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コダカラソウに花芽がつきました。
初めてです。
写真のような状態が3つ。
以前、フチベニベンケイの花をご紹介しました。とってもスローペースな展開でしたが、コダカラソウの場合はどうなるのでしょう?楽しみにしています。
フチベニベンケイもコダカラソウも(セイロンベンケイソウも)、みなベンケイソウ科です。
生物的にはCAM(Crassulacean Acid Metabolism)植物といって、水の少ない砂漠のような環境で光合成をおこなえるように適応しています。
暑い昼間に気孔を開いて二酸化炭素を取り込もうとすると、気孔から水分が逃げてしまいますので不都合です。
そこで、夜間に気孔を開いて二酸化炭素を取り込み、これを有機酸にして保存しておきます。日中には気孔は開かず、有機酸から二酸化炭素を取り出して光合成に使うのです。すぐれてますね。
それはまぁ、それとして。
このコダカラソウを頂いてきて何年たつかな。やっと花が見られるようです。嬉しいな。
そうそう、全体像はこんな感じです。
園芸用のコテのような葉が、十字対生についています。
そのてっぺんに今、花芽がついているわけです。
これからずっと、見守り続けて、時々ご報告します。
目と口、というパターンです。
ヒトという生きものは、全くのランダムな図形のなかに「パターン」を読み取ることのすきな動物です。
星空に「星座」をみる、とうのはその典型的な表れでしょう。
星座を読み取ってしまうことに比べれば、この、落葉に顔を見てとる能力は、ヒトという動物の生存能力に寄与してきたのかもしれません。
非常に強く私たちは「顔」に反応します。
それが、敵を認識する上で大事だったのか、社会性を持つようになって必要が生じてきたのか、それはよくわかりませんが、なんにせよ、進化の途上で獲得した能力なのでしょう。
自分の中にあるこういう能力・傾向を面白がってしまう私です。
先日、ヒメツルソバの写真を再度撮りにモンパルを走らせていた時のことです。
どこかに書き込んでおこうと思って忘れていましたので、ここにちょっと書いておきます。
◆11月21日(土)でしたので、学校は休み。小学生が二人、段ボール箱を解体して、ガムテープで組み立てて「翼」のようなものを作り、三輪車だと思うのですが、そこに組み付けて飛行機のようなものを作っていました。ブ~ン、とか、ごぉ~とかいいながら走らせるんでしょうね。なかなか創意に富んだおもちゃを自作していました。ウムウムと思いながら、走っていたら、「あ、電動車いすだ、カッコイ~」と叫んでくれました。嬉しくなって、思わず手を振ってしまいました。
小学生も高学年になると、ちゃんと電動車いすという認識枠を持っていて、あれって意外とかっこいいよな、とか思っていたのでしょう。うれしいことです。
◆小学生の声を聞いてしばらく、今度はウォーキング中のご夫婦。年齢的には私よりそう上ではないと拝見しました。見知らぬ方でしたが、奥様が道の向こうから会釈してくださって、びっくり。こちらも会釈を返してご挨拶。気さくな方だ、と思いながら通り過ぎた直後、ご主人の「あれ、いいなぁ」という声。ニヤ。
続けざまに、嬉しくなった次第です。
電動車いすの宣伝隊というわけではないのですが、赤い目立つモンパルで走っている成果でしょう。
もっと気軽に使えるといいですね。いったん、モンパルで外へ出れば、あちこちで降りてみて花を眺めたり、お店を覗いたり。それなりに足も使います。足腰が弱ってきても、家にこもらず、気楽に行動できる道具として普及するといいと思います。
「車いす」という言葉に引っかかるかもしれませんが、気にせず、派手に使えばいいんです。
少しだけ要望を付け加えると、一瞬の出足、付加的パワーがほしい、という点です。
普通に歩いておられる方も、何かの拍子に、一歩二歩急ぎ足になって「事態」をぬける、ということはありますでしょ。横断歩道の最後とか、人・自転車・自動車とのすれ違いざまとか、ね。そういう、一瞬の加速がないんですよ、で、ちょっと物足りない。
道路交通法上の扱いが車になるかもしれませんが、時速10kmか15kmが出ると、非常に使い勝手がいいんですけどねぇ。
と、そんなことを考えております。
左がツマグロキンバエなのは確かですが、右のハエがちょっと自信ないです。ツマグロキンバエではないでしょうか。
ホソヒラタアブがやってきて、ホバリング。
花にとまる直前です。
ミツバチもいました。後脚に花粉団子を付けています。
セイヨウミツバチかどうか、ちょっと黒っぽい気もします。
ニホンミツバチかなぁ。
ツマグロオオヨコバイは蜜を吸う気はないらしい。
花に尻を向けて、茎から吸汁しています。
右がよくわかりませんがアシナガバチであることは確か。
今の季節だとフタモンアシナガバチの可能性は大きいと思います。
どの写真もピンボケで、恥ずかしいのですが、じっと待ってくれるような状況ではないので、フラッシュに頼って、とにかく撮りまくった成果です。
人の目にはさして目立つ花ではありませんが、昆虫たちにとってはきっと、すごく目立っていて、ここにおいしい蜜があるぞ、と呼んでいるのでしょう。
鳥の好物は空港の虫? バードストライク対策に悪戦苦闘
アサヒコム 2009年11月25日写真:草刈り機が通った後にはたくさんのカラスが集まった=福岡市の福岡空港
航空機のエンジンなどに鳥が衝突するなどして運航に支障をきたす「バードストライク」が福岡空港や佐賀空港で多発している。福岡空港は10、11月と滑走路脇の緑地帯の草刈り時期となり、虫目当てにいつもの数倍の鳥が降り立つという。「草を刈らないわけにもいかない」と、担当者らは頭を抱える。
10月中旬、福岡空港の滑走路。離着陸を繰り返す航空機の脇で、草刈り機が走り回る。機械が通った後ろの草地には、カラスやハクセキレイ数十羽が群がり、一心不乱に地面をつつく。耳をふさぎたくなる航空機の音にも、おびえるそぶりはない。
「虫を狙っているんです」。福岡空港事務所の春名昭宏次長が説明する。空港では年3回、2カ月かけて草刈りをする。外観を良くするためと、侵入者が隠れにくくする保安上の目的がある。草を短く刈ると虫が見つけやすくなるため、鳥が舞い降りてくるという。空港周辺には住宅街や「博多の森(東平尾公園)」があり、そこから集まってくるらしい。
・・・後略
11月16日付の朝日歌壇で、トラクターが去った後にカラスが土をついばんでいる、という歌を紹介しました。
評者が、強く社会的な読み込みをしているのを批判して、私は、トラクターが土をひっくり返せば虫が出て来て、それをカラスは狙っているのです、と書きました。
今日のアサヒコムの記事を上に掲げました。鳥がむなしく土をついばむ、なんていうことはないのでして、餌がある、ということを知っているから集まるのです。
ちょっとしつこいかな、とは思いましたが、こんな記事を読んで思い出してしまったので書きつけておきます。
2009.11.23付 朝日俳壇より
正論を聞かされてゐる寒さかな:(茅ケ崎市)古田哲弥
他人の正論、というものは聞きたくはないものです、確かに。
それとは別件になりますが、人の想像力の産物としての「小説」を近年全く読まなくなりました、ワタクシ。
それより、理数系の雑誌や書籍で、論理の筋道に沿って自然の姿を知る読書に無上の喜びを感じてしまいます。そういう「正論」が大好きです。
2009.11.23付 朝日俳壇より
紅葉見ゆる窓側いつも妻の席:(松本市)唐澤春城
稲畑汀子 評:紅葉の美しい頃の旅。妻への心遣いが想像される。
在来線であれ、新幹線であれ、季節を問わず、夫としてはまあ大抵妻を窓際に座らせませんか?
ボックスシートなら、向かいの人が立っても、窓際にいればあまり大きく膝を譲る必要もなし。
通路を人が往来する時に、妻の肩に当たったりしないように、自分が通路側に座るのはごく当り前ではなかろうか、と。
ちがうかなぁ。
2009.11.23付 朝日俳壇より
神の留守石段のぼるハイヒール:(広島市)金田美羽
かかし 評:「神の留守」がハイヒールの靴音に、乾燥感をもたらした。絶妙。
2009.11.23付 朝日俳壇より
いつまでもどこまでも雪かと思ふ:(奈良市)杉田菜穂
大串章 評:雪無限。「いつまでも」が時間を思わせ、「どこまでも」が距離を思わせる。
失礼。この評はなくもがな。何もいっていません。
かかし 評:雪は時空の無限感覚を引き出す。雪は降り続く。
これもまたなくもがな。作品を味わえばよい。
2009.11.23付 朝日俳壇より
手袋をはめて力をつけにけり:(横須賀市)佐藤博一
大串章 評:手袋をきっちりとはめ、強く拳を握ってみる。さあこれから!という感じ。
男というものは、どうも「もの」によって自我を拡大させがちなものです。
自動車に乗ると、自動車のパワーが自分のパワーのように感じて人が変わる、という方もいます。
オートバイ、ナイフ・・・いろいろと、ものによって自我を拡大させ、あたかも自分が強くなったように思いこみたがるものです。
革の手袋をはめて、拳を握り、手のひらを叩く、バシっと。なんだか自分が強大な闘争能力を持ったような気分になるんですよ。
そういう、ほんのわずかな気分の変化を詠んだのではないかなぁ。と思うのです。
2009.11.23付 朝日俳壇より
枯木立恐竜展は骨ばかり:(横浜市)秋田春風子
大串章 評:全長35㍍を超すものから、1㍍に満たぬものまで、恐竜の骨はさまざま。大小の骨を見ながら、恐竜たちが生きていた山河を想う。
山河を想うのかなぁ。
枯木立のごとき化石骨の林の間に立って、生物の栄枯盛衰を想うのではないかなぁ。
いえ、人により、どのような想いを抱くかは、それぞれです。勝手申しました。
2009.11.23付 朝日歌壇より
三億の子を産み捨てて湧き立たぬマンボウという母性悲しも:(東京都)野上卓
馬場あき子 評:マンボウが三億の卵を煙のように産み落とす海中の映像に注目。生きにくい条件を数で越えようとする悲哀を思う。
私の理解ではマンボウの産卵は「悲し」でも「悲哀」でもありません。
生物が自分の卵にたいしてどのような関わり方ができるかによって、産卵数は変わります。
マンボウは魚類ですが、通常、魚類より下等と言われてしまうサメの中には、受精卵を体内で育てるための一種の「子宮」を創出したものがいます。
繁殖に関する戦略をどのようにつくるのか。それぞれの生物が長い時間をかけて自分たちなりの方法を確立してきた。その歴史を読み、心動かされることはあっても、そこに、産み捨てなければならない母性の悲哀を読むことはないのではなかろうか、と私は思っています。
ヒトのオスが一回に放出する精子は億の桁に達します。それがヒトという生物のあり方です。
それぞれの生物がそれぞれの生殖戦略をつくりだしてきました。
動物、植物をとわず、どのようにして種を保ち続けてきたか、どのようにして進化を続けてきたか、の生殖戦略をしっかり見定める、それが生きものを理解する第一歩でしょう。
2009.11.23付 朝日歌壇より
草刈り機に代わって山羊が草を食むCO2は出ず静かなり:(奥州市)大松澤武哉
馬場あき子 評:多少ユーモラスに詠んで草食の優しさをにじませる。
草刈り機のエンジンは二酸化炭素を出すけれど、山羊の除草は「自然に優しい」。
のでしょうか?
草食動物は自分の消化酵素で植物の繊維を消化できません。ですから、微生物の力を借りて「発酵」させるのです。酸素の乏しい環境での発酵では、メタンが発生するものが多い。
そのために、草食動物の「げっぷ」がメタン発生源として無視できないことになっているのです。
牧畜の国ニュージーランドでは、国内で排出されるメタンガスの約45%が羊と牛のげっぷから出ているという話もあります。
メタンは二酸化炭素に次ぐ温室効果ガスともいわれていますので、手放しで「地球にやさしい」とはいえないかもしれません。
でもまぁ、草刈り機のエンジンよりはましかなぁ。
わかりません。
2009.11.23付 朝日歌壇より
地雷埋めしは人間なのに象の子は義足はかされ優しき眼をす:(千葉市)佐々俊男
馬場あき子 評:映像などで捉えたものと思われるが、下句の「優しき眼」によって所きらわず地雷を埋めた人間の愚行がいっそう浮かび上がる。
地雷という武器の「下劣さ」がここにあります。
人が死ぬほどのけがはさせない。脚が吹き飛ばされ重傷を負っても死なない。だから、負傷者を後方へ運ぼうとする、負傷者を見捨てて進むことができない兵隊の心理をついているのです。死亡させれば、戦闘後に遺体の片づけをするのでしょうが、そうはいかないようにして、相手の戦闘力を削ぐことを狙っている。
こういう下劣な武器が今もなお大量に埋め込まれたままです。今もなおたくさんの障害者をつくり続けている。
こういう下劣な武器を造る「もの」こそ下劣なのです。
人間って・・・どこまで・・・
2009.11.23付 朝日歌壇より
花好きの母がいらぬと言い放つ沈黙長し手術前日:(横浜市)滝妙子
歌の内容には立ち入りません。深い意志に敬意を表します。
ただ、最近、病室に花をお見舞いにもってきてはいけない、という病院も増えております。
衛生上の配慮です。手術という深い傷を負って、外部からの侵入に対して非常に弱くなっている「体」にたいして、花は必ずしも「清潔」ではない。そこのところはご配慮ください。
お見舞いに行く時は、その病院が花を持ち込むことを許しているかどうか、お確かめになってから。
2009.11.23付 朝日歌壇より
君のいる付近を指でたどってる東北線は時刻表の上:(郡山市)畠山理恵子
永田和宏 評:時刻表の地図を辿りながら、想いは君と共に旅にある。
単に日本地図では空間的な位置しか想像できませんが、形はゆがんでいても、時刻表の地図だと、「今」どこにいるか、という時間的な位置まで想像できるわけです。
旅好きの人は時刻表だけでかなり楽しい仮想の旅ができますが、この場合は「君への想い」が時刻表上での旅を味あわせてくれているのでしょう。
さっきまで紙を次々繰り出した箱が途端に洞窟となる:(郡山市)畠山理恵子
時刻表上の旅と関係あるかどうかはわかりませんが、いつまでも限りなく続いて出てくるようなつもりでいるティッシュペーパーの最後の一枚を引きぬいてしまうと、思いもかけない「空虚」がそこに現れるのですね。
なにか、ハッとする瞬間だったのでしょう。
ところで、ティッシュペーパーが一枚引っ張ると次が出てくるが全部つながって出てくるわけではない、という仕組みについて考えたことはおありでしょうか。
下の図をヒントにお考えください。
2009.11.23付 朝日歌壇より
身障者右マヒ杖歩行なんのその「進印(ススムジルシ)」の私ですから:(加古川市)田中喜久子
高野公彦 評:注に「進は亡夫の名」とある。
「歩けよ」の亡夫の声きき外に出る哀しきまでに深き青空:(加古川市)田中喜久子
{馬場あき子 選}
最初の歌を読んだときには、いろいろ体は差し支えもでてきたけれど、頑張っておられるんだなぁ、とそれだけでした。
ところが、馬場氏の選の歌を読んで、思わず、ああ、という気持ちにさせられました。
御夫君の声が支えておられる。籠っていてはだめだ、外に出て、歩いて、心と体を養生してくれ、という声がするんですね。「進印」は作者の中に生きている御夫君であられる。
つらかった。夫婦って、かくも深い絆で結ばれうるものなのですね。
2009/09/21
5時起床着がえるだけで一時間ときになみだす半身マヒは
2009/10/19
三秒だけ待って下さい履けるのです飛んできて靴を履かせないで
2009/11/08
ものかけぬは胸のふさがるここちしてキンモクセイのかおりをあびぬ
2009.11.23付 朝日歌壇より
古希迎へ新しきこと始めんと思ひ続けきて亀飼ひにけり:(横浜市)谷川無風
イヌやネコに比べて、亀には感情移入が少ないし、飼育も手がかからない、とはいえます。
ただ、亀の寿命は長い。
「飼育」には常に責任が伴います。やはり、最後まで立ち会ってあげるべきなのではないかと。
我が家には今、高齢と言ってよい猫が2匹。私たち夫婦は60代に入ってちょっと。
猫ちゃんたちと最後まで付き合いたい。それがもし終わったら、もう年毎に完結する昆虫たちに遊んでもらおう、と話しています。
変化に耐えられなくなったらおしまいヨ、とはうそぶき、常に新しいことに挑戦したいとは思います。でも、自分の命の長さも勘案しないといけないな、と思う年齢に達しています。
無邪気に、無制限に、60なんてひよっこよ、まだまだこれからよ、とは言えないと思っています。
2009.11.23付 朝日歌壇より
人の話聞かずにおのおの質問し後にまわせば「無視かよ」と言う:(神奈川県)桑山俊昭
佐々木幸綱 評:授業だろうか、講演、講座のたぐいかもしれない。今ふうの「無視かよ」という反応にかちんとくる作者。会場の空気がリアルに伝わる。
これは授業だと思いますね。私にも似たような経験はあります。
いつの頃からでしょうか、一対多の授業は非常に成立しにくくなってきました。
先生の話は聞くべきだ、というような規範が消えてしまったのです。
テレビを見るのと同じ感覚で、教師の話を聞いている。自分に向けて話されているわけではないと思っている。
いっつも「おれはテレビじゃない。生身の人間がここに立っていることの意味を考えろ」といっていましたっけねぇ。「授業はライブなんだ」とも。
机の間に入っていって、まるで顎でもひっつかむようにして、顔をこちらに向けさせて「君に話しているんだぞ」というようにしないと、話が流れないのです。辛かった。
それでいて、生徒は教師を自分専用のもののように考えていて、質問をしたときに、こちらが授業の流れの中でその質問を使って少し先で利用しよう、とか思ってちょっと待った、すぐ先で答えるといっても、「無視された」「ムカツク」と来るわけです。
講演、講座のたぐいなら、一応、話を聞くために行くわけですからそう「無視かよ」はあからさまには出ないでしょう。
やっぱりこれは授業じゃないですか。
美富士橋から富士山方向の眺めです。
大きなマンションのあたりでしょうか、富士山の方向は。
左手にはマンション群が並んでいますがカット。
新幹線のN700系でしたか、が走り去っていくところです。
私が高校生の頃ですかね、新幹線開通。修学旅行で新幹線など望むべくもなく、東海道線でトコトコ。途中、駅と距離の関係で、こちらが新幹線を抜くシーンが生じて、みんなして、わ~い、新幹線より早いぞ~と叫んで遊んだものでした。
上の写真新幹線の左側は横須賀線電車の屋根です。
この日は「鉄っちゃん」はお一人だけ。
私は「純粋の鉄」ではないので、合金の鉄ですね。ですから「鋳鉄っちゃん」か「ステンレススチール鉄っちゃん」ということにして写真を撮ってみました。
横須賀線です。
貨物船の線路だったところを走っています。(いまも、深夜に貨物列車が走りますが、本数はひどく少なくなりました。)
もう一回、N700系。
モンパルで出かける時のカメラは、コニカミノルタのZ3。
一眼レフに比べるとレンズの分解能に物足りなさが残りますが、軽いし、レンズ付け替えなしでズームが結構効くので良いカメラです。
コニカミノルタの技術陣はソニーに移って、αシリーズのカメラを作っているはずです。
個人的な好みでオリンパスを使っていますが、ソニーもいいなぁ。
家の目の前が東急多摩川線。なんとなく「鉄っちゃん」気分が分かるかかしです。
美富士橋公園で撮影した、種名が分からないと書いた花に、コメントを頂いて、ヒメツルソバではないか、というご指摘を頂きました。
「季節の花300」といういつも利用しているサイトでみたら、全くその通りでした。
一応、前記の記事を書く時も「花300」を覗いたんですけれどねぇ。見つけられませんでした。まだまだ花を見る時の「概念枠」が狭くて、みんなはみ出してしまうんですね。検索って便利ですが、ある程度のポイントを押さえていないと、あっても見えず、引けども出会わずになってしまうのでした。
改めて、モンパル走らせて行ってきました。今回は葉っぱの模様に注目です。
葉っぱに「ハの字」というのか「Vの字」というのか、黒い縞模様があります。これですね。
丸い葉の植物と混生していて、何が何だかわかっていなかったのですが、こうやって見るとわかります。
よかった、これで一件落着、ですね。
花300から引用します。
姫蔓蕎麦 (ひめつるそば)(Smart weed)
・蓼(たで)科。
・学名 Polygonum capitatum
Polygonum : タデ属
capitatum : 頭状花序の
Polygonum(ポリゴナム)は、ギリシャ語の「polys(多い)+ gonu(節)」が語源。
茎の節がふくらんで関節のように見えることに由来する。
・ヒマラヤ地方原産。
・ピンク色の小さい花がつぶつぶ状に球形に集まって咲く。だいたい四季を通じて咲くようです。
・明治中期に渡来。
・庭によく植えられる。ときどき群落しているのを見かける。
・葉っぱにはしましま模様が入る。秋に紅葉する。
なるほどねぇ。タデ科なのか、丸いアカマンマ(イヌタデ)みたいだ。などと思って納得。
ところがどっこい。さて、さて。物知らずにも程があるという恥を晒します。
ヒメツルソバっていうのか、ソバって何科だっけ?
そば【蕎麦】(古名「そばむぎ」の略) タデ科の一年生作物。原産地は東アジア北部とされ、中国・朝鮮から日本に渡来。ロシアに多く栽培。多くの品種があり夏ソバ・秋ソバに大別。茎は赤みを帯び、花は白。収穫までの期間が短く、荒地にもよく育つ。果実の胚乳で蕎麦粉を製する。「蕎麦の花」は 秋 。古今著聞集12「ぬす人は…―を取りてぞはしりさりぬる」[広辞苑第五版]
まいった。ソバがタデ科だったとは。ソバ畑に一面真っ白な花、というような光景は見たことがあるんです。もちろんソバの実も知っていますし、そば殻枕も使ってました。
いやはや、勉強いたしました。
有難う御座居ました。今後とも何卒、どんどん、おしえてください!
知らなかったことを知ることができるというのは、純粋な喜びです。うれしかった。
お恥ずかしいことです。ガーベラか?などと書いたあの花です。
花そのものの名前は分かりません。キク科の花としておきます。
さて、この花、実はその姿を見て「?」と思ったとのですね。
これは近所の都立高校のフェンスからはみ出してきたものです。
一見、「ん?蔓性のキク?」となってしまったのですよ。
葉は蔓と紛れているし、上の方から垂れているし。
なんだなんだ、とモンパルを減速して近づいて行ったのでした。
花だけをクローズアップしていてはダメで、植物全体の「姿」を見なければいけない、ということはわかってはいるんですが、植物に比較的弱い私としては「ここをみればわかる」というポイントがつかめていないんです。昆虫の場合だと、可能な限りのアングルで、このあたりの特徴さえつかんでいれば検索できるよな、というポイントがほぼ分かるんですけれどね。
さて、花に近づいていけば虫がいる(ことが多い)。
今回は、ルリマルノミハムシがいました。
小さいんです。4mmくらいかな。
で、「ルリ」といいますが、正直「クロ」です。
「ハムシ」ですが、こうやって花の花粉を食べているのではないでしょうか。
授粉の媒介者になってくれます。
花にいる真っ黒に輝く小さな昆虫で、体の脇に後脚がちょこっとはみ出している、というのがパッと見の判定基準。慣れればすぐわかります。
どうしても、クローズアップに傾きがちな私でした。
新幹線の上をまたぐ美富士橋という橋があります。
実際、以前は空気の澄んだ日はここから富士山が見えたものなのですが、最近は川崎側ににょきにょきとマンション群が建ってしまい富士山はほとんど見えなくなりました。代わりに、最近目立つのが、新幹線を正面から撮影できる場所ということで、結構な機材を持った「鉄っちゃん」たちです。
お散歩途中の親子が新幹線を見て、「しんかんせ~ん」と叫んでいるのはかわいいけれど、おじさんたち、お兄さんたちが並んでいるのはちょっと雰囲気が違うなぁ。
鉄子さんはあまり見かけません。
橋のそばに児童公園があって、入ってみました。
フヨウの実ですね。
柿もみのっていました。
ガキたちよ、ぜひかじってみなさい。いい経験になるから。
渋い大人になるために。
こんな花が地面近く低いところにたくさん咲いていました。
何気なく千日紅かな、と思ったのですが、この粒々は違いますねぇ。
なんでしょう?
調べがつきませんでした。教えてください。
ここに解答欄を作っておきますので、教えていただいた日には、書き込むことにします。
解答欄:[ヒメツルソバ(11・24記)]
コメントを頂き、再度確認に行ってきました。その話については稿を改めます。
結局、3匹飼育してしまったのです。飼育といっても大量のボウガシの葉と一緒にケースに入れておいただけですが。
さすがに丹念に面倒を見てやろうともせず、一応毎日覗いているだけ。
そうしたら、3匹相次いで蛹になりました。オミゴト。
繭には幼虫時代の毛をつけてありますね。やはり、これが毒毛なのでしょう。それで防御態勢を作っている。
中の蛹がぼんやり見えます。
光の関係で糸が光って美しいですね。
こちらは、ケースの蓋ではなく、ボウガシの枝で蛹になりました。
これで3匹めでたく蛹。
羽化したら、庭なりへ放すことになって・・・繁殖するのかなぁ。
トホホな気分もあるんですが、まぁ、いいやぁ。
お互い生きてるんだものなぁ。
幼虫の写真は下で見られます↓
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/200 9/11/post-130f.html
2枚の鏡を角度を変えられるように張り合わせました。合わせ目から光が入り込んできては紛らわしいので、合わせ目の向こうは黒い紙を当ててあります。
この写真はおよそ90度。
ご存じかと思いますが、90度の鏡は「変」です。
写っているカメラのグリップは右手用です。それがあたかも向こう側に実物がこちらを向いているかのように写っています。ふつうの鏡の「左右逆転感覚」が成立しません。
これ、入って行った光が完全にその向きで反対方向にかえって来るという性質の画像的な現れです。自転車や道路標識の反射板は、3枚の鏡を90度で組み合わせた構造になっていて、ヘッドライトなどで照らした側へ光を返すようになっているのです。アポロが月面に置いてきた反射鏡もこういう構造です。
鏡の角度を小さくしました。
鏡の間が暗くなってきましたね。
鏡はとてもよく光を反射しますが、100%の反射ではありません。90何%かの反射率です。正確な数字ではありませんが、例えば反射率が90%としたら、10回反射すると、0.9の10乗ですから、0.35くらいになり、入射光の35%しかかえってこないことになります。暗くなりますねぇ。。
Vの字面で反射ながら入っていって、ある程度はかえってくるのですが暗くなってしまう。
ほらもう、ほぼ真っ黒でしょ。
鏡で作る漆黒。です。
鏡で黒を作るというのは結構意外だと思いますがいかがでしたでしょうか。おたのしみいただけたでしょうか。
◆月面に「漆黒の丸」があったら、そこには光が返ってこないメカニズムがある、とそこから穴の解析が始まったのではないかという私の想像から連想した理科実験でした。
◆光をよく反射するもので黒がつくれるというのは、それなりに身近にもありますよ。
・昔、ある温泉で、牛乳風呂があるというので見に行きました。牛乳の香りはするのですが、湯は黒いんです。なぜかなぁ、と考えた末、これは脂肪球での反射によって光が水中に入って行ったまま出てこられなくなったのだ、と気づきました。
脂肪球がいっぱいあれば、反射によって光が水の中深くへ入っていくことが妨げられて、はね返されて白く見えます。牛乳の白ですね。
ところが、脂肪球が適度にまばらになってしまうと、こんどは脂肪球での反射によって光が水の中に入って行きっぱなしになってしまうのでした。
・炭酸ガス入浴剤というものがあります。大きな錠剤型で、浴槽に入れると、重曹とコハク酸の化学反応で二酸化炭素が発生し、たくさんの泡ができます。
泡がたくさん発生している時は湯が白く見えます。泡による反射で光がかえって来るからです。
ところが、泡の発生の終わりごろ、泡はごく細かくなり、まばらになります。すると、短時間ですが、湯が真っ黒に見える時間帯があるはずです。え、まっくろだ、と思っていると、すぐその黒さは解消していきますけれど。
これは泡の反射で、光が湯の中へ入っていってかえってこなくなったからです。
・秋も深まって、虫たちが体温を上げるために日向ぼっこをするようになります。
チョウの中には太陽を背にして翅をV字型に狭く開いてとまっているものがあります。
上の一連の写真で、鏡をチョウの翅と思ってください。最後の写真で、鏡の間が黒くなってしまったということは、入って行った光が、鏡を合わせた空間内に吸収されたということですね。翅を半開きにして太陽光を受けると、入射した太陽光のエネルギーが効率よく吸収できて体温を上げるのに役立つということです。
翅を広げた方が受光面積が増えるような気がしますが、チョウの翅には体液は流れていませんから、翅が温まっても体は温まらないのです。翅を反射板として、鏡として使って、太陽エネルギーを体に集中させるのが効率の良い方法なのですね。
鏡2枚で実験できます。やってみてください。
これは商品名「NTカッター」の替刃です。10枚一組です。
左の写真では刃の背側を見ています。
「しろがね」といわれる銀とは違って、「くろがね」と呼ばれる鉄ですので灰色ですね。でもまあ、金属光沢があります。
白く光っているのは刃。
側面に刃を折るための溝が刻んであります。
さあ、この刃の反射を利用して漆黒を観察します。
10枚重ねた刃です。
いかがでしょう。
上の方にかすかに刃が識別できますが、中央付近のジャストピントのあたり。
まっくろでしょ。刃がV字型に並んでいるので、その刃に当たって反射した光は中へ中へと入っていって、かえってこないのですね。
そこで、ギラリと光るナイフの刃が重なると漆黒になる、のです。
この撮り方だと、刃は識別できますが、刃の間が真っ黒。
刃についたワックスかなにかが白く見えます。
そう珍しいものじゃなし、今度、カッターナイフの刃を買ったら、ぜひ10枚まとめて観察してみてください。
この黒の質感は、ビロードのような感じです。なんだかビロードのようなものなのかな、と触ってみたくなりますが、鋭利な刃ですから、お気をつけください。けがをします。
◆実は、大学生くらいの頃でしょうか、針を何百本も束ねて、その尖った側から観察してみよ、黒く見えるであろう、という物理か何かの本の記述を知ってはいたのです。
ですが、実行してみる気にはなりませんでした。
教師になって、今はなくなってしまった明正高校で生活化学の講座を担当した時に、色素・顔料を化学的に扱って身近な「色」の学習をしようという授業を構成したのです。その導入として、白と黒は色ではない、というところから入っていこうとして、このカッターナイフの刃を思いついたのでした。
白の方は二酸化チタン(レジ袋の白、油絵の具のチタンホワイト、m&m'sの色の下地など・・・)で導入しましたっけ。
なつかしいことでした。
◆朝日、毎日、読売三紙の10月25日付けのウェブサイトで「月の縦穴」発見の話が報じられました。
直径60~70m、深さ80~90mの穴だそうです。穴に差し込む太陽光やそれによる影の解析から推定されたものだそうです。また、穴の底には、横方向のトンネルがあるようで、月面基地に利用できるのではないか、などという話もなされていました。
また11月4日付の朝日新聞「天声人語」ではこう書いています。
・・・月探査機「かぐや」が撮影した月面の画像を詳しく調べたところ、直径60~70メートルの不思議な穴が確認された。かぐやは上空100キロあたりを周回していたから、カラスがアリの巣を探し当てたに等しい。
穴は普通のクレーターより壁が切り立ち、差し込む光の分析から、深さは約90メートル、底には広大な横穴が延びるとみられる。横穴は太古の火山活動が残したトンネルで、かぐやが見つけた穴はその天井の一部が崩れ落ちたものらしい。・・・
この穴の写真は下のサイトで見られますので興味がおありでしたらご覧ください。
http://www.isas.jaxa.jp/j/topics/topics/2009/1105.shtml
◆穴がいったん見つかってしまえば、その穴に差し込む太陽光や影の分析を始められますが、では、そこに穴があることに先ず第一に気づいたのはどうやってだったのでしょう?
それが今回の話の中心点です。
上にリンクしたサイトの写真を見るとよくわかるのですが、その穴は、周囲に比べて際立って「真っ黒だ」ということ、これが穴の発見のきっかけだったのではないかと想像しています。
「真っ黒」という出来事は「入って行った光がかえってこない」ということです。
入射光が全部かえって来る時が「白」、全くかえってこない時が「黒」、その中間なら「グレー」なのです。
入射光のうち特定の波長の光だけが返ってきたとき「色」がついて見えるのです。
ですから、白や黒は「色ではない」のです。
深い穴では、入射した太陽光が穴の壁で反射を繰り返して減衰しながら入り込んで行ってついにかえってこない、で真っ黒に見える、ということなのではないでしょうか。
詳しい分析では、太陽高度が非常に高い時、どうやら穴の底からの反射光があって、深さが推定できたようです。
とはいえ、詳しい分析を引き出す最初のきっかけは、この、「真っ黒け」という現象だったのではないでしょうか。
◆光をよく反射するものをうまく構成すると「黒」を作りだせる、という手軽な実験を、稿を改めてご紹介します。お楽しみください。
あか‐まんま【赤飯】イヌタデの別称。あかのまんま。[広辞苑第五版]
いぬ‐たで【犬蓼】タデ科の一年草。山野に普通で、高さ約30センチメートル。葉の基部の鞘状の托葉が茎を囲む。夏から秋、葉腋と茎頂に紫紅色の小花が穂をなす。アカマンマ。アカノマンマ。「犬蓼の花」は<季語:秋> 。[広辞苑第五版]
この赤い粒々が花で、萼が見えているのだと思います。どうも、中まで覗いてみたことはなくって、いかんなぁ。
実がなっています。実を包んでいるのは萼だそうです。
ままごとで、これを赤飯に見立てるというのも、すごい想像力ですね。
人間のもつ「見立てる」という約束事の能力って、すごいと思いませんか?恐ろしく抽象度の高い行為だと思うんですけれど。
ところで、イヌタデの「イヌ」は、利用されない、役に立たないというような意味でしょうが、とすると、役に立つタデもあるのか、と雑草図鑑を開いたら、
秋の田に生えるヤナギタデはマタデとかホンタデと呼ばれ芽生えを食用にする。
とありました。そうなんだ。私は食べたことがありません。
そこに、小さな幼虫。体長3mm程度でしょうか。
シャクトリムシみたいな恰好をしますが、どうも違うような気がしてならない。
ヤガ科>キンウワバ亜科>ウリキンウワバ(瓜金上羽)ではないかと思います。
よく似ているんです。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/youtyuu/HTMLs/020909c1.html
ここで見つけました。
ただですね、私が撮った写真の幼虫は頭が黒い。参考サイトの写真と違うんですねぇ。で、完全には自信がないのです。
ところで、上の写真、葉に穴が開いていますね。これは、この幼虫が食べたあと。
体のサイズに見合った穴をあけています。何とも可愛い姿です。
体が透けています。棘もくっきり見えます。
食べた葉っぱが体内を通過していく様が透けて見えているようですね。
美しい、の一語です。
翌10日、見に行ったら
もう成長して大きくなっていましたよ。
体に見合った大きさの穴をあけています。ね。
大きな穴が開けられるようになりました。りっぱリッパ。
背中にウンチがついていますが、ご愛嬌。
小さな虫は小さな穴をあけて小さなウンチ。
大きな虫は大きな穴をあけて大きなウンチ。
それが成長というものです。
人間だってそうでしょ。
子房の一部分が大きくなって翼になったものです。
今年はほんの2,3個しか結実しませんでしたが、それでも蕾から花へ、実へと観察できました。
初めのうち、翼は左右対称だったのですが、いつの間にか、片方の種だけが大きく成熟し、もう一方は小さくとまってしまいました。
左右対称のプロペラ状の翼で風を受けてくるくる回転しながら飛んで行くのが有名ですが、このように、片側だけが発達しても大丈夫です。
中央のところで二つに割れやすく、種一つと翼一枚のセットでもくるくるよく回転して風に乗ります。うまく風に乗れば遠く見えなくなるまで飛んでいってしまいます。
カエデを育てることの楽しみは、実はこのプロペラが飛んで行くのが好き、というのがあるんです、私の場合。
小学校の頃でしょうか、確か岩波の科学映画で「飛ぶ種」が幾つも紹介されていて、それを見てびっくりしたんですね。で、実物に目が行くようになった。そして、飛ぶ姿を自分の目で見て感動してしまった、というわけです。
見事な工夫です。
飛んで行った先が発芽・生育に適しているかどうかは分かりません。
むしろ、発芽できて生育できる種の方が少ないでしょう。大部分は無駄になります。
でも、常にそうやって可能性を探っているうちに、これまでは発芽生育できなかった環境が変化して生育できるようになるかもしれません。そのとき、人間はそれを見て「生育範囲を広げた」というわけです。
温暖化の影響で、昆虫や植物が北へ進んできた、というような言い方をしますが、その陰にはこういう活動がずっと続いているのです。
やあ、あったかくなったなぁ、じゃあ、北へいってみるか。ではないのです。
無駄とも見える生息環境拡大への努力が、時と所を得て成功するという結果なのです。
徒労への誠実。
生物はそうやって生きているのです。
むだだからやらない、などということは生物はしないものなのです。
郵便受けの中にいた、と妻が連れてきました。
う~む、なんだろう?
いろいろ眺めて、あちこち検索して「フサヤガ」の幼虫ではないか、とひとまず思うことにしました。
http://www.jpmoth.org/Noctuidae/Euteliinae/Eutelia_geyeri.html
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/youtyuu/HTMLs/fusayaga.html
上のサイトをみてそう考えたわけです。成虫も見られますので関心がおありでしたらどうぞ。
ところで、食草の上にいたわけではなし、おそらく蛹になる直前だろうということで、これは放置。
無事、蛹、成虫になれますように。がんばってね。
2009.11.16付 朝日俳壇より
デジタルの時計に秋思なかりけり:(高萩市)小林紀彦
大串章:柱時計の音を聞きながら、秋の物思いにふけったこともある。デジタル時計はいかにも素っ気ない。
私はいつも思うのですが、アナログは自然で滑らかで豊かでよいものだ、デジタルは人工的で不自然で、とびとびで貧しい、という二分法に強い不信と不快を抱いているのです。
(自然はよくて人工は悪い、植物はよくて動物は悪い・・・という二分法はもうやめにしたい。)
そもそも、私たち動物の神経系を伝わる情報はデジタルなものです。通常の電気回路のようなアナログ電流が流れているわけではありません。
視覚は光の情報を画素に分割してとらえます。それゆえに空間分解能に限度があって、視力となります。
ひょっとして、私たち人間という存在は、完璧なる「連続」には耐えられないのではないか。
どうしても、そこに切れ目を入れて、数えることのできるものにしないと、認識できないのではないか。
「時計」というものは連続的な流れに、切れ目を入れる道具でしょ。1,2,3・・・と数えられるように変換するものですね。
1,2,3・・・と指折り数える。
digit というのは「指」という言葉なのです。指折り数えるのがデジタル。
時を刻む、という行為そのものがデジタルな行為だと考えています。
デジタル時計がそっけない、というのは思い込みではないでしょうか?
アナログ時計なら秋のもの思いにふけることができるのでしょうか?
人の作った「とき」は、アナログでもデジタルでも同じように均質に流れていくのに、季節の流れは人の思いとは独立に、その歩みを進めていく。
秋は深まり、冬がきざし、夕暮れは早く、肌が冷える。
私はアナログ表示とデジタル表示の時計を両方使っていますが、どちらも標準電波を受けて調整する電波時計です。
物思うのは人であり、時計ではないと、私は割り切ってしまっています。
身も蓋もない話で申し訳ありませんでした。
2009.11.16付 朝日歌壇より
折々にあなたの歌をくちずさみ生きてきたのに、加藤さん逝く:(山形市)渋間悦子
分断の国を憂えし歌手逝きぬ「イムジン河(ガン)」を歌い広めて:(大阪府)金 忠亀
そんなにも急がなくてもいいものを加藤和彦振り向かざりき:(安中市)入沢正夫
同世代の私です。世代の経験を共有する部分もあることでしょう。
そして、私は、自殺はそう悪いケリのつけかたじゃない、と少し前に書きました。
そうか、きみは、それを選択したのか。というのが私の思いです。
自らの意志によって生き方を選択した人を尊敬します。
2009.11.16付 朝日歌壇より
黒アゲハ朝日を浴びて蜜を吸ういのち美し 子の一周忌:(糸魚川市)二上ユミ子
評などはつけていませんが、高野公彦氏の選です。
二上氏の過去の歌を下に載せます。
2009/05/18
待ちわびた季節が来たよ木の芽添え竹の子づくしの膳を供える:(糸魚川市)二上ユミ子
高野公彦 評:亡き子が生前に好んでいた竹の子づくしの膳を供える、哀しみの歌。昨年十二月十四日掲載の「逝きし子がアゲハになりて帰りくる庭の柚子の木冬囲いする」が思い出される。
2009/02/02
「使われていません」コール知りながらケイタイの子の名押してみる夜:(糸魚川市)
2008/12/14
逝きし子がアゲハになりて帰りくる庭の柚子の木冬囲いする:(糸魚川市)二上ユミ子
高野公彦 評:子供に先立たれた母親の悲しみの歌。蝶の好きな子だったのだろう。「冬囲いする」に万感の思いがこもる。
私は語る言葉を持ちません。立ちすくむのみです。
味読ください。
揚羽は亡き人の霊魂だという信仰というか、感覚が古代にはあったのではなかったでしょうか。大型のチョウの振る舞いは、人の心を揺さぶるものがあります。
2009.11.16付 朝日歌壇より
トラクター去りし夕暮れ静まりて百羽のカラス土を啄む:(徳島市)上田由美子
馬場あき子 評:索漠とした景が浮かぶ。いわば直接目にしない人にもありありと想像できる今日の現実なのだ。トラクターの掘り返した土はカラスの啄むにたる何を含んでいたろう。しかしそこに百羽のカラスは群がり啄むほかない。鳥の世界だけとも思えない切実さ。
「トラクターの掘り返した土はカラスの啄むにたる何を含んでいたろう」
それは、ほっ繰り返された土からはミミズやらネキリムシやらいろいろと出てくるわけですよ。
そのことをよく知っていて、カラスたちはトラクターの後を追い、畑仕事のおじさんの後ろについて歩くわけです。
しかたもなく、土をついばんでいるわけではないはずです。
評者はちょっと、「人間の事」に読み込み過ぎのように思えますが。
身も蓋もない言い方かもしれませんが、読み込み過ぎは興を削ぐ。
我が家の裏手にある、JRの土地に落葉が積もっていて、ふと気づくとザッザッと人が歩くような音がする。不審に思ってそっと眺めていると、鳩が落葉をひっくり返しながら進んでくるんですね。落葉の下に潜む虫を食べているわけです。
鳥はとっても頭がいい。ちゃんと餌の居場所を知っているのです。
11月16日(月)車で外出して、用事を済ませて帰宅したところ、門柱にルリタテハがとまっていました。
翅を開いて。
嬉しくって、先ずはとりあえず車の窓からコンパクトデジカメで2枚ほど撮ってから、そっと回って家の中から一眼レフを取ってきて、まだいるかな?と見れば、います。
ただ、翅を閉じてしまっていました。う~む。翅を開いて見せてくれないかなぁ。
と気長に待つことにしました。晴天とはいえ、もう気温も低くなって、そうそう元気に飛び回れるときではないので、一切干渉せずに待ちました。
そうしたら、開いてくれたんですね。上の写真。
きれいでしょ。
翅はほぼ無傷。美しいルリ色の模様を見せてくれました。
美しい鱗粉の並びまで見せてくれました。
内と外の落差が大きいですね。
今年は10月に2回、ルリタテハの羽化に成功しました。
なんだかなぁ、あの2匹のルリタテハのうちの1匹が挨拶に来てくれたような気がしてしまって。なんとなく、胸が熱くなってしまって。
個体としての存在をそろそろ終わりにして、生命の流れに回帰していく前に、ちょっと顔を見せに来てくれたような気がして。
帰宅した妻と写真をゆっくり眺めました。妻もそんな感情にとらわれたようでした。
二人して、心の奥に温かいぬくもりを灯してもらって、嬉しいね、嬉しいね、と。
あの個体とは限らないんですけれどね。ただ、チョウを飼育して、羽化に立ち会うと、こういうことにも出会うんです。どの蝶を見ても、親しい気持がして、心が温まるのです。
ほんと。ひとこと。
うれしかった。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-ea8a.html
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-19aa.html
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-4ea4.html
このあたりに、羽化の時の記事があります。参考まで。
「鉢植えの棒」みたいな木。
見ただけでは何か分かりませんが、幸いにしてタグが付いていました。
南高梅です。
こういうタグをつけておいていただくと、助かるなぁ、物知らずには。
春になったらきっと花が咲くでしょう、近くなので見に行きます、楽しみが増えた。
ところで、南高梅の由来ですが「南部高校」ですよね。
ウィキペディアを調べたら
明治時代に和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)で高田貞楠が果実の大きい梅を見つけ、高田梅と名付けて栽培し始める。1950年に上南部村優良品種選定会が発足し、5年にわたる調査の結果、高田梅を最優良品種と認定。調査に尽力したのが南部高校の教諭であったことから南高梅と名付けられ現在に至る。
とありました。昔の高校の先生というのは「研究者」の雰囲気・実力があったからなぁ。
我が身を振り返って、おぉ、ハズカシイこっちゃ。
これ、園芸種のカタバミですよね。
大きな花なんです。
個人的には、雑草としてのカタバミの方が好きですが、これもまたよし。
カタバミ属というのが「Oxalis=オキザリス」というんですね。
化学の方で(COOH)2というのが「シュウ酸」といいます。「蓚酸」です。これ「カタバミの酸」という意味ですね。英語では「Oxalic acid」です。
高校化学の中和滴定の実験で、水酸化ナトリウムの濃度を決めるのにシュウ酸を使った、という経験のある方もいらっしゃるかもしれません。そういう濃度決定の時の標準物質として使われます。
あるいは、大学くらいかな、の生物学実習で、植物の細胞の中のシュウ酸カルシウム結晶を観察した方もいらっしゃるかもしれませんね。
みごとに目の前が真っ赤っか、です。ピラカンサ。バラ科ですね。
Pyracanthaというつづりを見ていて、「火・熱」を意味する「pyro」という接頭辞と同じかな?と思いました。化学の方では「ピロ」という言葉はよく出てくるんですよ。ピロリン酸、ピロ硫酸などとね。耐熱ガラスの商品名になりますか「パイレックス」というのも「ピロ」ですね。
「季節の花300」というサイトで調べたら
Pyracantha(ピラカンサ)は、
ギリシャ語の「pyro(炎)+ acantha(刺)」が語源。
火のような真っ赤な実をつけ、枝にはいっぱいとげがあるところから。
とありました。
やっぱりね。
あちこち走ってみると結構ピラカンサを植えていらっしゃるお家は多いようです。
お好きなんですね。SL(Steam Locomotive)。D51。
私が大学生の頃までは五能線に蒸気機関車が走っていました。石炭の煙の匂いはそう遠くはない記憶です。
子どもの頃、東京から秋田へ行くときはいつも蒸気機関車でした。
トンネルに差しかかると、行程をよく知っている人が声をかけて、窓閉めろ~。
全員いそいで窓を閉める。でないと、煙がもろに窓から客車に入って来るのです。石炭の燃え殻も一緒ですから、目に入ったりすると痛いのなんのって。鼻の穴も黒くなっちゃうし。
みんな、共同体ですからね、同じ車両に乗り合わせた以上。協力して窓閉め、窓開け、などをしたものです。
4人が向かい合わせになるボックスの席の間に、トランクをおいて、その上で丸まって眠った思い出がかすかにあります。よく寝る子でした。でもなぁ、秋田まで、丸一日もかかるようなスピードですから、ひどく退屈したことも覚えています。
ところで、上の写真の車輪、一番でかい最初の動輪ではないと思いますが、上の白い円筒部分に動力が伝達されたのだと思います。ちょうどその反対側に「カウンター・ウェイト」がありますでしょ。
このカウンター・ウェイトがないと、回転が滑らかでなくなってしまうんですね。
2009年11月 2日付で「これはなんだろう?」という記事を書きました。何かの繭だけれど何だかわからない、苦し紛れに「パンダの卵」などといっている、と書いた記事です。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-3be0.html
他の昆虫を調べていて、あっ、コレだ!!と出会ってしまいました。
「福光村昆虫記」です。
http://members.jcom.home.ne.jp/fukumitu_mura/abu_1.html
このページの下の方になります。
「タワラバチの空繭(ヒメバチ科)」という写真があります。ごらんください。
これと同じですよね。
ルコウソウの方は枯れてしまいましたが、繭は見る限りでは変化していません。
福光村昆虫記によると
■ホウネンタワラチビアメバチ:
別名をホウネンタワラヒメバチとか、ホウネンタワラバチと言います。
体長8mm前後。本種はフタオビコヤガの幼虫に寄生します。繭(まゆ)は白地に黒い帯紋があります。この繭は形が俵状をしているこや、水田のイネの葉にぶらさがっていることが多いことから、昔から豊年俵(ほうねんたわら)と言われています。
「ホウネンタワラバチには、ホウネンタワラチビアメバチ、ホウネンタワラヒメバチという別名もあり、ぜんぶ同じ種類を指します。」と記述したサイトもありましたので、まぁ、どれでもいいのでしょう。
多分これで間違いないと思います。へんなこと書いて惑わせました。この記事を投稿してから、前の記事を訂正しておきます。
解決してよかった、ヨカッタ、ほっとした。
本当は90度左へ回転した状態が正しい位置関係です。
垂直な鉄の棒に面に頭を上にしてとまっていました。なるべく縮小を少なくしてお目にかけたくって、横に回しました。
さて、なんというハチなんでしょう?
コケシみたいな頭で、真ん丸な目で、なんとも愛嬌があって可愛いのですが。
ヒラタハバチの仲間で、頭が赤いからアカズ(赤頭)ヒラタハバチでしょうね。
オオアカズヒラタハバチとニホンアカズヒラタハバチが候補だと思うのですが・・・。
検索してみても、これだっ!という写真に出会いませんでした。
困った。
ほとんど同じショットを2枚撮ったところで飛び去ってしまいました。腹の模様とか、もっと特徴がつかみたかったのですが、それもかなわず。
このショットだけで確定出来るようでしたら教えてください。お願いします。
白山神社で見かけました。
たしか去年も白山神社で見かけたのだと思います。
あのときはまだ人も多い時期でしたので、神社の方に知らせようかなぁ、とも思ったのでした。ドクガの幼虫ですよ、と。
でも、今年は、見る影もなく枝を切り払われた境内の木々の下、残った笹を食べて成長したんだろうなぁ、と思うと、虫さんの方への思い入れの方が強くなってしまい、元気で頑張れよ、ちゃんと成虫までなれるように、と思わずず声をかけてしまったのでした。悪いかかしさんになりましたことよ。
すごい毛でしょ。
繭にもこの毛をくっつけて防御するようです。
でもまぁ、チャドクガなんかに比べれば被害はそう出ません。
素手でつかまないでください。それだけです。
たまぁに見かけるだけの虫ですから、殲滅を図るほどのこともありますまい。
植物には「体温」という概念があてはまらないですね。
いつも、外界と同じ温度のもとで、代謝活動をしています。
寒ければ寒いなりにゆっくりではあっても、代謝活動は持続できるのでしょう。光合成も。
これから、子房の中に栄養を送り込んで種を太らせ、実を熟させなければなりません。
ゆっくりゆっくり。でも、確実に。
実はねぇ、人間にもあてはまるんですよ。人生焦って急がなくちゃならないことなんて、ほとんどまぁ、ないのです。ゆっくりゆっくり、でも確実に、歩んでください。
現代の人間は、いそぎすぎ、です。
普段腐敗しかかったものにたかっている、センチニクバエだと思いますが、サザンカの花の蜜を吸う、ということもするのですね。これは初めて見ました。
そして下の方、アリとツマグロキンバエです。
ツマグロキンバエは、複眼の模様で分かるんですが、画面サイズに縮小したのではっきりしなくなってしまいました。申し訳ない。
一つの花に、3種の昆虫がきて、蜜を吸う。蜜源が少なくなってきたせいでしょうね。
ちょっと珍しい光景でした。
ふと気付くと、目の前のボウガシの葉に、やたらと派手派手しい幼虫がいました。
こういう派手なのは、「警戒色」で、危ないぞ!近づくな!と叫んでいるわけですから、基本的には要注意です。(本当に危ない警戒色と、その警戒色をまねた無毒の警戒色がありますので、知識が増えてきたら判断がある程度できるようになりますが、とんでもないのがいたりしますので、警戒は怠らないでください。)
しかしまぁ、きれいといえば、とてもきれい。歯ブラシ背負って歩いているようです。頭の2本の毛の束は、遠目にはカタツムリの目みたいな感じもします。
調べてみたら、やはりドクガの仲間の幼虫ですね。
ドクガ科のヒメシロモンドクガの幼虫です。
背中に白い毛束が4つありますね。これが終齢幼虫の印のようです。
両脇にも毛束がありますが、そのうち、前から1/3位のところには左右一対の黒い毛束があります。お尻の先端には筆のような毛束があり、頭のすぐ後ろには2本、角のような毛束があります。なんともはや、毛だらけ。(お洒落です。)
プラスチックケースに入れて、眺めて、どうしようかなぁ、と思っていたら、妻曰く
腹肢のちょんと上げたりしてすごくかわいらしい。と。
どうする?
飼うしかないんじゃない?
というわけで、ボウガシの葉はいっぱいあるし、もうすぐ蛹になるだろうと、飼育してみることにしました。
この「角」みてください。
立派ですねぇ。
少々あきれ気味に、称賛してしまいます。
調べてみましたら、
http://www.jpmoth.org/Lymantriidae/Orgyia_thyellina.html
ここでは「幼虫は毒針毛無きも、強い接触により軽微な発赤を生じ、1時間以内に治癒。1971年環境衛生18-10より」とありました。
また
http://www.afftis.or.jp/konchu/kemushi/dokuga.html
ここでは「一般にドクガ科の幼虫は体色が派手で、背中にハブラシ状や瘤状の毛束があったり、 体の前方に長い毛束が角状に突き出していたり、見るからに恐ろしそうな毛虫であることが大きな特長です。実際にはこれらのうち、 刺すのはチャドクガやドクガなど一部の種類だけなのですが、実はこの仲間の毒性にはまだわからない部分があります。たとえば、 サクラやウメなどでよく見かける写真のヒメシロモンドクガなどは、刺さないと言われている種類ですが、実験用に何世代も飼育したところ、 だんだんアレルギー症状が出て、飼育を断念した研究者がいました。また、針葉樹に多い写真のスギドクガも1~2度刺されたくらいでは何ともありませんが、 実際の毒性の有無は不明です。数多い毛虫のなかでもドクガ科の毛虫だけは、たとえ刺さないとされている種類でもなるべく触れない方が無難かもしれません。 」
とありました。
触らない方が無難ですね。
しかしまぁ、すごいやつとつきあうことになったなぁ。
苦笑しております。
六郷用水跡の水路にそってモンパルで走ってみました。
水路脇の散策路は走れません。広い所もあるけれど、狭い所もあり、何かあったときに降りることもできないので。散策路脇を走るしかないのですが。
2か所見つけてしまいました。すぐ近くまでは「脚で」歩いて行ってたようです。そこで止まっていたのが、今回、ちょっと先までモンパルで走って見つけました。
この水路の向こう側は小高くなっていて、その崖面から水が湧きだすようです。
かなりの水量で、音を立てて流れていました。
都会の湧水は飲めばおいしいのですけれど、どういう成分が溶けているか分からないから、ちゃんとお金をかけて分析機関に依頼して分析してからでなければ飲用には使えませんね。
白神山地の秋田側の真瀬川という川沿いを、昔はてくてくずいぶん歩いたものです、元気だったなぁ。で、道路わきに湧水がありましてね。これはおいしかったですよ~。夏の日射しの中を歩いてきて、冷たい湧水に出会った時の「しあわせ」ったらないですよね。ごくごく飲み、歩いて熱くなってしまった足の裏を流水に浸して冷やし、あれは至福の時でしたね。
去年は線路向こうで見かけたトウガラシ。
線路のこちらをず~っとモンパルで走っていたら、見つけました。
これって、すごく辛い品種じゃなかったでしょうか。
辛いのは嫌いじゃないけれど、あんまり辛すぎても体によくはないですよ。無理に辛くし過ぎないように。
とくに「ぢ」の方はお控えなさいませ。
(思いだしてしまった)余談:昔、小学校に上がる前。内風呂はなく、銭湯にいったものです。すると、脱衣所にポスターが貼ってあって、ポスター全面に大きな赤い字で「ぢ」と書いてありました。
子ども心に、あれはきっとものすごく恐ろしいものに違いない、と恐怖心を抱いたのでした。
だって、普通は「じ」でしょ。それが「ち」に点々なんて、これだけでもう、普通じゃない!
しかも、真っ赤な色で書かれているんですよ。これは、きっと大変なものなのだ、とおそれおののいたものでした。
サザンカの厚い花びらや、一杯のオシベが落ちてしまった後です。
メシベの残りと、子房です。
シンプルになりました。受精のためのシステムは不要になって捨てました。
ここからは「他者」を必要としません。受精した卵に栄養を送り、成熟させるばかりです。
ここからが、植物自身の仕事なんですね。
こちらは授粉には邪魔もの。
このつぼみはダメになるかもしれません。でも、そういうつぼみの存在も、計算のうち。この程度で音を上げるサザンカではない。
アブラムシ=アリマキということがよくわかります。
いつもアブラムシの周辺にいます。
このアブラムシたちはアブラバチの寄生を免れた残り。
動植物が複雑に入り組んだ関係性を見せてくれています。
コバノセンダングサかな。
アブラムシがついたぞ、あっ、テントウムシだ、というのが最初の私の眼。
ナミテントウでしょう。
この写真でもわかるんですが
アブラムシを捕食しているところでした。
アブラムシの天国になってしまうでもなく。
テントウがアブラムシを完璧に食いつくしてしまうでもなく。
テントウは必要な量を食べ、アブラムシは少し生き残り。
植物はアブラムシに汁を多少は吸われるけれど、枯れてしまうほどでもなく。
自然って、そういう風にバランスがとれるんです。100%といようなことはしないんです。
ヒトだけでしょ。アブラムシだ!薬剤で殲滅してしまおう! などというのは。
それはとても不自然なことなのです。
適当な「ゆるさ」というものがシステムの維持には必要なのですよ。
玄関前に落ちていました。
一瞬、死骸かと思ったのですが、違います。脱け殻です。
壊さないように拾い上げて手のひらの上で撮影。
翅の脱け後もありますので、おそらく終齢のカメムシの脱皮だったのではないでしょうか。
カメムシの種までは私には分かりません。
一番可能性の高いのは、一番ポピュラーなクサギカメムシですが、確定はできません。ブチヒゲカメムシかもしれないし。
白い糸のように見えるのは体表面から体内へ入りこんで行く気管だそうです。体内にあっても、気管の表面は体の表面です。
さらによく見ると 細い針のような口吻と、それを支え包む鞘と、ちゃんと抜けています。
さらに、針のような口吻もおそらく2本あるようです。それを1本に合わせて筒状にするのでしょう。口吻も鞘も、その由来は「左右一対の顎」ですから、2本セットなんですね。
チョウも脱皮直後に2本にわかれたゼンマイ状の口吻を1本に合わせるんですよ。これは見たことがあります。
いや、面白いものを見せてもらいました。
2009.11.8付 朝日歌壇より
川底にこと終えし鮭横たわる母なるカムイ山のふところ:(登別市)世利美智代
サケは産卵・放精のためにすべてを使い果たします。そのあとに生きることなんかこれっぽっちも考えてません。
代謝能力のすべてを使いきり、生きる能力のすべてを最大限に使いはたして、次世代を残す仕事に当たります。
そのようにして死ぬことが、サケという生物の脈々たる命の連続を支えているのです。
以前にも引用したことがあるのですが、柳澤桂子さんの「われわれはなぜ死ぬのか」1997年、草思社刊 から引用します。
河の流れをのぼりきったところで、サケは産卵する。雌のために産卵の場所をあらそって確保するのは、雄の役目である。産まれた卵に精子をかけ終わると、サケは死ぬ。産卵を終わった雌も死ぬ。
産卵後のサケは、組織学的な変化と生理学的な変化の総合的な結果として死に至るものと思われる。まず、産卵期のサケは、食べ物を摂取することができなくなる。腸の上皮細胞は、ほぼ完全に消失し、脂肪の蓄えは使いはたされる。
サケが成熟すると性腺のステロイド・ホルモンの分泌が増加する。その結果、血中の副腎皮質ホルモンの濃度が5倍以上に増加する。
この副腎皮質ホルモンの濃度が高くなることによって、サケのからだは劇的に変化すると考えられている。まず、腎間細胞の核が大きくなり、からだ中の組織に変化があらわれる。心臓冠動脈、腎臓やその他の動脈の内皮細胞が異常増殖する。これは、ヒトの心臓冠動脈疾患の病理像と非常によく似ている。肝臓、心臓、脾臓、胸腺の細胞は核がこわれて細胞死をおこす。心筋細胞は変性して破壊される。しかし、筋肉細胞は正常な像を保っている。皮膚にはカビが増殖し、免疫反応は極端に退行する。
性ホルモンの働きによって、一時的に副腎皮質ホルモンの濃度を高くすることによって、からだ中のすべてのエネルギ-を生殖に向けて集中的に発揮し、それがすんだときには、からだは使いはたされて死に至る。ここには老化はなく、青春から瞬時にして死へと突き落とされるのである。
また昨年の5月30日付で「サケ、命がけ産卵? 6~7秒心臓停止」という新聞記事を紹介しました。併せてお読みいただければ幸いです。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_0d62.html
2009.11.8付 朝日歌壇より
墓地の隣に「終着駅」の看板を掲げて雨の居酒屋のあり:(沼津市)森田小夜子
これは、ブラックだ。ニヤッとします。俳句ではないけれど、俳味のある歌ですね。
人生の達人が酒の味をたしなむ場所でしょう。
2009.11.8付 朝日歌壇より
秋天に長元坊(ちょうげんぼう)のとどまりて扇のごとき尾羽広げる:(調布市)長山弘
チョウゲンボウはハヤブサ科です。ワシやタカに比べると小型ですが、やはり幅広の羽を広げて飛ぶソアリングのダイナミックさは素晴らしいですよね。尾羽を扇のように広げて姿勢制御も自在。
アホウドリのソアリングの方が好きなんですけれど、チョウゲンボウもかっこいいですね。
ところで、スズメを良く見ていますと、短時間ですがソアリング飛行もするんですよ。アレ、写真に撮りたいなぁ。それから、スズメの場合、飛びながら羽を畳んで、弾丸のような格好になって、弾道飛行もします。あれも、かっこいいんですが、私のレベルではとても被写体にはなりえない。どなたか、そういう瞬間のショットをものしてくれませんかね。
◆訂正とお詫び(2009/11/12)
上掲の歌の作者を誤って「才野洋」氏として載せてしまいました。才野氏には、間違ってお名前を使ってしまったことを深くお詫び申し上げます。
また、作品の創作者への礼を失したものとして、長山氏にも深くお詫び申し上げます。
申し訳ありませんでした。崩彦
2009.11.8付 朝日歌壇より
あの頃はガリ版だったパソコンの立ち上がる音聞きつつ思う:(三重県)髙山幸子
佐佐木幸綱 評:試験問題を作る教員の歌かと読んだが、会社の書類づくりかもしれない。
私が教員になったとき、事務室から事務用品貸与です、といって渡されたのが、ガリ版のヤスリと鉄筆、赤と黒用の事務用万年筆、でしたかねぇ。遠い記憶となりました。
カリカリと書きましたっけ。ミスすると、鉄筆の尻で蝋を擦りならし、マッチを擦って吹き消して頭の所の消え残りの熱で蝋を溶かして修正する、という技もあったんですよ、修正液を使わずに。
まもなく、原稿をドラムに巻きつけくるくる回し、隣のドラムの用紙に放電で穴をあけて印刷用の原稿ができる「ファックス」というタイプの製版機になりました。
学校の印刷もずいぶん進んだものです。今は、パソコンのワープロソフトで原稿を作って、印刷機に載せて、レーザープリンターと同じような原理で印刷できます。
私は上の歌、やはり教員だと思います。そう読みました。
<裏技>大学生時代、ガリ版でビラ作りをし、手刷りの印刷機で大量に刷って配布する。組織的な人たちは分業していたのかもしれませんが、小さなグループでも自分たちの意見を公表するために、ガリ切りから印刷までほんの2,3人でやったものです。
印刷スクリーンの端にゴム紐をつけ、スクリーンを右手のローラーで押し下げて、ごろっと印刷し、刷れた更紙を指サックをはめた左手の親指で払い去り、という作業で印刷します。集中すると、1秒間に2,3枚のハイペースで印刷できたものです。これをやると印刷スクリーンが一回でだめになるので交換など大変でしたが。
2009.11.8付 朝日歌壇より
ビル際の溝に沈める黄落に冬越す穴を探すザリガニ:(瑞穂市)渡部芳郎
土の溝なら穴も掘れましょう。石組の水路なら隙間もありましょう。が、ビル際の溝ではねぇ。今の時代のザリガニの悲哀というべきでしょうか。それは実は人の罪深さであり、人の悲哀でもあるはずですが。
2009.11.8付 朝日歌壇より
一括りに自死は年間三万人三万通りの個の闇あるを:(和泉市)長尾幹也
馬場あき子 評:一口に自死は年間三万人といわれている日本。一括されてしまう巨大死を悼み、そこに三万通りの個人の生の闇や家族の嘆きまで見ようとしているのだろう。
{佐佐木幸綱氏も選んでおられます}
私って、どうも、偏屈人で。自分自身に対して「自殺の権利を留保する」と考えているものです。自殺はそんなに悪くもない。産まれてくることには自分の意志は関われなかったのですから、せめて死ぬときくらい、自らの意志のもとに死にたいと心から願っております。ちゃんと死にたい。
で、自らの体の細胞が反逆して増殖して死に至る「癌死」が最も好ましい死に方だと考えておりますが、それがならなかった場合、どこかの年齢で必ず自殺いたします。自殺も生き方の一つです。自らの意志のもとに自らの人生に決着をつけます。(こんなこと書いても、今、心配していただくなくて大丈夫ですよ。サインを出しているわけじゃありませんから。)
自殺なさった方だけに「個人の生の闇や家族の嘆き」があるのではありません。すべての人間に、地球上の総人口の数だけ「個人の生の闇や家族の嘆き」があるはずです。それが生まれ、生き、死ぬということでしょう。
生まれた数だけ死ぬのです。これをこそ「巨大な死」というべきでしょう。巨大な死によって巨大な生が支えられてきました。38億年もの間連綿と。
2009.11.8付 朝日歌壇より
ゴミ箱の後ろにヒョイと現れてヤモリと私かたまっている:(船橋市)田中澄子
aha、作者はヤモリが苦手でいらっしゃる。ヒョイと「目が合って」しまった。どうしよう、と固まってしまわれたようですね。
うちの場合だと、あらヤモちゃんこんにちは、家の中だと猫ちゃんにやられるから、外で暮らそうね、と捕まえて玄関灯のそばあたりに放して、ここなら虫さんが飛んでくるからね、元気でね。
という具合になります。
ヤモリは守宮。同じ空間で生活することもありませんが、住み分けて、共存するのがよろしいかと存知ます。
慣れというものはいけませんね。こわいですね。
ふと見て、胸のところの模様でフタモンアシナガバチだと勝手に思い込み、顔の色が黄色くないからメスだろう、と思い込んでいました。
さて、オスの写真と並べてアップロードしようとして、念の為写真を比べてみたら、これはチガウ!
これはフタモンアシナガバチのオスです。
よ~く比べてください。で、違いを覚えてください。
これの顔は見えませんが、触覚の先端が巻いているので、たぶん間違いないはずです。
念の為にチェックしてみて良かったです。アブナイ、アブナイ。
上の写真のコアシナガバチの雌雄はよくわかりません。
秋も深まって、取り込んだ洗濯物に蜂が紛れ込むことが時々あります。
コアシナガバチやフタモンアシナガバチのメスでしょうね。
お気をつけください。
2009.11.8付 朝日俳壇より
新しき鈴鳴る猫の衣更:(周南市)田中和女
長谷川櫂 評:首の鈴をとりかえることが猫の衣更。涼しげに響く。夏の句なれど。
窮屈なことですねぇ。この窮屈さが私の批判の的なんですが。
現在の季語では「更衣」は「初夏」なんですよね。
「季語と歳時記」というサイトから引用しますと
江戸時代、四月一日と書いて「わたぬき」と読んだ。この日に綿入れを脱いだからだという。今では冬から春に着用していた衣を夏物に替えることをいう。
で、更衣が初夏の季語だから評者は「夏の句なれど」と書き、夏への更衣だから「涼しげに響く」と書くわけですね。
違うでしょ。
論理的に言って、少なくとも年に2回「更衣」がなければならないのです。っ。
秋冬物への更衣なくして、初夏の更衣はあり得ません!
ここでの「更衣」は秋冬物への更衣です。っ。
ころも‐がえ【衣更え・更衣】 ガヘ
①衣服を着かえること。源氏物語葵「にび色の直衣ノウシ・指貫、薄らかに―して」
②季節の変化に応じて衣服を着かえること。平安時代の公家は、4月に薄衣(袷アワセ)、5月に捻り襲ガサネ、6月に単襲ヒトエガサネ、8月1日から15日まで捻り襲、8月16日から9月8日まで生織の衣、9月9日より生織の衣の綿入れ、10月から3月まで練絹ネリギヌの綿入れを着用。江戸時代では4月1日、10月1日をもって春夏の衣をかえる日とした。<季語:夏> 。源氏物語明石「四月になりぬ。―の御さうぞく」
③外観やおもむきを変えること。「―した商店街」
④男女が互いに衣服を交換し、共寝したこと。催馬楽、更衣「―せむやさきむだちや我が衣キヌは野原篠
原」[広辞苑第五版]
ほら、「4月1日、10月1日をもって春夏の衣をかえる日とした」というのがあるでしょ。
季語もそれに対応しなくっちゃ。こんなことやってると、「俳句が死ぬ」羽目になりますよ。もっと自在に、楽しくいきませんか?
それが「俳味」というものだと私は思うんですけれどね。
夏物をしまって、秋冬物を出して、防虫剤臭さを抜いて、などとやっていたら、顔なじみの猫が新しい鈴をつけてもらって顔を見せた。あらまぁ、あなたもころもがえしたのね。いいわねぇ。秋物の鈴だわねぇ。猫ちゃんは暖かい場所探しが得意だものね、鈴の音が温もりを運んでくれるわよねぇ。などと、猫と会話していらっしゃるのではないかなぁ。
季語を否定はしません。でも、季語に縛られてはいけません。
詩は心の表出なんですから。便利な道具を使うのはいいけれど、道具にもてあそばれないようにご用心遊ばせ。
季節が急速に移り変わっていく中で、見かけることがぐんと減ってしまったイチモンジセセリです。
ゼニアオイの花で吸蜜していました。
口吻を伸ばして蜜を吸っています。
おいしいでしょうね。寒くなって、エネルギーが必要で、すぐに代謝に使える糖を飲む。五臓六腑に沁みわたる、というような感じではないでしょうか、想像するに。
見ている私がなんだかほくほくしてしまいました。
左の複眼に映っているのは、多分触覚の影です。ちょっと面白い模様になりましたね。
実はよく見ていただくと、イチモンジセセリの脚の向こうに、小型のカメムシが写っています。
ピンボケでよくわかりませんが、ヒメナガカメムシではないかな。
カメムシの場合は、花弁から汁を吸っているのでしょうかね。よくわかりませんが。
おいしい蜜がここにあるよ、と花も紫外領域の「色・模様」で昆虫を誘っているのでしょう。
チョウたちの色覚はヒトより豊かな世界です。
「ヒトは進化の最先端で、すべての面で優れている」なんていうのはまるっきりの嘘っぱちです。
花の美、を生きる力の源泉としてちゃんと「見て」いるのは、昆虫たちなのです。
今年の五月にやはり浴室でゲジと出会い、初めて接写して観察し、その昆虫的な姿に「大感動」しました。下がその記事です。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-11d4.html
昆虫顔をしているというのが気に入ってしまって、またたくさん写真を撮ってしまいました。
前回と重複しますがご覧ください。
ね、ムカデやヤスデとは顔つきが違います。
立派な「昆虫顔」でしょ。
親しみが湧いてしまった。
すごい顎ですが、ムカデを扱わなければならない時のような緊張感はありません。
噛まれることもまぁないし。
複眼も個眼が少ないとはいえ、立派なものです。
脚がいっぱいあるのは昆虫とは異なりますが、足のつき方はとても昆虫的だと思います。
体節の表皮が変形していますね。
おそらく昆虫が翅をもつようになる過程で、3つの体節を胸としてまとめ、それぞれの体節の表皮を変形させて翅がつくられたのでしょう。なんだか、そういう進化の歴史を想像させる形だとは思いませんか。
脚がいっぱい、ということで嫌われがちですが、何かガラス瓶にでも入れてじっくり観察してみてください。きっと、見直しますよ。
落書きはいけませんが、同じ絵を2カ所で見つけましたので気になって。
あまり品の良い落書きではありませんが、一方で「ヘキヘキ ム血っこ」みたいに読めそうでおかしい。
へのへのもへじの流れを汲んだ現代版でしょうか。
へのへのもへじは有名ですが、どこで覚えたのだろう?私は「つるはまるまるのむし」というのを知っています。
ペイントにマウスで描いたので様になりませんが、こんな絵です。
◆小林朋道さんという鳥取環境大学教授の先生がお書きになった本がありまして。
「先生、シマリスがヘビの頭をかじっています!」築地書館、2008.10.10初版発行
という本です。最高に面白い本です。
「はじめに」のところで
「私は鳥取県の鳥取環境大学で、専門である動物行動学と人間比較行動学(私は両方あわせて人間動物行動学と呼んでいるが)、そしてそれらを基盤にした野生動物の保護の研究と教育と実践に日夜(?)励んでいる」
とあります。
「駅前に残された”ニオイづけ”はタヌキの溜め糞?スプレーで描かれたサインの動物行動学的意味」という章がありまして。ところどころを引用しますと。(太字は小林氏がつけたものです。)
このようなサインをつけるホモサピエンスの動物行動学的意味には大変興味がある。
動物行動学的にいえば、この「若い男性」というのは、少年期から次の段階へ進み、地域の大人社会のなかで、自分の存在を受け入れてもらい、また異性に自分の魅力をアピールしなければならない時期である。サインづけは、多くの都市の駅前や、駅以外でも、多くの人々が集まるような場所でしばしば見られる現象である。そしてそれは、若者が、自分にとってなじみの深い場所で、自分の存在を誇示する競争心の表われのように思われるのである。
若者のサインは、縄張りを防衛するこのような哺乳類のニオイづけと似た性質をもつものであるが・・・
タヌキには、・・・ヒトと共通しためずらしい習性がある。それは「共同トイレ」である。
タヌキたちは溜め糞場に排出された糞尿について誰のものかをニオイで識別しているらしい。・・・私は鳥取駅前通りのサインをいろいろ見ていくうちに、それらはタヌキの「溜め糞でのニオイづけ」に近いものではないかと思うようになってきた。
人びとが多くとおる場所で、
「この場所はおれのなじみの場所なんだ。おれはここにいるんだ」
とアピールしているのではないかと。そしてその心理の奥には
「おれを認めてくれ、おれを知ってくれ」という、大人社会に入りつつある若い男性の、大人や同年代の同性、異性に向けたアピールがあるのではないだろうか。・・・最後に、サインの作者たちにお願いしたい。
地域の大人社会の一員になるためには、地域の共同体のなかで自分なりの役割を果たすようになることが必要だ。・・・
共同体の皆が「よくやった」と思えるような行動に結びつけてほしい。
・・・
以上、引用でした。
この本を読んで以来、街で落書きを見かけると私たち夫婦には、「あぁ、ヒトの、ため糞があるゾ」という会話が成立するようになりました。
2009.11.2付 朝日俳壇より
観客の中に亡夫ゐるラグビー場:(東京都)木田治子
長谷川櫂 評:「亡夫」を「つま」と読ませるのは無理。推敲のしどころ。
「夫」とかいて「つま」と読ませるのは、現代日本語ではもうつらいですよね。おそらく歌や俳句の世界にしか残っていない。
つま【妻・夫】
①配偶者の一方である異性。
(ア)結婚している男女間で、互いに相手を呼ぶ称。男女どちらにもいう。また、第三者からいう場合もある。万葉集4「もののふの八十伴緒ヤソトモノオと出で行きし愛夫ウツクシツマは」。万葉集20「花にほひ照りて立てるは愛ハしき誰が―」
(イ)転じて現在では、夫婦の一方としての女。 ⇔おっと。[広辞苑第五版]
「亡夫」を「つま」とよませるのは確かにつらい。
そこで、つまらぬ提案をひとつ。
「ひと」という言葉の中に
特別の関係にある人。夫または妻。蜻蛉日記中「―はこなたざまに心寄せて」。「うちの―」[広辞苑第五版]
こういう意味があります。「うちのひと」という言い方はよくしますよね。
で、「亡夫」と漢字で書いておいて、「ひと」と振り仮名を振ってしまうのはどうですか?
観客の中に亡夫(ひと)ゐるラグビー場
きっとラグビーの好きなお連れ合いだったのでしょう。あの寒い競技場へ二人で行った思い出もあるのではないですか?
心に沁みます。
実は私の好きなスポーツというと、自分ができる水泳と、観戦するものとしてはラグビーしかないのです。結婚して間もなくだったなぁ。30年以上も前になりますが、1月15日、秩父宮ラグビー場へ二人でラグビー見に行ったんです。寒かったぁ。その年、東京でただ一回だけ雪が降った日、それがその1月15日だったんですよ~。震えながら観戦して、帰りに喫茶店で熱いコーヒーを飲みましたっけ。
今でも語り草です。あの日一回しか雪降らなかったんだもんなぁ、と。
物好きなことです。
2009.11.2付 朝日俳壇より
小鳥来よ木守の果樹のある庭に:(浜田市)田中静龍
き‐まもり【木守り】
①来年もよく実るようにというまじないで、木に取り残しておく果実。きまぶり。木まぶい。狂、合柿アワセガキ「返せ合わせ柿と、言えども言えども、取り残さるる―の」
②(比喩的に) 最後に残ったもの。[広辞苑第五版]
こ‐もり【木守】
庭園などの樹木の番人。枕草子87「―といふ者の築地のほどに庇さしてゐたるを」[広辞苑第五版]
さて、意味的には「きまもり」だと思うのですが、5・7・5に整えるとすると「こもり」になってしまいますね。
私としては字余りでいいので、その読みを読者に強制するために「木守り」と送り仮名を入れてしまったほうがいいのかな、などと考えてしまいます。無粋な感想ですみません。
◆別件:庭のどこかに最後のカマキリがいるかもしれません。蝶もそろそろみんな店じまいの季節。できれば、鳥さんには我が家の庭には入ってきてほしくないなぁ。鳥がいても追い出しはしませんけれど、早く立ち去って欲しいものだと思ってしまう私です。
木の実なんかはいくら食べてもいいけれど、虫さんは食べないでね。
2009.11.2付 朝日俳壇より
ポンプ井戸押せば水出る一葉忌:(相模原市)田中仁
稲畑汀子 評:ポンプを押せば水が出る古井戸。樋口一葉の世界を身近に感じた詩心である。
私は小学校の高学年くらい(昭和30年代の半ば)まで、手押しポンプの井戸水で生活していたものですから、その風景が「一葉の世界」と言われてしまうと、若干の違和感を覚えてしまいます。朝の洗顔から、母の台所仕事、洗濯機は買ったけれど水は井戸から、風呂桶に水を汲むのは私と兄の仕事・・・とまぁ、まさか、樋口一葉さんとは同時代人ではありません。
2009.11.2付 朝日俳壇より
天幕を出づれば砂漠星月夜:(調布市)覚前木月
大串章 評:天幕を出ると茫々とした砂漠。空には月のように明るい星が瞬いている。ふと、砂漠に不時着した「星の王子さま」を思う。
どうも、大串氏より一回り近く年下の私なんですが、真っ先に頭に浮かんだのは「月の沙漠を はるばると♪」という童謡でした。
星の王子さまを読んだのは高校時代くらいでしたか。別のシーンに思い入れが深くて、「砂漠」からは思い出せませんでした。
2009.11.2付 朝日歌壇より
おばあちゃんのうしろをついてゆく猫の踏むあぜ道の苔ふかふか:(横浜市)原田彩加
佐佐木幸綱 評:現代にもこんなにのどかな道があったのか、と懐かしい気分にさせられる。
ほんわかとあたたかい歌ですね。
都会の人間のせいか、苔ふかふか、というと石や硬いものの上の苔がふかふかしている、と感ぜられて、あぜ道がふかふかというのは、道自体がふかふかの土なんじゃないか、枯れ草や落ち葉が積もってふかふかしているんじゃないか、と余計なことを悩みます。
繰り言は無視して下さい。
夕陽の温もりを感じさせる佳品です。
2009.11.2付 朝日歌壇より
お蚕は千五百米(メートル)の糸を吐き静かに繭籠りたり:(松戸市)猪野富子
馬場あき子 評:蚕飼いが珍しくなってしまった今日、千五百メートルの糸はやはり驚きの数詞。
子供の頃、どういうシーンだったのか定かではないのですが、「おかいこさま」という言葉を聞いて、虫に「様」をつけるなんて変だ、と母親に向かって騒いだことがあります。母親は、蚕飼いの経験があり、娘時代に背中に棚を背負って体温で温めたりしたものだといっておりました。そうやって手をかけ、育てて、絹糸ができる、だから「様」がつくのだ、と教えてくれました。
今、養蚕が珍しくなりましたから、そういう意味では、もっと広くガの繭のすごさを見てほしいなぁ、と思います。
籠状の繭、大豆粒ほどの小さな白い繭、塀の窪みに張り付くように作られた繭・・・
蝶は繭を作りませんが、歩く時には足場糸を張りながら歩いています。ガラスやプラスチックケースで蝶の幼虫を飼育してみてください。蛹になり羽化して旅立ったあと、ケースの壁面を見てください。糸が張り巡らされているんですよ。
昆虫学ではガとチョウを区別しません。同類として扱います。同じ仲間の幼虫たちの生活、蛹を経て成虫へというとてつもない体そのものの作り変え。分け隔てなく愛でてほしいなぁ。
そういう風に見ていただけると嬉しいな、と感じます。
2009.11.2付 朝日歌壇より
指示の無き日々は辛かり出しゃばらず卑屈にならず再雇用われ:(町田市)冨山俊朗
永田和宏 評:指示通りに動き、自発的に仕事を進められない立場のむずかしさ。
私の場合、50歳過ぎでの早期退職で、再雇用、嘱託員という時期を5年やりました。
組織に縛られないし、どうせやめたあとで、再雇用が続かなくなってもまぁ、もともとだ、と思っていましたから、気楽に過ごさせていただきました。
どんな立場になっても、楽しんでしまいましょう。それがきっと「年の功」というやつでしょう。
2009.11.2付 朝日歌壇より
百日の赤子に意志の備わりて抱き方下手と泣いて知らせる:(小樽市)吉田理恵
赤ちゃんは自力で生きています。赤ちゃんは自分の意志を持った人間です。
親は、赤ちゃんが育つための環境を整え、食事を作り与えますが、育つのは赤ちゃんの力です。
赤ちゃんは親の所有物でもありません。ひとり意志を持って生きる人間です。
最近このあたりをはきちがえていないかなぁ、と困惑することも多々あります。
昔、泣く子にいら立つ若い親に、おばあちゃんが「泣くのは赤ちゃんの仕事、運動。思いっきり泣かせなさい」と心をほぐしてあげたような、そういう子育て環境が整ったらいいですね。
子育てを終えたあとの「おばあちゃん」というものは、人間と言う生物に独特の宝物なんですのにね。
(じいちゃんはダメ。なんで赤ん坊を泣かせているんだ、と苛立つのは大抵じいちゃん。あれが仕事なんだからいいじゃないですか、となだめるのもおばあちゃん。)
2009.10.26付 朝日俳壇より
堂裏の闇を震はし轡虫:(南国市)岩城鹿水
稲畑汀子 評:堂裏の闇を震わす虫は轡虫か。闇を震わすとはまこと。
虫の句ですし、クツワムシの鳴き声は一応知っていますし、句のことが言いたいのではなくって・・・。
申し訳ないけれど、稲畑氏の評、ほとんど句の同義反復ではないですか?
同義反復は新しいものを生みません。
堂を共鳴装置に闇を震わせるほどの声。小さな命の大きな力を詠みとった。
「かかし評」ならこんな感じになりましょうか。
2009.10.26付 朝日歌壇より
廃屋にでかい蜂の巣ぶら下がり監視カメラのごとく居座る:(白井市)毘舎利道弘
おそらく、スズメバチではないですか、その蜂の巣の主は。
確かに、監視カメラみたいですね。何となく煙たいし。
で、おそらく、もうハチたちのいない巣でしょう。
そうなったらぜひ、採ってきて壊してみることをお勧めします。
素晴らしい構造物なので、一見に値します。
私のHPの理科おじさんの部屋に、U君とスズメバチの巣を分解したときの記録を載せてありますから、興味のある方は覗いてみてください。
http://homepage3.nifty.com/kuebiko/science/76th/sci_76.htm
初め小さかった巣が、だんだん大きくなりますよね。どうして生きものでもない巣が成長できるのでしょう?
中の働き蜂は巣棚を作るときに巣の外被を内側から削り取って使います。外側の働き蜂は薄くなった外被を外側から補修して厚くします。
内側を削って外側に足す、この繰り返しで、巣は成長していくのです。
このことを知った時は感動しましたね。
そうだったのかぁ。知らなかったことを知ることは純粋な喜びです。
2009.10.26付 朝日歌壇より
一面の黄色のじゅうたんお祖母ちゃんとおはしを持ってぎんなん拾った:(横浜市)高橋理沙子
確か、6歳くらいのお子さんでしたね。おばあちゃんとぎんなん拾いに行ったんだ。
すごいにおいだったでしょ。すごい経験をしてしまいましたね。
拾ったギンナンを播くと芽がでてイチョウの木になりますよ。これは結構楽しい。挑戦してみる価値はあると思います。
私にとって「ほうろく」というのは、ギンナンとゴマとにセットになっている道具なんですね。
先日、テレビで「かすめ」見たんですが、ギンナンを電子レンジで加熱すると簡単においしく食べられるそうです。お試しあれ。
◆ところで、ギンナンの悪臭の主成分は「酪酸」といいます。牛乳の発酵臭から来た名前でしょう。昔ある高校で、冬、ガスストーブの加湿用の蒸発皿に牛乳を捨てた「おおばかもの」がおりまして、その牛乳が発酵して、教室中が悪臭で満たされてしまったことがあります。あれはすごかったです。
調査捕鯨船に体当たりした反捕鯨グループが投げつけた悪臭物質というのが、実は酪酸でした。酸としては弱いですが、ものすごい悪臭だったでしょうねぇ。臭気を知る私としては苦笑してしまった。
この悪臭の酪酸をエタノールと反応させると、果実の芳香に変わります。嗅覚って不思議なものですねぇ。
ちなみに、汗ばんだ靴下を洗濯もせずに履きつづけたときの悪臭は酪酸ではなく、イソ吉草酸といいます。
2009.10.26付 朝日歌壇より
「善意」ある古着の寄付がアフリカの繊維産業を苦しめており:(名古屋市)諏訪兼位
「善意」って難しいものです。善意を発揮している本人は、(当たり前ですが)いいことをしている、と思って、気持がいいのですからね。
ところが、善意というものが、やっかいなものでもありうるということに、多くの人は気づいていない。
腰痛気味の時に電車のシートを譲られても困ることもあるんです。座ることが楽とは限らない。
ドアを開けて待っていただくのはうれしいけれど、急かされる。障害によってはドアの角度の違いで通り抜けやすい開きが違うかもしれない。右開きドアならいいけど、左開きドアは辛い人もいるかもしれない。
昔、若くて過激な時代の私。「慈善よりは無視を!」と叫んだりしてね。
慈善は相手を低く見る。むしろ、悪意や敵対の方が、相手を高く評価して対等な位置関係でありうる。なんてことも、言ったりして。
古着が役立つなんて素敵なことだ、資源の有効活用にもなるし・・・
でも、地元の産業が苦しんでいることがありうると。考えてみたことがありますか?
相手を低くは見ていませんか?
2009.10.26付 朝日歌壇より
スーパーの天井近く不器用にとぶオニヤンマ秋は哀しき:(奈良市)松永奈央子
高野公彦 評:鬼ヤンマは秋の風物だが、スーパーに迷い込んだ姿はかわいそう。
オニヤンマを「秋の風物」と言われてしまうことには抵抗感があります。
地域によっても違うでしょうが、6月頃から9月頃というのがオニヤンマの季節ではないかなぁ。立秋すぎたら秋、といわれたら、そりゃまぁそうですけれど。
夏休みの暑い日に、オニヤンマとにらみ合う。昆虫少年の思い出はそういうところではないかなぁ。立秋前か後かなんて関係ない。
灯りにひかれてスーパーに入ってしまったのですね。
スーパーやコンビニは昆虫にとって恐ろしい罠になります。
店内を暗くして、外の方が明るくなるようにして、窓を開けてやれば出られるんですけれど。
そこまではやなないだろうなぁ。
本当は「哀しい」生きものはヒトのほうなんですけれどね。
雨の後だったのです。
見事な足跡。
チャコちゃんの足跡です。
どうも、新しい車は居心地が悪いらしい。
マーチのボンネットには平らな部分が広くありましたので、冬場、私が車で帰宅すると、ボンネットに乗ってエンジンの熱で暖をとるのが好きだったのです。
ところが、このごろの車はみんな丸まっちくなってしまって、ピノもご他聞に漏れず、ボンネットが丸い。
チャコちゃんとしてもいろいろ工夫をしているようなんです。で、ボンネットから屋根へ駆け上ったか、逆か、その足跡がフロントガラスに残ってしまったのですね。
別の日、見るとチャコちゃんは、暖かいエンジンの下に入って暖をとっていました。
そうだねぇ、これしかないだろうねぇ。
四角い車がなくってゴメンネ。申し訳ないけれど、そのやり方であたたまってください、今年からは。
午後は、桜坂を登ってみました。
坂道を登るのは電動車いすには結構つらいですね。でも、坂の多い土地なので、これがなければ移動できません。下り坂ではモーターを発電機にしてバッテリーに充電する機能があります。電車の回生ブレーキみたいですね。理科おじさんとしてはとてもうれしい機能です。
坂の途中のお見せにフォックスフェイスがありました。
これナス科なんですね。
ツノナスというのだと、検索してみて初めて知りました。
ブラジル原産だそうです。
◆桜坂を登りきって少し行くと大きな警察署があって、免許更新事務もできる警察です。電動車いすで来られるようになれば、便利です。
また、区役所の出張所も桜坂の上にあるので、電動車いすがあると便利ですね。
◆ここからまた、地元の小学生はよく知っている通称「かえる公園」へ。
別に池があってカエルがいる、というわけでもないのですが。少し低いので、ガマガエルの大人なら生息していける環境なのかな。
カエルには出会えませんでしたが、代わりに白猫に出会ってしまいました。
白猫づいてますね。
すたすたと、こちらを気にかける風もなく、来たり去る。
猫らしい猫でした。
◆かえる公園と隣接してお稲荷さんがあります。
これも「ON」のお稲荷さん。
周辺の方たちがいつも気にかけて、整備しているようです。
こちらが左のお狐さん。
何か加えています。
お堂の前には
一対の狐の人形。これはどなたかのお供えですね。
真ん中にあるのは「招き猫」模様のお茶碗です。
みんなで、工夫している様子が見て取れました。
◆というわけで、電動車いすの日々が始まりました。
あたたかい日を選んで、少しずつ走ってみようと思います。
時々、御報告を書きます。よろしく。
10月31日、土曜日はあたたかく、お出かけ日和。午前、午後、1回ずつモンパルで外出してみました。
◆家の付近の狭い道から、広い道へ出たとたん、おばあちゃんとお孫さん二人の三人連れが道の向こうに。大きい方の3、4歳の男の子が、モンパルに乗った私を見て、目をまん丸くして立ち止まってしまいました。
「電動車いす」というものが彼の概念枠になかったのですね。自動車でもない、自転車でもない、三輪車でもない、「アレはなんだ?!」だったようです。思わず手を振ってしまいました。きっと、おばあちゃんが説明してくれたことでしょう。
人の子の認識能力というものは全くすごいものです。猫を見て「にゃあにゃ、よ」とお母さんに教わる。次に猫と出会えば、すぐにゃあにゃ、という。お母さんが、そうね、にゃあにゃね、と言えば概念枠が強くなります。で、犬に出会ってしまった。にゃあにゃ、といってみると、お母さんは「あれはわんわん」と教えてくれる。これで概念枠がすぐ拡張されます。犬と猫の違いを言葉で詳しく説明してみてくれませんか?きっと、大人でも戸惑うでしょう、でも、見ればすぐわかる。不思議ですね。
個々のものをいちいち全部個別に覚えるのではなく、認識の概念枠を自分で形成しながら子は成長していきます。子が何か話しかけたら必ず応対してあげてくださいね。携帯なんかに夢中にならずに。会話を通して、子は猛烈な勢いで世界の認識を広げているのですから。
さて、あの子は電動車いすという概念を獲得してくれたかな。
◆私たち家族がここで生活するようになって30年くらいでしょうか。私は余り歩けないし、車での移動がほとんどでしたので、「地元」を知りません。子らは、ここの小学校・中学校を出ていますから、地元の地理には詳しい。妻も子と一緒に歩きまわっていますので詳しい。
◆そこで、まず話に聞く「どんぐり山」へ行ってみようということにしました。公園の正式な名前はあるのですが、通称「どんぐり山」。
小さな山です。梅の木がいっぱいあって、季節にはきっとものすごくきれいでしょう。
今回行ってみたら、ツワブキの花がいっぱい咲いていました。
まったくうっかりしておりましたが、これはキク科ですね。
じっくりみていて気づいて、虚をつかれた気分。
陽射しが強くて非常に明るかったので、Z3という機種でフラッシュなしでホソヒラタアブのホバリングが何とか写りました。
アブってフォトジェニックな昆虫ですね。非常に写りがよい。フレンドリーなやつです。
◆山を下りて六郷用水跡の散歩道を、私が歩いたことのない方へ行ってみましたら。
庚申塔がありました。これを見て、納得。
この遊歩道沿いの密蔵院にも庚申堂があり、環八向こうの白山神社の中に庚申堂があります。どれだったかは忘れましたが、二つを合わせたものがあるそうですので、これで四つ。この地区の東西南北に配置されていたのですね。
青面金剛ですね。手が6本。
いかにも現役、ONの庚申塔です。
花が供えてあり、おりんまであります。
解説をお読みください。
ONの庚申塔なのですがちょっぴり悲しいこともありました。
賽銭箱に「監視カメラ作動中」とあって
屋根に太陽電池パネルが取り付けてありました。カメラの電源でしょう。
ところが、太陽電池からのコードは断ち切られておりました。
賽銭箱には鍵。
賽銭を盗む「ばちあたりもの」がいるということですね。
何がかなしいといって、心がすさんでしまうことほどかなしいことはないでしょう。
バラの種をまいた経験はありません。
挑戦してみようかな。
「ひとのこと」よりやっぱり「しょくぶつ」や「どうぶつ」のほうが深みがあってたのしいなぁ。
完全リタイアして、外出が少なくなりました。疲労が蓄積しないのはいいのですが、足腰が大分弱ってきました。そりゃそうだ。
長年乗ってきたマーチを軽自動車ピノに乗り換えて、狭いガレージに何とかすき間をつくることができたので、このすき間を利用して、ハンドル型の電動車いすというのでしょうか、電動カートというのでしょうか、シニアカーというのでしょうか、をいれようと決心しました。
販売店が近くて行きやすいところを探して、ホンダのモンパルML200という機種にしました。
上の写真がそうです。
別に広告しようというわけではないので、他の会社の車種でもおそらく話は似たものでしょう、あくまで、私はたまたまこの機種にしたというだけのことです。他意はありません。
目立ちやすい方がいいんじゃない、という妻のアドバイスで、カラーは赤。
納車は10月30日でした。
私はもともとが左脚の障害者ですから、自転車の経験がありません。自動車を運転して40年、無事故・無違反で走ってはいますが、あくまでもこれは「箱の中」。
モンパルに乗って時速1~2kmで練習を始めてわかりました、むき出しの身体が、歩くより速い速度で移動する、という経験が私には全くなかったのですね。
緊張してしまいました。自転車に普通に乗れる方は笑ってしまうでしょう。たかだか時速1~2kmですよ、なのに、この身体の移動感覚は全く新しいものでした。
手を軽く握って走行レバーを軽く押し下げれば走り始めます。力はほとんど不要。なのに力んでしまって手が痛くなりそう。ハンドル操作は車のハンドル感覚とそう違いはないのですが、無駄に強く押してしまって、肩の筋肉が痛くなりました。
走行バーを軽く押していれば走行、手を離せばブレーキがかかって停止、です。
「危険に向かうには努力を必要とし、安全に向かうには努力は不要」という安全工学的な原則通りの設計ですね。
また、緊急事態でびっくりして、思わずギュッと走行レバーを握りしめてしまってもブレーキがかかります。緊急事態への反応・判断が鈍くなってきた年齢の身には親切な設計です。
午前中に納車されて、昼食後、さっそく隣の駅まで1kmほどを走って見ることにしました。往復2km。
時速4kmくらいにセットしておいて、適宜走行レバーを調節して走るのが楽です。
歩行者扱いですから、右側通行。
でも、うっかり歩道には上がれません。狭い歩道が多くてね。途中で降りたくっても、大きな段差を斜めに降りることはできませんから、さっと降りて事態に対応するなんてできません。ガードレールなどが敷設してある歩道の内側もかなり危険です。電柱がデンと立っていてギリギリのことろがあります。
今回は妻がついてきてくれたので、やばくないか?というと、先に歩いていって調べてくれましたからいいですけれど、一人の行動ではそうはいかない。気持よく走っていって、行きどまってしまったら大変。狭い歩道を、はいり込んだところまでバックで戻らなければなりません。これは辛い。
日本の「歩道」は貧弱ですね。
交通量の多い道を走るのはまだ避けたいので、広めの一方通行の道を、車に対する規制とは逆向きに走るのが一番心理的に楽でした。
車は前から来るので、視認しやすいし(バックミラーはありますがまだ目が届かない)、対向する車からも視認されやすくって気分的に楽です。
車の方も、気づいてくれているかどうかわからない車いすを追い越すよりは、対向してすれ違う方が楽だと思います。(私が運転者の場合、そうです。)
いやはや、けっこうくたびれましたゾ。
小さな公園の出入口の柵に「スズメ」がいましたよ。
昔、勤務していた品川の高校のそばにも、これと似たスズメさんがいましたが、ここでお目にかかるとは、懐かしい。
石榴の実。
弾けて中の赤い種が出てくるときれいですよね。
おいしいけれど、少し口が渋くなる感じもありますね。
車の下にいた白猫。
人慣れしていて、じっくり撮らせてくれました。
コンパクトデジカメをベルトにつけて走りました。その映像です。
一眼レフを買ってから使わなくなっていたコニカのZ3という中級機種も電池を充電してモンパルの前カゴに入れて走ることにしました。
今回はコンパクトデジカメのみ。
白猫ちゃんに出会えるとは、私のモンパル歴の出だしは「先祝い=さきわい=さいわい」なものとなったようです。
これから、生活のペースの中にモンパルが組み込まれます。昼間しかパソコンを開かない私ですから、モンパルの入った分、ブログ更新も遅れ気味になるかもしれません。
活動範囲の広がった「かかし」さんを「嘉し」て、ブログ遅れは何卒御容赦下さいますよう。
1cmくらいですかね。
何かの繭ではないか、という気もするのですが、さっぱりわかりません。
苦し紛れの冗談に「パンダの卵」などといっていますが、さて、なんだろう?
ネット上に「繭」の図鑑でもないかと探したのですが、見つけていません。
どなたか、コレみたことあるよ、という方、教えてください。
◆ホウネンタワラバチというハチの繭でした。
詳しくは11月13日付の下の記事をお読みください。
http://yamada-kuebiko.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-0488.html
かかし。
ふつう、こういう赤いダニは、5月を過ぎて、陽射しがきつくなり、焼けたコンクリートの上をすごい勢いで走り回っているのをみるんですが。
今の時期に見かけるのは珍しい。で、一抹の不安を感じながら、多分、タカラダニだと思います。
小さいし、動きが速いので、どうにもちゃんとした写真がとれません。
今回は暑い時に比べて動きがゆっくりでしたので、この程度の写真になりました。
ダニと言うのは分類的に言いますと
節足動物門 > 鋏角亜門 > クモ綱 > ダニ目
ということになります。
クモと近縁です。ですから、体は頭胸部と腹部からなり、脚は4対8本です。
どうも、嫌われ者ですが、実際にヒトの血を吸うなどというのはわずかなものです。
大部分は埃の中などで、ひっそり生活しています。
まぁ、完全駆除なんて無理ですから、減らす努力をした上で、「見えないものは存在しない」などと呟いていればよいのです。
2階の上の方で咲き始めて、接近できなかったオーシャン・ブルーですが、今どきになって私の身長程度の高さで咲いてくれています。
そこで、近寄ることができました。
こういう花です。朝に咲きますが、アサガオのようにすぐしぼんでしまうのではなくて、結構長い時間姿を見せてくれます。
花の中心に近寄って、フラッシュを浴びせたらこうなりました。
アサガオでもこんな感じの写真が撮れますが、このオーシャン・ブルーのほうがすごいですね。
本当に光が湧きだしてくるようです。光の泉、ですね。
花粉を撮りたかったので、頑張ってみました。
丸い粒々です。
ずいぶん気温が低くなってきましたが、いつまで咲いて楽しませてくれるのでしょうか。
画面いっぱいに写っているのがメス。
メスの腹側の網を挟んだ位置にいるのがオス。
まるっきり体の大きさが違います。オスは体長1cmちょっとでしょう。
オスは交尾目的に現れたのですが、まだ時期ではないのかもしれません。
というのは、「クモ学」という本によりますと、メスの最終脱皮の直後に交尾する層です。
このオスはずっとここにいます。おそらく餌と間違えられてしまう危険を冒して、交尾の機会を狙っているのでしょう。
時々、オスは位置を変えています。
この移動による網の振動をメスは捉えていないのでしょうか。
それとも、餌の振動とは異なる「風による振動」のような歩き方ができるのでしょうか。
餌の振動を検知すると、メスはすごい勢いで襲いかかります。
オスが少しメスに近寄りましたね。
でも、メスは気づいていないようです。
無事、交尾に至れますように。
メスが張っている網は立体的な奥行きがありますので、マクロレンズを使うのですが、接近できないのです。
で、こんな写真になりました。
姿形はジョロウグモですが、小さい。
こんなに差があるとは、実は知りませんでした。
行く末を見守りたいと思います。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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