添削
最近、私があまり崩彦俳歌倉のカテゴリーで記事を書かなくなっていることにお気づきの方もいらっしゃることと思います。
つまづいてしまった。
新聞紙上の「俳壇・歌壇」は、公募の場ですよね。絵画でいえば、日展とかなんとか、公募展でしょ。公募展で、審査員が応募作を見て、「これはあとひと筆、ここにあれば素晴らしい」などと言って、筆を加えたりはしないですよね。もし稚拙であっても作品は作品。独立した作品として鑑賞し、その出来栄えに関していろいろコメントがつくのはいい。
俳壇に採用された句が、選者の「添削」を経たものだ、というのは、俳壇の読者に対して礼を失していませんか?
結社の句誌なら、いくらでもお好きにどうぞ。でも、新聞俳壇は、「公募の場」なのではないですか?
選に当たって、添削を加えるなんて、私には信じられないことでした。
意気阻喪。意気消沈。
何か、別の形で俳歌倉を復活させたいとは思っているのです。これから少しずつ試みますので、見守ってください。
◆ところで、朝日新聞にはもう一つ「恋する大人の短歌教室」というこれはもう、正面切って「添削教室」があります。
これがまた。素人が何を言うか、失礼だろう、と言われそうですが、意気消沈。
ど素人なので気にしないでください。でもね、応募作が添削後には散文になっていることがあまりにも多いと思うんですよ。
{応募作}白いシャツパンと干す朝今日こそは君にサヨナラ言おうと思う
{添削後}パンと干す真っ白なシャツ今日こそは君にサヨナラ言おうと思う
朝の引き締まった冷たい空気の中での敢然たる決意が、ぬるくなりましたね。
{応募作}その笑顔、靴音おぼえていますからあの世で会えると思うのですが…
{添削後}靴音も笑顔もおぼえていますからあの世で会えると信じています
ね、みごとな散文になったでしょ。
{応募作}戯れに唇交わしその蜜に先に行けず後にも戻れず
{添削後}戯れに口づけ交わしその甘さに後に戻れず先にも行けず
秋元順子さんの「愛のままで」には「糸ひくような接吻しましょう」というドキッとする歌詞がありますが、応募作にあった同様の蜜の粘っこさが、サラサラにされてしまった。
{応募作}消し壺に放り込んでも一向に消えようとせぬ この恋はマジ
{添削後}この恋はマジ 消し壺に放り込んでも一向に消えようとせぬ
静かに燃え続け消えない(恋の)火を、低く落とした視線で眺め、思い出を探り、ため息をついて、最後のところで視線をぐっと上げて、「マジ」と言い放つ決断のドラマ。
ところが添削では、平板な散文。
字余りとか字足らずはあまり気にしなくていい。意味や調子の塊がまとまればいい。でもこの句跨りはみっともない。短歌のリズムで読めないじゃないですか。
寂しい添削が続き、気力がなえています。
どういう風に立て直したらよいものか。
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