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2009年12月 8日 (火)

自己紹介

 昨日、小学校6年生の生徒たちと初めて対面しました。理科実験のお手伝いをするのが仕事ですが、その前に一応顔合わせ、ご挨拶をしたいとお願いして実現しました。
 いや、楽しかったです。久しぶりに声を「張り」ました。少々声はかすれましたが、気分がいい。35分くらいの短時間でしたが、それなりに「私の授業」。私って、つくづく、「授業屋」なんですね。「授業中毒」と言ってもいいかもしれない。何回やっても授業というものは「アドレナリンの出る行為」です。現役時代も、多少体が不調でも、授業に行けば体が一種の興奮状態になりました。終わると、ほっとして、どっときて、ぐたっ、ということもありましたけれどね。
今回も、軽い高揚状態になりました。授業を作ることの楽しさを知ってしまったら、病みつきですね。
 それにしても、過去の高校教師の目から見て、小学校の先生方は忙しすぎますね。
少しでもお手伝いできれば幸いです。
 授業に際しては、考えられる限りのことを考えつくし、シミュレーションを頭の中でやって、その上で、実際の授業は「出たとこまかせ」というのが私のスタイルでした。今回も、あれも話したいこれも話したい、とワードでメモを作ってプリントし、その上で、現場で35分くらいで、という要望に合わせて、出たとこまかせでやってきました。
 ワードで作ったメモを公開します。このメモの、半分も話したのかなぁ。私がどんな話をしたか、想像してみてください。
少し長いですので、気合を入れてお読みください。

★1 こんにちは
 都立の高校で30年くらい理科の先生をしていました。今回、理科のお手伝いをするということで、君たちと一緒に勉強できることになりましたので、初めに自己紹介をします。
 昭和23年生まれ。「団塊の世代」とよばれる人口の多い世代です。
 左足が不自由ですね。ポリオ後遺症で「左下肢弛緩性まひによる歩行機能損傷」という4級の障害者です。
 ポリオという病気はウイルス性の伝染病で、私はワクチンなどまだない、昭和24年の流行で満1歳の直前に感染しました。体がウイルスと闘っている間、風邪のような熱が出て、その後病気そのものは治るのですが、ウイルスが神経細胞を傷つけてしまい、症状が後に残りました。(後遺症といいます)。
 現在はワクチンがあって日本中の赤ちゃんが予防接種を受けるようになりましたから、もう日本では根絶された病気となりました。君達もきっと赤ちゃんの時にワクチンを飲んだのではないでしょうか。スプーンで口から飲むのですが。

★2 障害のなかみ
 脳から筋肉に向かう運動の命令が脊髄の下で左足へ分岐するところがウイルスに侵されてしまいました。左足には脳からの命令が届きません。ところが左足から脳への温度感覚、皮膚感覚(痛い、かゆい・・・)はちゃんと伝わります。不思議なものですね。

★3 その結果・・・
 左足の筋肉は命令が来ないのですから、ゆるみっぱなし。体重を支えることができません。使わない足は成長も鈍いのです。左足は右足より6cmも短いのです。

★4 対策
 「補装具」(ブレース(brace))を使って体重を支えます。でも、基本的に左足は「棒」です。

★5 すると?
 ●左足に体重をかけるときは、体の重心が左足の真上になければなりません。体が揺れます。腰への負担が多くて、腰堆の老化が進み、腰痛もちになってしまいました。
 ●「行けば戻れる」とは限りません。左下がりならいいけれどが、右下がりはダメなのですね。
 ●坂はだめなんです。階段の方が足への負担は大きいのですが楽なんです。下り階段はこわいんです。必ず右手でてすりにつかまりたいんです。てすりの無い階段では足がすくんで動けなくなります。
 ●エスカレーターの右をあけるのがマナーだなんて、誰が決めたのでしょう?とても身勝手なことだと感じます。私の場合は右手でベルトにつかまりたいのです「動く板」と「止まった地面」の間を渡らなければならないのでその瞬間がものすごく不安定なのですね。右手でつかまっていたいのです。右足が不自由な人なら左手でつかまりたいでしょうね。
 いろんな人がいるんだ、ということを想像して下さい。
 ●「またぐ」というのはまったくダメです。雪の中を歩くのは「またぐ」歩き方ですね。敷居(お寺なんかの「敷居」って高いですよね)またげません。バス、飛行機、列車、新幹線・・・の横並び座席の恐怖。トイレへ行きたくても、途中下車したくても、「またいで」いかなきゃならないでしょ。体育館のシート。フワフワの床面。布団の上も歩けません。
 ●「滑る」こともまったくダメ。氷、ワックス、濡れた廊下・・・。滑ったら倒れるまで止まらない。
 ●私には「急ぐ」という言葉がありません。いつでもゆとりをもって行動しています。「ぎりぎりになったら走ればいいさ」といわれても困るんです。
 ・グループで行動すると、どうしても「急ぐ」ことがおきますよね。ですから私はいつも「ひとりで行動する人」です。
 ・目の前の信号が青だったら渡りません。じゃあ、いつ渡るんでしょう?もちろん青信号を渡るのです。今、目の前の信号が青でも、その信号がいつ青になったかは判りませんね。渡り始めたら、交差点の途中で点滅が始まって、赤になってしまったら、どうします?君たちなら走るでしょう。私は走れません。だから、そんな立ち往生をしないために、私は「自分の目の前で青になった信号」しか渡らないのです。
 ・自分が急がなければならないような状況にならないように、いつも考えながら行動しています。

★6
 一つ質問。左足が不自由な私が、絵を描いて展覧会に出したり、歌を歌ったりしたら、それは「障害を超えて頑張った」ということになるのでしょうか?
 全然関係ないですね。それはできることをやっただけ。左足とは無関係。
 「障害者」という言葉でひとくくりにして「何もできない人」のように思ってはいけませんね。
 別に、障害者でなくても、誰にでも「できることとできないこと」があります。
 誰でも、できることをするのです。できないことはできないのです。
 ただ、できることとできないことの「境い目」がどこにあるのかはなかなかわかりません。
 ですから、自分にできることはどんなことなのか、可能性の「限界に挑戦」してみないと、その境い目は分かりません。自分にはなにができて、なにができないのか、その境い目を求めて限界まで挑戦する、このことは障害者だろうと健常者だろうと、全く同じ、何にも変わりませんね。あれはできる、あれはできない、と、やってもみないで、簡単に自分をきめてしまってはいけません。なんでもかんでもやってみましょう。決めるのはそのあとでいい。
 三重苦を抱えたヘレン・ケラーさんが「不屈の努力によって障害というマイナスを克服した」「頑張って努力した」というのが日本人は好きですが、そうかなぁ?
 ヘレン・ケラーさんは視覚を使えなかった。だからこそ触覚の可能性を開拓して、フル活用して、世界を「みた」のです。障害があるからこそ、そこまで触覚を使いきることができたんですね。ヘレン・ケラーさんはできないことをしたわけではありません、自分にできることをしたのです。

「障害があるのに」ではなく「障害があるからこそ」と考えてみましょう。
「障害を乗り超えて」といいますね。その言い方変ですね。
「障害があるからこそ」「障害と共に」と読みかえてみましょう。

 私は、この左足の障害があるからこそ、今ここに立って、君たちとお話しすることができたんですね。これは障害のおかげ。障害に導かれ助けられているのです。

★7 ところで
 「障害」ってどこにあるんでしょうか。
 私が今の社会で少し不自由さを感じてしまうのは確かです。「またぎこすべき壁(バリア)」があるからですね。
 ひとはみんなそれぞれいろいろな力を持っています。泳げる人もいれば泳げない人もいる。走ることの好きな人もいれば嫌いな人もいる。近視の人もいれば遠視の人もいる。理科の得意な人もいれば苦手な人もいる・・・いろいろなひとがいて、それが当たり前。みんな同じなんていうことはありえませんね。みんないろいろだからこそ、みんなが大事、みんながそれぞれ、ただひとりの人になるのですね。みんな違ってみんないい。
 いろんな力があって、それぞれの力には幅が広くあって、その少しだけはじっこの方にいる人は、いろいろな「壁」に悩まされます。それが「バリア=壁」なのですね。
 そのバリアを崩し、壁を取り払うことができるのは、いわゆる「健常者」の側だと思うんですよ。障害(バリア)を持っている(つくっている)のは、いわゆる健常者なのではありませんか?

 障害者とは健常者が無意識のうちに作ってしまった「障壁」=「障害」にさえぎられている人のことなんです。
 障碍者という言葉が最近よくつかわれます。「碍」という字は「さまたげる」という意味です。「障壁にさまたげられて不自由をしている人」という意味ではこの「障碍者」という言葉はよい言葉ですね。

 バリアフリーという言葉を最近よく聞きます。障害者や、お年寄りや、お腹の大きなお母さん・・・にとって使いやすいということは、実はすべての人にとって使いやすいということなのです。
 元気な人は多少のバリアがあろうがなんだろうが気にせずまたぎこしていってしまうわけですが、私たちはそのバリアに引っかかってしまうわけです。ですから、すべての人に使いやすいデザイン、つまりユニバーサル・デザインができるといいですね。


   「どっちが『障害者』なんですか?」
   「障害(バリア)を作っているのは誰ですか?」
   「みんなでバリアを低くしましょうよ」

◆ヘレン・ケラーさんの言葉「障害は不便である。しかし、不幸ではない」。
これは真実です。決して障害は不幸ではありません。でもね、障害が不便であるというのも真実です。小さな不便を積み重ね、積み重ねして、やっぱり疲れてくるんですよ。なるべく楽に生きたいよね。

◆高校教師として務めた最後の学校でのことです。
私が歩いて来ることに気づいた前を行くある女子生徒が、通路のドアを開いて待っていてくれました。「ありがとう」といってドアを通るそのときに、その生徒は「急がせてしまってすみません」と返事をくれたのです。
時々ね、相手に親切をしているつもりが、かえって相手に負担をかけてしまうことってあるんですよ。
車いすを押してもらってのんびり散歩をしていたら、車がどうぞお先にと道を譲ってくれた。そのせいで、逆に力いっぱい急いで押して渡らなければならなくなった、ということだってあるかもしれません。

◆一緒に想像してみましょう。
 視覚障害のかたが、白杖をもって下りのエスカレーターに乗りました。白杖は一段先に置いています。左手でベルトに触っています。やがて、エスカレーターが下の階に近づくと、ステップの高さが縮まりますから、白杖が浮きます。ベルトは一定の傾きのままだったのが、すっと水平に変化していきます。この変化を感じとって、ころばないように足を踏み出さなければなりません。かなり緊張をしていらっしゃると思います。失敗すれば自分が転ぶだけではなく、後ろから上がってくる方たちが将棋倒しになってしまいますからね。
 その緊張感の中、空いている側をどんどんあるいて下りてくる人がいるとしましょう。
 人がエスカレーターを歩くと、ステップはかなり揺れるものなのです。気づいているかな? 下りるタイミングをはかっている人にとって、ゆさゆさ揺らされるということは怖いことですね。集中が破れてしまいそう。
 いつもいつも、視覚障害の方が乗っているわけではありません。でも、そういうことがあっても大丈夫な乗り方、というのが本当の思いやりのある優しいマナーなのではないでしょうか。
 ベルトに右手でつかまりたい人、左手でつかまりたい人、揺れては困る人、いろんな人がいて、だれでも安心して乗れるようにみんなで工夫して協力したいですね。

◆では、何回かの実験を一緒に勉強しましょう。よろしく。

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