手抜き
2010.1.4付 朝日俳壇より
合理化と称して手抜き年用意:(松本市)唐澤春城
稲畑汀子 評:年ごとに年用意を簡単にする。因習にとらわれないで合理的に新年を迎えるのだ。それを手抜きと知って同調する作者の一家団欒である。
子育てのころはね、伝統的なものを教えるのも親の仕事だろうと、年中行事などいろいろやりましたが・・・。
生活の基本が夫婦という単位に戻ってしまった今、しないで済むことはしません。
一応、形だけはなんとなくやっているような、でも、もう、なにもしません。
いいじゃあないですか。縁起物でどうこういう年じゃなし。冥土の旅の一里塚に手をかけて、あ~くたびれたなぁ、あとどのくらい行かにゃあならんのかなぁ、とため息をつくのがせいぜいですから。
「因習にとらわれないで合理的に新年を迎える」という評はいただけませんなぁ。
いん‐しゅう【因習・因襲】古くから伝わっている風習。多く、時代に不適なものに非難の意をこめて用いる。「―になずむ」「―を打破する」[広辞苑第五版]
「因習」というのは「いかがなものか」。(この言い方、すっごくいやらしいですね)。
まあ、伝統的な年中行事なんですから「因習」とは言い難いでしょう。
やらないで済むものはやらない、夫婦のことですから、そこは互いに合意すればそれでいいんです。「合理的でしょ」なんていっても、それは言い訳なんです。それだけのこと。
寒い季節は早いところ過ぎ去ってくれますように、と願いながら、あたたかくのんびり年をこすのがよろしいでしょう。
「崩彦俳歌倉」カテゴリの記事
- 榠樝(2021.02.01)
- オオスカシバ(2020.10.06)
- 猫毛雨(2020.04.20)
- 諏訪兼位先生を悼む(2020.03.25)
- ルビーロウカイガラムシ(2020.01.17)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント