市ヶ谷駅
2009.12.21付 朝日歌壇より
憂国忌知る人も減り今日もまた市ヶ谷駅は昨日と同じ:(東京都)佐藤次郎
私の世代、団塊の世代あたりは憂国忌は知っているでしょう。まだ「減った」と言うほどではないのではないかなぁ。
1969年2月でしたか。東大全共闘と三島由紀夫の討論会というのがありました。
東大闘争が終焉に向かう鬱屈の中で、「焚祭」というスローガンを掲げたグループが企てたものでした。
何を隠そう、私もその焚祭グループの一員で。あの討論会の企画から実施まで関わったものです。私たちにとっては真剣ではあれ「お祭り騒ぎ」だったと認識しますが、三島にとっては別のものであったかもしれない。
三島の割腹自殺は激しいショックでした。
ところで一方、市ヶ谷の自衛隊のすぐそばに病院がありまして、私が「補装具」というものを初めて作ったのはその病院ででした。6歳、小学校に入る1年前かな。補装具というものの存在を知る前の私は、右足一本で跳ねまわるだけが行動力でした。ですから、母親が私を背負って市ヶ谷へ通ったものです。冬のお濠は分厚く凍ったものでした。夏の草むらでは、バッタ採りに夢中になったものです。
すぐそばに自衛隊の駐屯地があることは聞かされてはいましたが身近には感じていませんでした。
三島事件のときに、え、あの市ヶ谷なのか、とこれはまた別の意味でショックだったのを覚えています。
40年前の事件。50年以上前の通院経験。
忘れることはありません。
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三島事件は40年前の11月25日でしたね。私は会社に居てお昼のラジオのニュースで知りました。本当にショックでその時の周りの風景がそっくり頭の中にインプットされて誰が居たのかまで鮮やかに思い出されます。先生があの討論会に関わっていたなんてほんと、ビックリしました!市ヶ谷は他の意味でも思い出の地なのですね・・。
投稿: 桔梗 | 2009年12月22日 (火) 23時34分
昔話をすると妙なものが時々こぼれだします。
個人的な感想ですが、10年上の世代より、私たちの世代の方がなんとなく「続き」にこだわっている人もいるような気がしています。
投稿: かかし | 2009年12月26日 (土) 15時32分