校へおみやげに持って行く写真も、冬の「今」の昆虫が少なくて、少し前の写真から、昆虫の複眼、単眼。エビの複眼。ハエトリグモの単眼。ゲジの偽複眼。チョウの幼虫の側単眼などと、テーマで集めて持参していたのですが、このクロスジホソサジヨコバイにであったので、さっそくプリントアウトして最後のおみやげとしました。
グッドタイミング。ありがとう。
結構、楽しんでもらえたようで、やりがいがありました。
2月2日の朝。雨戸をあけるとベランダのプランターがこんな状態。
予報通り。
夜中から雪に変わったのでした。
目の前を走る東急多摩川線は、1~2時間おきでしょうか、終夜運転をしていました。架線やポイントの凍結防止のためです。
線路はこんな感じ。
いやはや、参った。
小学校へ理科支援員として朝1時間目から行く日でした。
現役の時はむしろ気楽でね。どうしてもだめなら休暇を取って、予め用意してある自習課題をやってください、と言えるんですが。
今回のは、「請負仕事」ですからね。休むわけにはいかない。
モンパルを道に出してみたら、多少の雪があっても道路は走れる。低速トルクが非常に大きいので、路面さえ「噛む」ことができれば大丈夫。
ただねぇ、どうしても踏切を渡らなければならないんですよ。これが、不安。
鉄路の上を横切りますからね。万一スリップさせたらおおごとです。
で、妻に付き添ってもらうことにしました。介助者ですね。
立ち往生した時、クラッチを切って、手動で押し動かす方法を覚えてもらって、緊張しながら踏切へ。
レールに直角に渡る。いつにもまして厳密に、真っすぐに、スピードが変動しないように、渡りました。自力で渡り終えて大きくため息をついてしまいました。ほっとした。
踏切を渡ったところで、私は小学校へ。妻は勤務へ。別れたのですが、まぁ、朝っぱらからひどく緊張させられました。
雪が少しでも積もると、私は歩けません。滑るという状態には全くの立ち往生なんです。
冬は辛いですね。
きれいな雪ですが、苦手です。
雪国の障害者はどのように暮らしているのだろう?
案じられます。
台所の流しでこんな現象を見たことはありませんか?
多分ありますね。
何の変哲もない現象です。蛇口から流れ落ちた水流が流しのステンレスにあたって広がっています。
ところで、これ、変だ、と思いませんか?
水の流れが底にあたったところでは水の厚みは大きい。外へ向かって流れるに従って、薄くなり、ただ、そのまんま薄~く広がってしまえばいいじゃないですか。
どうして、丸い円が描かれているのでしょう?
実は、この「円」、水の衝撃波面なんです。
この円内では、中心から半径方向への水流の流速が、水の波の速さより速いんですね。
広がるにつれて面積が増えますから、水流の速度が落ちます。
そうして、水流の速度と水の波の速度が同じになるあたりで、この円が形成されているのです。
この写真の円形の盛り上がりの外側を見てください。
盛り上がりの所での振動が、水面を外側へ同心円の波として伝わっていくのが見えます。
ですから、この盛りあがった円の外側では、波が立つのです。
内側は、写真では分かりませんが、半径方向への放射状の流れなんですね。
盛り上がりの円の内部に、プラスチックの棒を接触させてみました。
逆V字型の盛り上がりができていますね。
よく「衝撃波」の話で出てくる「V字型」です。超音速ジェット機の翼が空気中を音速を超えて進むと、後ろにV字型の衝撃波面ができます。これは有名でしょう。この衝撃波面が地上に届くと「爆発音」のようなものが聞こえます。
また、水面を船が進むとき、あるいは水鳥が水面を進むときでもいいんですが、後ろにV字型の波を引いていることがありますね。あれも、水面の波の速さを超える速度で船や鳥が進むと、衝撃波ができているのです。
爆薬の爆発などの映像で、空気中を透明な球が高速で広がっていく映像を見かけることがあります。あるいは、その球の地面による断面上で何かがすごいスピードで広がっていくような映像もあります。あれも衝撃波の映像なのです。
衝撃波面というのはエネルギーが集中していて、そこを境にして両側の状況がガラッと変わりますので、激しい出来事が起こります。
ジェット機の衝撃波が地面に届くと、窓が割れたりします。
津波が陸に上がると、陸上の建物などに激しい破戒が起こりますが、あれも、この衝撃波面が通過していくところが一番激しいのです。波面が通過したあとは、激しいけれど水流になります。
こんなことが、流しで水の流れを見ていて思い起こされました。
日常的にこんなことを考えているのが「理科おじさん」なのでした。
私のHPやblogでも似たような話題を扱ったことがあります。下がそれ。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/117th/sci_117.htm
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_82b8.html
こんなところもご覧ください。
2010.1.22付けの朝日新聞・天声人語はこんなことを書いています。
美しすぎる情景は、時に心を乱すものらしい。〈桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか〉。梶井基次郎の短編小説「桜の樹の下には」の冒頭だ。
実際、墓石に代えて木を植える弔い方がある。やや神秘めくが、故人が使い残した精気のようなものが幹の中をはい上がり、葉を茂らせ、花や実をつける。そう考えれば、四季の営みもいとおしい。夭折(ようせつ)の墓ほど樹勢は強かろう。
命を自然に返すという点で、散骨にも通じる「樹木葬」。10年ほど前に岩手県のお寺で始まり、全国の民間霊園などに広まった。墓地不足に悩む東京都が、数年内に都の霊園に導入するそうだ。
民間より安い都立霊園は人気があり、今年度の公募は平均12倍の狭き門だった。都内では年に2万基の墓が新たに必要なのに、民間を含む供給はその3割にとどまるという。木の周りに何人かの遺骨を埋葬すれば、土地を有効に使え、緑化も進む。
都会では後継ぎのない人が増え、地方には世話をする人のいない墓も多い。「先祖代々」に入りたくない人もいる。慰霊の役目を木に、つまり地球に託すと思えば、墓を「守る」気苦労は幾らか軽くなろう。
石でも木でも、その前で合掌する行為が形ばかりでは、墓参りする意味がない。大切なのは愛する人をしのぶ装置ではなく、しのぶ心である。墓を持たない選択を含め、弔いの多様化はごく自然な流れといえる。思い出の温め方は、人それぞれでいい。
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私も大賛成です。本当は海に散骨してほしい、という希望はあるんですが、樹木葬、いいですね。中には、「死」を「けがれ」と見てしまう方もいらっしゃって、「遺骨が地下水に溶け出して土壌を汚染するのでは」という懸念を持たれる方もいるとか。高温で焼かれた遺骨が土壌汚染なんかしませんって。リン酸カルシウムの肥料になるだけです。そのあたりをごちゃ混ぜにしておられるのではないかな。きちんと区別したいものですね。もし、死がけがれであっても、土に帰り、植物を育て、多くの虫や鳥の命を支えることによって、死のけがれは完全に浄化されるとお考えいただきたいものです。
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さて
2010.2.7付の朝日新聞・天声人語
本欄へのご感想の中には、ただ黙するしかないようなものがある。埋葬地に木を植える「樹木葬」を取り上げた過日の小文にも、そのようなお便りをいただいた。
「いつ折れるとも知れない心を老夫婦で支え合いながら、娘のために樹木葬の適地を探しています」。次女を34歳で亡くしたばかりのご夫婦からだった。乳がんの告知からわずか1年半。夫と、告知の直後に生まれた男児が残された。
遺言めいたメモには、病のため震える字で家族葬の希望と、お墓にはオリーブかローズマリーを植えてほしいとあったそうだ。若い人ほど木の勢いは強かろうと書いた小欄を、励ましと受け止めていただいた。偶然に言葉もない。ご連絡すると、お二人は乳がん撲滅への願いを静かに語られた。
同じ34歳で逝った女性を悼む歌がある。小学生の姉妹の親でもあった。〈遺児ふたり長き髪もつ明日よりは母に代わりて誰が結ばむ〉羽場百合子。作者は朝日歌壇にも入選を重ねた元教師で、弱き者を思いやる歌風が際立つ。
どんな死も悲しいけれど、若い母親のそれは切ない。お母さんは風になり木になって、わが子に声援を送り続ける。他の母親より少し短い、真珠のような思い出を抱きしめながら。
乳がんに侵された先の女性は、幼子にも走り書きを残していた。〈男の子はやさしくなければいけません。まわりの人の言うことをよくきいて。いっぱいおでかけにつれていってもらうんだよ。本もいっぱいよんで、音楽もいっぱいきいて……〉。連なる「いっぱい」に、母性の叫びを聴く。
私、涙にくれました。「いっぱい」が、にじんでしいました。
自分は、もう、してあげられない。その分を「いっぱい」してね。
これは、走り書きと言うべきものではありません。
真の意味での「絶唱」です。心の最奥部を真っすぐに射抜きます。
歌です。詩です。
あえて、分かち書きをさせてください。
男の子はやさしくなければいけません
まわりの人の言うことをよくきいて
いっぱいおでかけにつれていってもらうんだよ
本もいっぱいよんで
音楽もいっぱいきいて……
これは形式の問題など超越して、「短歌」といってもいいと思います。
敢えて、崩彦俳歌倉のカテゴリーのもとに納めさせて頂きました。
合掌。瞑目。
2010.2.8付 恋する大人の短歌教室 より
{応募作}
一人旅出かける朝に夫より蛙のお守り手渡されるなり:東京 小野曉子
探検旅行にでも出るならともかく、ちょっとした旅なのに、ご主人は奥さんをひとりで送り出すのが心配でたまらない。無事に帰るように、との願いを込めて、蛙のお守りを手渡します。何とも可愛らしいではありませんか。口に出すのが照れくさいメッセージをお守りに託したご主人と、そこに感動を覚えて一首の歌に仕上げた奥さん。言わず語らずの夫婦愛が、さりげなく、しかし巧みに表現されています。
問題は末尾ですね。口語の助動詞「れる」に文語の助動詞「なり」が続いています。文語と口語の混用は現代短歌では当たり前のことですが、密着した助動詞同士で行われると、やはり違和感を覚えずにはいられません。「なり」を省き、「れる」を連用形にして、中止法の言いさしにしてみました。音数は、助詞を「を」を加えて調整してあります。「お守り」が、二句に跨るわけですね。第一句にも、助詞「に」があったほうがよいでしょう。第三句の助詞は、「から」に替えておきました。(石井辰彦)
{添削後}
一人旅に出かける朝に夫から蛙のお守りを手渡され
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またまた、元の歌をめちゃくちゃにする。
「より」を「から」にする必然性はない。「より」のほうが音が滑らかでいいですよ。
短歌はもとより、詩は声に出して読むことが基本だと思っています。目で鑑賞するものじゃない(視覚に訴える表現形式があることは知っていますが。)
一句ずつ行分けして書いてみましょう。
応募作は
一人旅
出かける朝に
夫より
蛙のお守り
手渡されるなり
5・7・5・8・8ですね。7・7ではないけれど、歌としてのリズムは整っています。口に出して読んでいて心地よい。
では、添削後は
一人旅に
出かける朝に
夫から
蛙のお守(まも)
りを手渡され
これ、6・7・5・7・7っていうんですか?
6・7・5はリズム的に吸収できます。問題は、句跨りを含んだ7・7ですよ。
まるっきり座りが悪い。気持ち悪いなぁ。ダメ。これはいけません。
むしろ、
蛙のお守り
手渡さる
のように8・5のほうが、読んだ時の安定感はあると思いますよ。
手すさびに「句跨り」という「狂歌」をつくってみました。
坊主がな
ぎなたを振りま
わすそうな
これこそ句また
がりの楽しさ
5・7・5・7・7ですよ~。整っているでしょ。
いくら音数が整っていたって、声に出して読んで歌のリズムが壊れているようじゃ、本末転倒。音数よりも、歌全体の構成をお考えくださいませ。
もし、私の如き実作者でもない「さわがせ人」が手を入れてよければ
一人旅
出かける朝に
夫より
蛙のお守り
手渡されたり一人旅
出かける朝に
夫より
蛙のお守り
手渡さるなり
ちょっと文法的に危ないな、コレ。
ご容赦を。
2010.2.7付 朝日俳壇より
月面に降り立つごとく霜踏めり:(さいたま市)大石誠
鮮烈でした。月面に足跡を残した。あれはシリコン樹脂の靴底の跡。
空気がありませんから、ザクっという音はしなかったのか。
それとも、宇宙服経由で、足が月面を踏みしめる「足音」は聞こえたのか。
上の句を拝見して、そんな想像をめぐらせてしまいました。
2010.2.7付 朝日俳壇より
独楽回るそこに地軸のあるごとく:(京都市)水船つねあき
大串章 評:独楽が地面の一点に立っている。まるで地軸の上で回っているようだ。地軸は地球自転の回転軸。
独楽が自分を中心にして地球を回している。そういう風に感じとられたのでしょう。
理科おじさんとしてのかかしが読むと、独楽が軸を傾けて歳差運動(みそすり運動)をしている、あたかも地球のようだ、となるんですけれど。
2010.2.7付 朝日俳壇より
佐保姫のまだ着膨れて夢の中:(飯塚市)釋蜩硯
大串章 評:佐保姫は春をつかさどる女神。その佐保姫が着ぶくれて閉じこもっている。春の到来はまだまだ先のようだ。
さお‐ひめ【佐保姫】サホ :春をつかさどる女神。佐保山は平城京の東に当り、方角を四季に配すれば東は春に当るからいった。<季語:春> 。兼盛集「―の糸染めかくる青柳を」
たつた‐ひめ【竜田姫・立田姫】(竜田山は奈良の京の西に当り、西は秋に配当されるので) 秋をつかさどる女神。<季語:秋> 。[広辞苑第五版]
この句が投稿されたのはおそらく1月中旬から下旬。
今日、2月8日のビヨウヤナギ。
もう、佐保姫のお目ざめも進行中。
神の目ざめはゆっくりと。
「未央柳」。「美女柳」とも。女神が小さく欠伸をしておられます。
のびのびと。
2010.2.7付 朝日俳壇より
炬燵から一念発起なにだつた:(八尾市)河村三斗
金子兜太氏の選です。俳味じゅうぶん、というところですか。
ヨッコラショっと。ハテ?何をしようと思ったんだっけ。
何かしようと思った、という記憶だけがあって、それが何だったかは思い出せない。
う~~む、脳がかゆい。と思うこと、しばしば。
よくあることです。
そういう年になりました。
ワタクシも。
(内緒でツマも。)
2010.2.7付 朝日歌壇より
絹ごしの豆腐をそつとてのひらにのせて切るなど誰に伝へむ:(ドイツ)西田リーバウ望東子
永田和宏 評:母から受け継ぎ、自分もしてきた動作も、もはやこの国では必要がない。その寂しさ。
私、還暦過ぎの男ですが、一応、この技は持っております。手のひらに豆腐をのせ、研いで切れ味をよくした包丁で、すっと切る。
今はねぇ、子にけがをさせてはいけない、とかいって刃物の扱いがなおざりですよね。
刃物は切れるものがいい。そういう刃物が自在に使えてこそ「手を使うサル」なんですけどねぇ。
私があんまり気合を入れて包丁を研ぐと、トマトの皮を切るときに刃がめくれる、と母が言いました。
均一に薄く研いではいけないんですね。加減がある。
技そのものよりも、「豆腐を切るという調理」のない国に生きるさびしさ、望郷の歌なのですね。
2010.2.7付 朝日歌壇より
会いたいひとに会えない淋しさより会いたいひとのいないさびしさ:(福島市)美原凍子
永田和宏 評:下句に身に沁みるような実感がある。
昔の鎌倉市長の小島寅雄さんの画文集を思い出しています。正確ではないかもしれません。
会者定離愛別離苦の世なれども会いたき人のいるぞかなしき
こういう歌だったと記憶しているのですが。
人の出会いと別れ。切ないものです。
2010.2.7付 朝日歌壇より
しゃきしゃきがおいしいんだよと言いながら食べる君見たくてきんぴらにする:(豊橋市)藤沢あかり
ちょっと、サラダ記念日を思い出しますね。
「食べる」という行為も結構大事なことで。
高校・大学時代、私、いくら食っても太らない、大食いでした。
秋田の叔母たちが、私や私の友人が、むしゃむしゃ食べ尽くすのが面白いといって、食べさせてくれたっけなぁ。
食べる本人も幸せですが、食べさせてくれる人たちが喜んでくれる、というのも幸せだったなぁ。
修学旅行などで、大広間での集団の食事。終了後、大食い仲間が5,6人で、手のついていない食べ残しを集めてきて、一つのテーブルに集中し、わいわい食べました。すると旅館の方々が喜んで、さぁ食え、やれ食え、とよそってくれたりしてね。
いや、食べさせる方の幸せ、というものも、十分に理解できます。
きんぴら、うまそう。いい音させて食べるんだろうなぁ。想像されます。
2010.2.7付 朝日歌壇より
一年一区生命の襷(たすき)つなぎ来て今年七十八区走る:(東京都)北條忠政
高野公彦 評:人生を駅伝になぞらえて自分を励ましているのだろう。
ユニークなたとえを発見されました。納得です。
◆私は、障害者なものですから、こんなことも思います。
「思考・思想の身体規定性」
両手のない障害者にとって、「抱きしめる」という言葉がはらむ概念は、両手のある人の概念と同じでありうるだろうか。
てのひらに愛するものの体温を感じることはない。
左足が不自由な私にとって、「走る」という概念は欠如している。身体が自らの力で「高速で移動する」という経験はない。
おそらくは「座る」「立ち上がる」という言葉で何げなく表現してしまうものも、健常者と完全に重なりあうことはない。
突き詰めれば、言葉によって成立しているつもりのコミュニケーションは、すべて誤解の上に成立しているのではないか。健常者同士でも。
私には自分の人生を駅伝にたとえることはできないようです。そのたとえを理解することはできるつもりですが。
人生とは、とぼとぼと、つえをつきながら、一歩ずつ、歩むもののようです。
◆理数系の学習で「たすきがけ」というものがあります。
A B
C D
4つの項があるときに、A×D、C×Bこういう掛け算をすることを「たすきがけ」というのですが、いかんせん、生徒はもう、「たすき」を知らない。背中から見ると「×」になっているなんて姿を見たことがない。「対角線掛け算」とでもいわなければならなくなったようですね。
◆ある高校で、体育祭で応援団が活動していました。あるとき、男女何人かが紐を持って、理科準備室にやって来て、たすきのかけ方を教えてほしいというのですね。
紐の一端を「口にくわえる」
右手で紐をもち、前から左わきの下を通して背中へ行き、右片を一回りして、後ろから右脇の下を通って紐を前へ。口にくわえていた一端と結ぶ。
キリッとね。
キリリっとした若者が出来上がりましたよ。
2010.2.7付 朝日歌壇より
南天がこんなにかわいい花だよとやっと気づいた今日誕生日:(広島県)底押悦子
申し訳ありません。悩んでいます。
ナンテンの花は初夏ですよねぇ。
今あるのは「実」。
この歌での「花」とは実は「実」のことでしょうか。
どういう光景なのか、私はちょっと混乱しています。
2010.2.7付 朝日歌壇より
みづうみに鴨は潜りてさかさまに茗荷のやうな尻を浮かべる:(東京都)嶋田恵一
「茗荷」ですか。最高ですね。
ひょこひょこお尻が立つ。あれはかわいい。茗荷に見立てるとは、いや、おみごと。
イメージが鮮烈にまぶたに浮かびます。
今度あれを見たらもう、茗荷、から逃げられませんね。
2010.2.7付 朝日歌壇より
水を蹴り首を伸ばして羽ばたけば空へずしりと白鳥は浮く:(館林市)阿部芳夫
佐佐木幸綱 評:白鳥の飛び立つ場面を表現して的確。とくに下句、「ずしりと白鳥は浮く」は、うまい。
大型の鳥が飛び立つときは、助走がいります。水面を走るんですよね。スピードが十分になったところで、ふわりと浮く。あれ、いいですね。
実は、私、ペリカンも好きなんです。ペリカンが飛び立つのもすごいですよ。
ペリカンが着水するのもすごい。水かきを水面につけてブレーキかける。あれ、見ていてたまりませんね。
重い体が、一瞬沈みそうな感じになって、ふわりと上昇していく。鳥っていいなぁ。
一番好きなのは、アルバトロス・信天翁=アホウドリ。
あのソアリングは飛翔の極みですね。
どうか無事、繁殖してくれますように。
2010.2.7付 朝日歌壇より
十台のハーレー・ダビッドソンのツーリング六十男ら凛と胸張り:(名古屋市)山田静
いえ。別にね。
「凛と胸を張る」わけですが。気持ちとしちゃあ、タフガイ。
でもね、やっぱり六十男だもんなぁ。
白いものもたくさん混じり、胸も薄くなり、へたすりゃバイクの振動が腰に来そう。
脚も歴然と細くなったでしょ。(実はみんな私のことなんですけどね。)
のんびりツーリング、でどうぞ。
無理はしない、ゆっくり、ゆっくり。
2010.2.7付 朝日歌壇より
生きているかぎり被爆者いまもなお焦熱地獄の夢にうなさる:(西海市)原田覚
佐佐木幸綱 評:上二句の感慨、ずしっと重い。半世紀以上、同じ夢に追われてきたのである。同時代の日本にこういう方がいることを忘れてはなるまい。
かつて教師でしたから、広島・長崎への修学旅行も引率しました。
事前学習で、よく私が言ったこと。
原爆資料館でね、あまりの悲惨さに耐えきれず、顔を下にして、眼をつぶるように、走るように抜けていく人がいます。感受性の強い人なのでしょう。一概に責められるものではありません。でも、「一番辛かった」のは誰でしょう。資料を見る人ではないよね。被爆した人だよね。
できれば、資料の悲惨さから目をそむけないでほしい。真っすぐに受け止めてほしい。それが、被爆者が受けた「悲惨」に対して正直であるということだろう。自分の生き方を持ってヒロシマ・ナガサキを受け止めてほしい。それが平和に対して責任を持つという生き方だろう。
こんな話でした。
2010.2.7付 朝日歌壇より
あの朝の寒さしかまだ語れない激震地よりわれ生き延びぬ:(明石市)高寺美穂子
馬場あき子 評:阪神大震災から十五年目の感慨。生き延びた実感がしみじみ伝わる一首。
ひかえめに子の誕生日祝いつつ静かに祈る一・一七:(鳥取県)中村麗子
灯を消せば地震が怖いと泣きし友十五年経て神戸に戻る:(蓑面市)遠藤玲奈
高野公彦 評:地震に対する恐怖心がやっと薄らいだか、故郷が懐かしくなったか、友の心の変化を優しく思いやる歌。
私に言葉はありません。何かを言えば、それは嘘になりそうで、ただ、想うのみです。
前の記事では、ジェット機が夕陽に照らされていましたが、今度は雲。
ふと見ると、なんだか変。
どうなっているのかな?
と考えるに
これ、かたまった雲があって、その雲が下から夕陽に照らされて、その影がもっと高いところの雲に映っているのだろうと思います。
かたまった雲が出来るために、水滴を消費してそれが黒く見えるのかな、とも思ったのですが、やはり、方向などを考えると、雲の影でしょう。
でも、ここに一つだけかたまった雲が出来た、というのもなかなかに分かりにくいことではあります。
いいや、できたんですよ。なんとかね。
影というと、上から照らされて、下の地面に出来るのが普通でしょうが、逆もありうるということが分かって、すっごく面白かったです。
これ、Unidentified Flying Object ではありません。
Identified Flying Object です。
ジェット機です。
沈みゆく太陽に下から照らされて輝いているのです。
雲も低い雲は光があたっていなくて黒っぽく、高い雲が光を浴びて輝いています。
私、夕陽が好きです。
母の実家がある秋田県の海岸では、当然、西が開けていて、夕陽が素晴らしいのです。
夏、夕食を済ませて、浜に行き、座って夕陽を眺めているのが大好きでした。
背後の白神山地のてっぺんが夕日に照らされて絶景です。
水平線に沈む直前、太陽から私まで、輝きの線が走るんですね。これ、すごい感覚ですよ。
水平線の向こうに姿を隠しても、まだ、上空は照らされている。
しばらくすると、浜の気温は下がり始めるのですが、砂に手を突っ込むと、昼間の熱気がまだ残っていて熱い。
体全体で「夏の夕陽」を味わったものです。
このそばに、完全に実が抜けたものもありました。
こうなります。
よくみると、サボテンやマツカサやヒマワリなどにみられる「らせん」のようなものが見えます。
フィボナッチ数列というのが配列の原理になっているのでしょう。
いろんなところに現れるものです。
不思議だ。
1,1,2,3,5,8,13,21,34・・・
これがフィボナッチ数列。ある項は、先立つ二つの項の和になっています。
この数列と、自然界のいろいろな形が結びつくんですよ。面白いでしょ。
興味のある方は下のHPなどご覧ください。
http://www.brh.co.jp/seimeishi/1993-2002/24/es_1.html
JT生命誌研究館のサイトですから、危険は多分少ないはずです。
2010.2.1付 朝日俳壇より
悴みし口は言葉を忘れたる:(北九州市)斉藤牧女
寒くて、顔がこわばって、口がうまく動かなくなります。
寒いと無駄に力が入って疲れますね。
今年は、小学校へモンパルで走ったので、この感覚、身にしみました。
さらに、マフラーでもしないと「喉が冷える」。そうすると声が出にくくなるのだということも良くわかりました。
昔、のどが痛くなると、母親が「真綿」を首の周りに巻いて温めてくれましたっけね。
2010.2.1付 朝日俳壇より
種袋振つて呼びだす春の神:(高知市)田村七里
種袋のかすかな音。春の神よ、早く目覚めなさい。
さっさっと振ると、種が、さっさと鳴って、打ち出の小槌のごとくに、春の気配が振りだされてきます。
かわいいい芽生え、すくすくと成長、可憐な花。
虫好きは「春の女神」というとギフチョウを思い浮かべます。
残念ながら私は標本でしか見たことがありません。2月の末から3月頃に羽化するのではなかったかしら。
植物たちが動き出し、冬を越した虫たちが動き出す。
もうすぐですよ。
2010.2.1付 朝日俳壇より
マスクして眼の饒舌に付け睫毛:(大阪市)西尾澄子
想像されますね。きっと長い付け睫毛だったのでしょう。瞬けばパタパタいいそうなくらい。
口が隠れたお顔ですから、一層、目立つ。
夜目遠目笠の内+マスク顔
ごめんなさい。
2010.2.1付 朝日俳壇より
除夜の鐘天頂の望月の鐘:(熊谷市)時田幻椏
金子兜太 評:除夜の鐘がひろがる空に陰暦八月十五夜のごとき満月。満月から初日への年越しだった。
今年の元旦の午前4時ころ、月食がありました。このことは私のブログで扱っています。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-0bd0.html
毎日新聞では
「その昔「晦日(みそか)に月が出る」はあり得ないことのたとえだった。」
とありました。
そのことがくっきりと、上掲の句に表れております。
金子氏の評の「陰暦八月十五夜のごとき」は不要ですね。
「除夜の鐘がひろがる空に満月。それは望月。しかも、時は元旦、「ついたち(朔月)」なのに。暦がきしむ。」
と、これくらいでいかがでしょうか。
2010.2.1付 朝日俳壇より
三寒に突き放されてゐる四温:(鳥取市)椋誠一朗
「寒」厳しく、「温」を近寄せず、ということは分かります。
「三寒四温」の本来の意味は、中国北東部や朝鮮半島で厳冬期に7日周期で強弱を繰り返すことにあるようです。
この句が投稿されたのはおそらく日本の厳冬期ですから、本来の意味にはあっていると思われます。ただ、日本の厳冬期は、シベリア高気圧が圧倒的であまり周期的な変化をしません。
その圧倒的なシベリア高気圧の勢力にかげりがでてきて、西から東へ低気圧が移動性となって走っていくようになると、日本の天気が三寒四温的になります。
ですから、日本に生活するものとしては、三寒四温はむしろ春に向かう過程の生活感覚ではないでしょうか。
日本的な情緒になってしまうのかもしれませんが、三寒四温は春への過渡期に適した言葉のように思います。
2010.2.1付 朝日歌壇より
耳遠きわれに届くは鳥の声にごらぬものに耳は応ふる:(小平市)水上ひろ子
「耳遠き」と歌っておられますが、想像するに、難聴でいらっしゃるのではないでしょうか。
私も、左耳の聴力がガタガタに落ちた状態。不調の時は耳鳴りがします、右耳から入る音と左耳から入る音が同じ音なのに、同じに聞こえなくて、分裂して聞こえます。
そのような時の特性。
テレビのアナウンサーなどの声で「子音」が強くて母音がはっきりしない時、うまく聞き取れません。「ささやき」って、子音の言葉でしょ、ですから聞取れません。
ある音に別の音がかぶさると、どっちの音もわけ分からなくなります。
無駄なバックグラウンドミュージックなど流されると、イライラします。聞取れなくなって。
鳥の声は、美しい「母音」
鳥の声は、澄んだ重なりのない声。
ですから、私のようなタイプの難聴でも、すっきり聞取れます。
作者も、そういう状態でいらっしゃるのではないかと想像するものです。
いかがでしょうか。
耳を大切になさいませ。
それにしても、音楽を聞かなくなったなぁ。
2010.2.1付 朝日歌壇より
毒(ポワゾン)を有(も)つ魚(ポワソン)を食はむとぞ凩(こがらし)すさぶ臼杵に降り立つ:(大分市)宮添忠三
高野公彦 評:河豚のことをポワゾンをもつポワソンと言ったのがしゃれている。
ちょっと洒落すぎたかなぁ、と私自身は感じました。言葉の遊びはむずかしい。
フランス語を学んだことはないので、不確かですが
POISONはカタカナで書けば「プワゾン」だったような。
POISSONはカタカナで書けば「ポアソン、ポワソン」だったような。
「S」一つの差なんですけれどね。
昔、ある有名な歌人が「キャンバスとキャンパスは似ている」と書いた文があって、困ったことを思い出します。
2010.2.1付 朝日歌壇より
一月の空がそっくり裏返り水の面にあり色のなきまま:(坂戸市)山崎波浪
理に落ちた屁理屈を、ひとことだけ。
水面に空が写っても「裏返り」ません。
逆さまになりますけれど。
ごめんなさい。
2010.2.1付 朝日歌壇より
どの程度やるんだろうという子等の視線浴びつつ授業始める:(豊橋市)鈴木昌宏
子の年齢はどのくらいなのか、どういうシチュエーションなのか、いまひとつ読み切れません。
新年度ではない。
異動でもない。
臨時に講師を引き受けたか。
教育実習?
若い人なら、この視線に自分を見極めようと迫ってくる圧力を感じているかもしれない。
ベテランなら、この視線が楽しくって仕方ない。
教師冥利というのは、子らと自分の視線が絡み合って、「授業」を紡ぎだしてゆく、その時間の流れにあるのです。
これ、病みつき。
◆ところで、わたくし、かかしの「理科支援員」今週で終了しました。
5年、6年。どんな人が来るのかな?という視線をいっぱい浴びて、たのしかったですよぉ。
こういう立場は、食事に例えれば「レストランの味」。おいしい!と思うんですが、毎日続けて食べられるものではない。濃すぎる。
担任の授業は、「家庭の味」。薄味でつまんないようでいて、結局、大事な栄養はみんなそこから得るのです。
よく授業名人に来てもらって、授業の技法を研修する、なんていうのが、はやりのようですけれど、あれはマユツバ。
やるんなら、1年間続けておやりなさいって。そういうなかで、本当の授業の味が出てくるんです。レストランの味を出前したって、誰でも「おいしい」とはいうけれど、それだけのもの。
私も、レストランの味を出前してきました。喜んではもらえましたけどね。
2010.2.1付 朝日歌壇より
燃えしぶる朝の焚き火の流木を裏返したりなだむる如く:(笠間市)北沢錨
佐佐木幸綱 評:たき火の匂い。なつかしい気分を味わうのは私だけではないだろう。都市ではたき火をまったく見なくなり、たき火の歌もなくなってしまった。秋から冬のうれしい風物詩だったのに。
包括的に「焚き火の懐かしさ」を語っても、この歌の評にはなっていないのではないか、と疑問を呈します。
湿った木なんですよ、おそらくね。で、煙い。「乾燥した」焚き火ではなく、湿って煙ばかりひどい「湿った」焚き火なんです。
ですから、少し上がっている炎に木の湿った部分を裏返しては、さらして、乾かし、煙を少なくしようとしているんです。
焚き火というのは、ただ火をつけて燃やせばいいというものではなくて、絶え間なく「世話を焼く」必要があるのです。
涙を流し、鼻水流しながら火の世話をしなければならない。
昔、学生時代、大学闘争のさなか、雨の中で焚き火をして暖を取ったものです。私たちの世代は大抵火が扱えますから、みんなで、降りしきる雨の中で焚き火の世話をしながら、「集会」などというものに出たのでした。
湿った木はけむい!
2010.2.1付 朝日歌壇より
散歩よりもどりし猫を抱きよせぬ背(せな)より匂う小(ち)さき日溜まり:(山梨市)埜村和美
猫が詠まれていると、無条件降伏。
寒い冬の日でも、どこか暖かいところを見つけて、昼寝して。
そのぬくもりを持ち帰ってくる。
いかにも猫らしい。
茶色い猫ではないだろうか。
2010.2.1付 朝日歌壇より
うら若き駐在さんが町に来て「駐在所だより」配布始まる:(宇治市)山本明子
馬場あき子 評:「うら若き駐在さん」がすばらしい。「駐在所だより」を待ちかねている人も多いだろう。地域のつながりの楽しさがありそうだ。
この歌の「地域」や、その地域の年齢構成などが見えませんので、間違っている気もしますが、若い人の少ない地域に「若い人」が来た、というそれだけで、地域の人々の気持ちがはずんでいるのではないか、と。
若くて、元気で、張り切っていらっしゃるので、「たより」なども作り始めた。それを配布しにきて、家の状況などをいつも見てくれることが、うれしい、と。
そんな気もするのですが・・・
2010.2.1付 朝日歌壇より
この冬も蠅取紙のぶら下がり夏のままなる峠の茶店:(渋川市)蓼科鱗太郎
永田和宏 評:蠅取紙、死語になりゆく言葉も歌に残したいもの。
別に残さなくてもいいかなぁ、と思いますが。
確かに死語でしょうね。
61歳の私の世代は、知っている。どのあたりから消えたのかなぁ。
粘着剤のついた紙テープをぶら下げておくと、ハエがくっついてしまうんですね。
親が料理を作って、順次配膳するんですが、先に食卓に置いた料理にハエがたからないようにうちわなどでハエを払うのも子の仕事でした。
「蚊帳」というものは知られていると思いますが、「蝿帳」って知ってますか。
「はいちょう」って言ってましたが。ハエが食品にたからないように、入れておく網を張った食品入れです。
食事を供する店で見たのだと思いますが。蠅取り器。
1mくらいかな、ガラス管で底が膨らんでいて、ハエを殺す液体が入っている。
反対側のてっぺんは「漏斗状」になっていて、天井のハエに下からかぶせる。ハエは飛び回ってやがて下の液に落ちる。
と、こういうものですが。
ご存じの方はいますか?
もう一つ、あいまいな記憶。
ハエ叩きでハエを殺し、50匹くらいかなぁ、集めて紙袋に入れて、交番に持って行くと、おまわりさんから、1円?5円?くらい御褒美がもらえた。
東京の世田谷で、今から52,3年前だと、あいまいな記憶。
どなたかそういう記憶をお持ちの方はいませんか?
記憶って本当に曖昧なんだから。
もうひとつ、思い出を。
ハエを取る、と言えば各家庭に「ハエ叩き」はほぼ必ずあったと思うんですね。
反射神経と視力の良かった年齢のころ、空中を飛び回るハエを空中でたたき落とす、という技を、持っておりましたよ。
ハエ叩きがなくて、ひょいと手を伸ばして空中でハエを手づかみして捕まえたことがあるんですね。そうしたら、手のひらに蛆を産みつけられてしまった。卵胎生のハエがいることを初めて知った瞬間です。
やがて、時間が「長く」過ぎ。我が子と一緒にカマキリの飼育に励み始めた頃。
ハエを生きたまま捕まえたい。ハエ叩きは使えない。どうしよう。
そうか「捕虫網」で捕まえればいいんだ。
なんというか、発想の逆転でしたね。そうだったんだぁ。ハエだって虫だもんなぁ、捕虫網で捕まえればいいんだ。
以来、ハエは捕虫網でつかまえております。
2010.2.1付 朝日歌壇より
我が身より重症の人を見る吾が目なんて卑しいなんて哀しい:(京都市)歌代房江
永田和宏 評:歌いにくい微妙な心理をあからさまに歌った。卑しいと哀しいにこもごも思いが深い。
病院に行くと妙なことが起こります。なんだか、病気の重さ比べをなさっているような。私の方が重い、ということが「偉い」ことだったり。
この歌はそういうシーンではありませんね。もっと深刻。
「差別」ということの根幹ともかかわるものでしょう。
私は左足が不自由な身体障害者ですが、自分の中に「差別感覚」があることを否定できません。自分が、小中高大と健常者の中でもまれながら育ち学んできたことを、よかった、と思ってしまいます。
他の障害の方を、理解しきれてはいません。
差別されるものは差別しない、というのはうそです。
病者は病者を理解し、差別しない、というのもおそらくうそです。
逆に、同病だからといって、相互によく理解できるとも思っていません。うそでしょう。
たまたま同じ病であるから、そのことだけで互いに理解しあえるなんてうそでしょう。
病気を抜きにした、人間としての生き方の根本からでないと、理解なんて成立しないでしょう。
「患者会」のようなものを全然信用していません。
「障害者の会」も息苦しい。
朝日新聞の読者投稿欄「声」に中学生が投書していました。
小学校のいじめの時に、先生が「いじめられている人よりも、いじめている人の方が可哀想なんだよ。心に病気を持っている。いじめている間、つらいと思う」とおっしゃったのだそうです。
私も幼い頃、周囲の人が差別語をかけてきたり、歩き方を真似する人がいたりすると、母親が、「お前は足が悪いだけ。あの人たちは心が病気で、かわいそうなんだよ」と教えてくれました。幼い頃はその言葉は有難かったのですが、やがて思春期。
高校生くらいですか、「障害があるからこそ」という逆転へ向けて成長していた頃、かなぁ。
この考え方には実は「差別が入っている」と思ってしまいました。
病気や障害を低く見る視線を「反射」させただけのように思えます。決して、差別をなくす表現ではない。
以来、こういう言い方はしなくなりました。でも、私の中に差別感情があることは確かなんです。
差別って、心の中に何層にも重なりあってあるのです。
それを自覚することからしか何も始まらないのです。
鳥が入りやすい部分の実はほとんど食べられてしまいました。
実が取れた跡というのが見えます。
実とつながってに栄養を送っていた部分が見えています。
こういう風だったんですね。
鳥はこのセンリョウの種をどこか遠くへ播いてくれたでしょうか。
もし、双葉を見かけたら、あまりさっさと引きぬかないで、何に成長するのか観察してみませんか?楽しいですよ。
こんなの、自分で連れて来た覚えはないのに、という植物が生えてくることがあります。
きれいに手入れされた庭もいいですが、少し手抜きをして、鳥たちが種まきしてくれたのを楽しむのも乙なものだと思いますが。いかがでしょう。
ヨロシク。
2010.2.1付 恋する大人の短歌教室より
応募作
立春はあなたの二十三回忌米寿のわたしを迎えに来てね:茨城 久保志津
今週の木曜日は、もう立春。暦の上での春が到来するわけですが、よくしたもので、この頃から春の気配がちらほら感じられるようになりますよね。心楽しい季節の始まりです。しかし作者にとっては、立春は哀しみの日でもあります。最愛の人の命日なのですから。しかも、今年は二十三回忌。米寿を迎えた作者は、来世から迎えに来てほしいと詠います。哀切な内容ですが、「立春」と「米寿」の二語のめでたさと、結句の間投助詞「ね」のかわいらしさとで、明るい一首になりました。明るさの背後にしみじみとした哀しみがあり、その奥に深い愛情が存在するという三層構造が、実に魅力的です。
直すところは特にありませんが、別の案を考えてみましょう。第一句の助詞ですが、立春が命日だということが、係助詞「は」だと既知の事実、格助詞「が」だと新鮮な話題、といった感じになります。後者だと、立春が主語の立場を強く主張しますね。第三句の後に一字空きを入れるのも、ひとつの手です。(石井辰彦)
添削後
立春があなたの二十三回忌 米寿のわたしを迎えに来てね
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どうしても何か直さなければ「短歌教室」にならないとお考えのようです。
添削の不要な、完成度の高い作品はそのまま掲載されたらよろしいのに。
「『が』だと新鮮な話題、といった感じ」と書いておられます。
「立春があなたの命日だなんて、なんというめぐりあわせでしょう。春が兆す嬉しい日のはずなのに」といった感じかなぁ。「新鮮」ですって?。そんなこと、今、気づいたわけじゃなし。かえって弾んだような語感が生まれて、響きがおかしくなりますよ。やめた方がいいと私は思います。
「春が兆す立春は嬉しいけれど、あなたの命日なのよね、不思議なものよね」と「毎年のことだけど、いまさらながらに(=既知の事実)」と慨嘆が含まれます。その方がいいと思いますよ。
短歌教室は添削教室とイコールではないでしょう。鑑賞し、そのまま掲載してほめるのも「人を育てる」仕事になるのではないですか?
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ところで石井氏は、「もう立春。暦の上での春が到来するわけですが、よくしたもので、この頃から春の気配がちらほら感じられるようになりますよね」と書いておられます。
この書き方から推察するに、「立春」とは、旧暦、太陰暦に属するものだ、だから新暦では1カ月ほど遅いところに相当する。こうお考えのように見受けられます。
七夕は普通新暦の7月7日に行うようになりましたが、このころは、梅雨が明けていない頃。星を見るのは苦しい頃です。
旧暦7月7日なら、今年の場合新暦8月16日ですので、星空も美しい頃です。立秋も過ぎていますから「秋」なのです。
旧盆とか、中秋の名月とか、「ひと月遅れ」という感じで、「立春」もとらえておられるのではないかな。
そうすると、3月初めが本当の「春が立つ」で季節が合う、とか感じているのではないでしょうか?
「よくしたもので」というのは、本当はまだまだ冬なのに、多少は春めいてくる、という表現でしょう。
私はこのブログで何度も書いていますが、二十四節気というのは太陽の運行を示すもので、旧暦は月に基づいていて季節が暦とずれるので、それを太陽の運行に合わせて季節がずれないようにする「太陽のこよみ」なんですよ、と言い続けています。
ですから、太陽暦と、二十四節気とはずれないんです!
また、少し前にも書きましたように、日照量が一番減る冬至からすでに太陽は45度進み、日本中どこでも立春の頃には、平年気温の谷底を脱して、少しずつ気温が上がり始めるのです。
まさに「暦通りに」季節は胎動を始めたのです。
歌人・俳人の方々は季節感には敏感なはず。
もう少し、暦の仕組みにも敏感になって欲しいものですね。
東京の場合。
1月29日~2月2日が最高気温の平年値の谷底で、9.3℃
1月25日~2月2日が最低気温の平年値の谷底で、1.7℃
日本中どこも、多少のずれはありますが今頃が平年気温で一番寒い頃です。
皆さんお元気でしょうか。
立春の頃には少しずつ平年気温が上昇を始めます。まさに春が立ちます。
今日、東京は午後から冷たい雨。夜中には雪に変わるという予報です。
東京の場合、圧倒的な冬型の西高東低の気圧配置の時は雪は降りにくいのです。
伊豆諸島あたりを低気圧が移動していくときに寒気が入ってくると雪になります。
低気圧が西から東へ移動していくというのは、圧倒的な冬が力を弱めてきたという証拠です。
ですから、東京の雪は、立春を過ぎて、2月から3月くらいに降ることが多い。
雪は春の兆しということになります。
でもそうはいっても、ちょっとでも積もったら、かかしさんはアウト!
「滑る」という事態に対して全く手の打ちようがない。ただ立ちすくむのみ。
明日、積もっていませんように。祈ります。
腰も痛くなってきたし、つらいなぁ。
1月29日付で、「ヨウ素が豊富」という話を書きました。
★昆布だしに含まれるヨウ化物イオンを酸化剤でヨウ素にして、ヨウ素でんぷん反応を行いました。
さて、昆布の袋に、「青くなる」ことが書いてあったわけですが、酸化剤を使わなくてもヨウ素でんぷん反応が起きるのでしょうか?
おそらく、だしを取ってすぐに使えば、でんぷんでとろみをつけても反応は起こらないと思います。
昆布が日にさらされていた、とか、湿った状態で保存された、とか、だしを取ってから長いこと空気中にさらされた、というようなことがあると、ヨウ素が出来るかもしれません。
化学ではヨウ化カリウムという物質をよく使うのですが、この物質は無色透明な結晶です。
結晶状態で乾燥していれば長持ちします。ですが、溶液にすると酸化されやすくなります。光が当たると酸化されやすくなります。
ですから、ヨウ化カリウムは固体のまま「冷暗所保存」します。
使う直前に溶液にして使います。
というわけで、調理の場でも、ヨウ素でんぷん反応が起こる可能性は、低いですがあるのでしょう。
で、クレームがついてしまったわけですね。
★今回私は、カメラを傍らに置いて、台所で実験をしました。とはいっても、使った用具は鍋、カップ、スプーンなど。対象は食品の昆布とでんぷん。
化学実験と言うほどのものでもないですね。
台所の流し用の、キッチンハイターも使いましたけれど。
で、妻も理系ですからして、私がこんなことを台所でやっていても別に文句はありません。
結果を見せて、二人で納得、というだけです。
ところがですね。
古い話ですが、20年くらいも昔かな。文系の高3を対象に、「生活化学」という授業を5年間くらいやったことがあるのですが。
夏場、スーパーで売っているカキ氷用の「色の濃いシロップ」を鍋に取り、洗った毛糸を入れ、酢で酸性にして煮ると、毛糸がきれいに染まるよ、ということを教えたんですね。
授業でもほぼ同じ実験をやりましたが、家でも出来るよ、と。
で、ある女子生徒が家でこれをやろうとして、お母さんに強烈にヒステリックに「台所で化学実験なんか絶対やってはいけない」と拒否されてしまったのだそうです。あとで、報告してくれました。
世のお母さん方、こんなの化学実験と言うほどのことでもなし。楽しませてあげてください。
「化学」にアレルギーなんでしょうね。かなしいなぁ。
台所で行う「調理」って化学反応なんですよ。
肉を焼く、煮るは、たんぱく質の熱変性。
サラダを塩モミにするのは、浸透圧の応用。
梅酒をつけるのも、浸透圧とアルコール抽出。
コーヒーをドリップするのは、熱水抽出。
酢のものは、たんぱく質のpH変化による変性。
みんな化学なのです。
偏見を捨ててください。化学は「ものの性質」を扱う学問ですから、食べ物も当然扱うのです。
また、体の中で起こっているできごともすべて「化学反応」なんです。
化学反応の膨大なシステムとして生命は存在するのです。
★とまぁ、こんなことを、思い起こしてしまいましたので、一筆啓上申上候。
2010.1.25付 朝日俳壇より
ふるさとの村に焚火をしに帰る:(小金井市)上條多惠
長谷川櫂 評:故郷の村で焚火をする人。別にそのために帰ったわけではないのだが、そんな感じがする。焚火のなつかしさ。火のなつかしさ。
少し時間をずらして、帰省から生活の場へ戻った時の句として読んでみました。
帰省して何をしたっけ、と思えば、あ~焚火はよかったなぁ、と。
焚火のために帰省したわけではないのだが、記憶に残る風景は焚火。
尻あぶりの幸福感。
煙のにおい。
火をコントロールする楽しさ、など、子にも教えたいですね。
記憶:小学校は石炭ストーブでした。朝、登校すると、職員室に行って、マッチとつけ木と新聞紙をもらって、石炭小屋から石炭を取ってきて、教室のストーブに点火します。蒸発皿に水を満たします。
低学年の子にはまだ無理だから、上級生がストーブに点火しに行ってあげます。
5,6年生になると、石炭に点火する技を持っておりました。
団塊の世代の小学校時代の話です。
2010.1.25付 朝日俳壇より
雪しまきそれでもそれでも美しき:(岩手県)アブドルカーダー栄子
実は私、「しまき」という言葉を、明瞭な語彙としては持っていませんでした。なんとなく語感はあるんですが。
し‐まき【風巻】(シは風の古語) 風の烈しく吹きまくること。また、その風。<季語:冬> 。中務集「うちこゆる浪の音せばもらぬより―の風ぞ吹き返さるる」[広辞苑第五版]
あまりにもすさまじいのです。ブリザード、地吹雪のようなものかもしれません。
外出もままならず、ひたすら耐えるしかない。
そこに「意志」が介入する。
「それでもそれでも」と重ねたところに決然たる意志を感じとります。
「美しい」と言ってしまおう。
その決然たる表情に、美しさを感じます。
人生、あるとき、ある事態を、決然と意志の力によって肯定して、前進する力を発揮するべき時と言うものがあります。
生半可にやれば単なる「居直り」ですが、意志の力をふるうときにはふるって下さい。
私事:障害がある「のに」ではなく、障害が「あるからこそ」と言い切った時が、私にとってそういうときでありましたでしょう。
2010.1.25付 朝日俳壇より
日向ぼこ一人一匹一羽かな:(新潟市)岩田桂
大串章 評:「一人」は人間、あとの「一匹」と「一羽」は?一緒に日向ぼこしているのがほほえましい。
さて、我が家の場合ですと、「一匹」は猫ですね。家の中に二匹、家の外にも二匹いるけど。
「一羽」はなんだろう?
鳥がいっぱい来てます。木に残った実など突いてます。
日向ぼっこ気分ではないですが。
日当たりのよい木を見に行くと、時々、ハエやアブが日向ぼっこをしています。
「羽」では数えないか。
おひさまは万物に平等です。
2010.1.25付 朝日歌壇より
駅毎にこだまはぶすっと道譲りバァンと叩かれ車体を揺する:(高松市)木内邦治
昔は体力あって、東京-大阪間を立ったまま乗って移動したこともしばしば。
体力はあっても金がないから、こだまもよく使いましたね。
「バァンと叩かれ」というのは何も言うことはないと思いますが、通過する列車から及ぼされる風圧ですね。あれ、ものすごいです。
ああいう風圧が、トンネルに入るときに生じると、トンネルの出口付近で、耳には聞こえない低周波音になって、住民の方に健康被害が出ます。
乗用車を運転していて、傍らをダンプやタンクローリーなどの大型車が通過すると、風圧で車体があおられますね。
たかが空気なんですが、されど空気なのでした。
2010.1.25付 朝日歌壇より
どう見ても猫の顔なりとほほほほ賀状の虎をまねき猫にす:(香川県)薮内眞由美
昔、セントバーナードみたいな大型猫を開発する人はいないのかなぁ、とつぶやいたところ。
妻が、そりゃ虎よ。と。
うむ、そんなのに無邪気にじゃれつかれたらお陀仏だ。
まぁ、賀状の虎は噛みつきませんが。
虎はネコ科ですから、いいですよ。
スーパーで買った我が家のミニ鏡餅には「招き虎」も乗っておりました、し。
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